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小説「天上の絵画」第一部 vol.10

2026年直木賞受賞者、小説家川井利彦です。

今回は小説「天上の絵画」第一部 vol.10をお送りします。

前回のお話はこちらです。

「そもそも天上の絵画って何」という方はこちらから。



10 二○二一年 渡井蓮 二十三歳
 「蓮に見てほしいものがあるんだ」
 英司はそういって、リビングを出ていった。後ろからついて行った蓮は、あの絵の前で思わず足を止めた。美しく可憐な女性が微笑を浮かべて、まっすぐこちらを見つめてくる。
 やはりどこかで見たことがある…。
 妙な既視感を感じたが、嫌な気分はしなかった。
 「それは…滝野だ」
 驚いて振り返る。
 「覚えてるか。芸高で一緒だった。滝野優愛。『油彩クラブ』も一緒だっただろ」
 美しい黒髪に、やや垂れ下がった目尻、すっきりとした鼻筋。清楚な面影は、彼女が描く絵画にも如実にあらわれていた。
 「実は今、いろいろ手伝ってもらってるんだ。この前の個展もスタッフの一人として、運営に関わってた。蓮が来た日は、別の仕事でいなかったんだが、後でお前のことを話したら、どうして連絡してくれなかったのって、不貞腐れてたよ。今日も声をかけてやればよかったかもな。優愛も蓮に会いたがってた」
 
 『渡井君の絵。私、好きだよ』
 
 片手で髪を抑えながら、振り返った滝野が、柔らかく微笑んでいた。顔面が熱くなり、耳の先まで真っ赤になったことを今でも覚えている。
 「そうか…」素っ気なく言うと、絵から離れた。
 「ここだ」滝野の絵からちょうど斜向かいにある扉を開けた。「俺のアトリエだ。いつもここで絵を描いてる」部屋の中から絵の具と強烈なニスの匂いが、漂ってくる。思わず眉根を寄せた。
 「散らかってるが入ってくれ」
 ちらりと中を覗くと、描きかけのキャンバスやイーゼルが並べられ、テーブルの上には、蓋の開いた絵の具や汚れたパレット、濁った水が張ったままのバケツが置かれていた。
 「いや、いいよ」蓮は中に入るのを躊躇った。
 「そんなこと言わず入ってくれ。蓮にどうしても見てほしい絵があるんだよ」部屋の中に入った英司は、中央に置かれた、布のかかったイーゼルの前まで行った。
 「これだ」そう言って、布を剥ぎ取ると、中から一枚の絵画が出てきた。
 蓮はその絵画に、目を奪われた。
 均整の取れた美しい構図、斬新な色使い、見た者の心を鷲掴みにする恐ろしい魅力が、その絵画の端々から溢れ出ている。縦四一〇㎜、横二七三㎜の大きさの中に、無限に広がる宇宙のような計り知れない可能性を感じた。
 蓮は瞬きも忘れ、絵画を見つめたまま呆然と立ち尽くしていた。他人の絵画に対して、こんな感情は抱くのは初めてだった。
 「ちょうど昨日書きあがったんだ。スタッフもマネージャーもまだこの絵の存在すら知らない。完成したら驚かせてやろうと思ってな」
 ゆったりとした口調の中に、己に対する自信と誇りが垣間見えた。
 「どうだ。蓮」振り返った英司の表情が輝いている。「岩谷英司の最高傑作だ。今の俺が持ってる技術と情熱を、全て注ぎ込んだ」
 「タイトルはまだ決まってないが、ひとまずは完成だ。俺はこれをニューヨークへ持っていく。この絵を見たニューヨークのやつらの驚く顔が目に浮かぶよ。小さな島国の若造となめてかかってくるやつらの鼻を明かしてやるつもりだ」
 慈しむような眼差しで、キャンバスの木枠を撫でた。
 「あとはサインを書く」
 「サイン…」蓮が独り言のように言った。

(vol.11へつづく)

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