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【お詫び】小説「天上の絵画」vol.7

2026年直木賞受賞者、小説家の川井利彦です。

今回は天上の絵画の第一部vol.7をお送りします。

皆さんに謝らなければいけません。
「天上の絵画」の第一部をvol.6までしか投稿していませんでした。
それなのに先に第二部を投稿しておりました。

誠に申し訳ありませんでした。

第一部を最後まで読んでいないのに「第二部です」と言われても楽しめませんよね。

とんでもないミスです。反省です。

急ぎ第一部の最後まで投稿しますので、ぜひ読んでみてください。

まずはvol.7をお楽しみください。



7 二○二一年 渡井蓮 二十三歳

 英司から送られてきた住所に行ってみると、そこは都内の高級住宅街にある高層マンションだった。雲に覆われた灰色の空をバックに、いくつものコンクリートの塔が、林立している。無機質な冷酷さが、部外者を一切寄せ付けない。蓮は慄然としたが、勇気を振り絞り、マンションの敷地内に入った。広大な前庭を抜けて、豪華な装飾が施されたエントランスに向かう。防犯カメラが数メートル間隔で設置されており、赤ランプが点滅しているのが分かった。エントランスに入ると、オートロック前の操作盤で、事前に知らされていた部屋番号を押した。【三四〇七】。エントランス内にも、防犯カメラが設置されている。数回の呼び出し音の後、応答があった。
 『奥のエレベーターから、上がってきてくれ』
 解除されたオートロックを抜け、下層階行きのエレベーター群の前を素通りし、奥にある上層階行きのエレベーターに乗り込んだ。エレベーターを降りると、周囲を見回し英司の部屋を探した。呼び鈴を押すと、玄関の扉が開き、髪を下ろし眼鏡をかけた英司が現れた。
 「あぁ。入ってくれ」
 「…お邪魔します」
 中に入ると、広々とした玄関に見るからに高級そうな靴が何足も並んでいる。英司は高級ブランドのロゴがプリントされたTシャツと、ハーフパンツという身軽な格好で、人二人がなんなくすれ違える廊下を進む。絵の具とニスの匂いに、鼻腔を刺激された。数年ぶりの邂逅に気持ちがついてこない。左右の壁には、数枚の絵画がかかっていた。蓮は一枚の絵の前で足を止めた。髪の長い美しい女性が、まっすぐこちらを見つめている。細かい筆づかいで描かれた引き込まれるような茶色の瞳に、息を飲んだ。蓮は妙な違和感を感じた。
 この女性とどこかで会ったことがある…。
 「おい。こっちだ」顔を向けると、英司が手招きしている。「適当に座ってくれ」L字型の革張りのソファを手で示した。
 「ビールでいいか?」
 「ああ」そわそわしながら、ソファに腰かけた。普段座り慣れていないからか、尻と背中がしっくりこない。居心地の悪さを感じながら、天井を見上げた。吊るされたシャンデリアが、周囲をオレンジ色に染める。視線を下げると、映画館のような巨大なテレビモニターが、壁の中に埋まっている。英司はバーカウンターからグラスを二個取り、レバーを引いて黄金色の液体を注いだ。蓮の視線に気がついた英司が「特注で作らせたサーバーなんだ」と自慢げに言った。レバーを反対方向に傾けると、白い泡がグラスの淵ギリギリまで注がれた。
 「うまいもんだろ。けっこう練習したんだぜ」
 英司からグラスを受け取ると、ビールの冷たさが肌を刺した。
 「じゃあ、久々の再会に乾杯」
 グラスを軽くぶつけると、キンと甲高い音が短く響いた。英司は一気に半分ほどビールを呷ると、満足そうに目を細めた。蓮は一口飲んだけで、グラスをテーブルに置いた。
 「ホント、久しぶりだな。しかもまさかあんな場所で再会するとは、思ってもみなかった」
 「個展はどうだった?」
 「大成功。来場者数も関係者含めて、過去最高だ。展示の絵も完売した。ニューヨークに向けての弾みがついたよ。海外の客も多かったから、今度はヨーロッパで個展を開かないかと誘われた」
 「良かったな。昔から海外で個展を開きたいって言ってたし」
 「ようやくだ…。ようやく、ここまで来た」英司は水滴のついたグラスを見つめながら、感慨深げに答えた。
 出会った頃から「日本はダメだ。俺の才能を理解できない。俺は海外だ」とよく口にしていた。それを見事に実現させてしまうとは、親友として誇らしい。だが素直に祝福できない自分もいることに、蓮はかすかな戸惑いを感じた。
 「その考えは今でも変わりない。俺は、日本みたいな小さな島国におさまるような器じゃない」ソファの背もたれにふんぞり返り、両手を広げた。
 蓮が苦笑すると「なんだ、その顔は」と、冗談ぽく肩を殴られた。
 「英司なら絶対、夢を叶えると思ってたよ」
 「嘘つけ。ガキの頃から、そうやって鼻で笑ってただろ」
 酒の力もあってか、学生時代の思い出話に大いに花が咲いた。まるで十代の頃に戻ったようで、儚い郷愁に胸がいっぱいになった。
 「あのコンクールで俺が負けたのは絶対におかしい」
 「知るか。そんなことは、年寄りの審査員に言ってくれ」
 蓮が軽口を叩くと、英司が腹を抱えて笑った。こんな楽しい時を過ごすのは、何年ぶりだろうか。永遠にこの時間が続けばいい。蓮のささやかな願いが、アルコールの混じった息と共に宙を漂う。
 「そういえば、中学の田中先輩…覚えてるか?」
 蓮が二杯目グラスを空にした頃、おもむろに英司が言った。
 「いや…覚えてない」
 英司はグラスに入った四杯目のビールを飲み干すと、唇を指先で拭った。「相変わらず、他人に興味がないんだな」蓮に軽蔑的な眼差しを向ける。
 「美術クラブの一つ上の先輩だ。蓮と俺がコンクール用の絵を台無しにした」
 「あっ」髪をおさげにした丸顔の女子生徒と、か細い泣き声がフラッシュバックした。
 「田中先輩、個展に来てくれたんだ。結婚して旦那さんの転勤についていくからって、わざわざ。再来月には、子供も産まれるらしい」五杯目のビールを注ぎながら、声を落とした。
 「その時言われたよ…。『あの絵を台無しにしたのは、岩谷君と渡井君でしょ』って」バーカウンターにもたれて、視線を下げた。
 心臓が大きく一度だけ跳ねた。
 「てっきり文句でも言われるのかと思ったら違った。『絵を台無しにしてくれてありがとう』だと」苦笑した英司が、グラスを持つ手を振った。
 「絵がダメになって、自分には才能がないって気がついた。あのことがなかったら、未だに絵にしがみついていたかもしれない。おかげで今は幸せだって」グイっとビールを呷った。
 「旦那さんの写真も見せてもらったけど、優しそうで良い人そうだった。本当に幸せそうだったよ」大きく息を吐いて「なあ、蓮…」と天井を仰いだ。
 「幸せってなんだろうな」
 酔っぱらって冗談を口にしているのかと思ったが、声の雰囲気は真面目そのものだった。
 「俺は、結婚とか子供とか全くと言っていいほど、興味がない。何ならただの重荷としか思えない」英司が眉をしかめた。「絵は俺の全てだ。諦めるなんて、これぽっちも考えられない」
 絶対的な自信と、卓越した技術がそれを物語っている。今も昔も英司にとって、絵が全てだ。
 「でもあの人は、幸せなんだと。絵を描かないことが幸せで、ダメにされたことを本気で感謝してる」
 蓮にも絵を描いているだけで、幸せだった時間があった。湯澤の元で学び、英司と互いの技術を競い合う。そんな日常が永遠に続けばいいと、心の底から願っていた。しかし、現実はそんなに甘くなかった。他者からの心ない謀略によって、脆くも崩れ去った。蓮にとって幸せとは、波打ち際に作られた砂の城だ。どれだけ巨大で豪華絢爛な城を作っても、打ち寄せる波に抗うことは絶対にできない。
 「なんなんだろうな。幸せっていうのは…」
 呟くように言った英司の言葉が、頭上から重くのしかかる。
 「英司。飲みすぎじゃないか」
 戸惑いと陰鬱さを振り払うように、笑顔を浮かべた。
 「なあ、蓮」英司がまっすぐな視線を向ける。「お前、どれくらい描いていないんだ」
 「えっ」蓮の目が泳いだ。
 「親友の俺をごまかせると思ったのか。久しぶりに会って、すぐに気づいたよ。お前から、絵の具とニスの匂いがしないって」
 思いがけない 
 「蓮…。お前まだ、あのことを引きずってるのか」


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