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小説「天上の絵画」第一部 vol.9
2026年直木賞受賞者小説家の川井利彦です。
今回は小説「天上の絵画」第一部 vol.9をお送りします。
主人公の渡井蓮が絵をやめてしまうきっかけになった重要なお話です。
ぜひ最後までお楽しみください。
そもそも「天上の絵画を知らない」という方はこちらから。
前回のお話をまだ読んでいない方はこちらから。
9 二〇一五年 渡井蓮 十八歳
土曜日。葉桜が初夏の生暖かい風に吹かれ、サワサワとぎこちない音を奏でている。
「おい。蓮!」
下校しようとしていた蓮の肩を、後ろから英司が掴んだ。
「帰るのか?クラブには顔を出さないつもりか。みんな心配してるぞ。滝野だって―」
身体を振って、腕を払った。「体調が良くないんだ」ぶっきらぼうにそう言うと、顔を背けた。
蓮と英司は、中学卒業後、共に都内にある有名芸術学校『東京都立芸術高等学校』に入学した。それまでの実績が評価された二人は、特待生としての入学が認められ、実技試験を免除、さらに補助金制度も適用され、授業料は通常の半額以下となった。この学校は『美術科』『音楽科』『舞台表現科』があり、さらにそこからそれぞれの専攻学科によって、細かく枝分かれしている。蓮と英司は『美術科』の『油彩画専攻』を選んだ。生徒数は、約四百名。関東近郊だけでなく、地方からも実力のある生徒が大勢集まってくる。他校のような校則は存在せず、性善説に基づいた生徒達の良識に委ねられている。さらに、定期試験や入学試験等がある日を除いて、ノーチャイム制を導入し、数週間に一度、土曜日学習を設けており、制作や練習のために、練習室などの学校施設を開放している。制服は式典などの行事がある時のみ、着用が義務づけられているが、普段の服装は基本的に自由だった。
授業の他にクラブ活動も行われており、希望生徒のみだが、平日の放課後や土曜日の午後に主に活動している。蓮と英司は入学した当初から『油彩クラブ』に参加していた。活動内容は、コンクールや文化祭出品のための作品制作が主で、十八名の生徒が在籍している。四月からは、英司がクラブ長を務めていた。
「蓮…。最近、絵を描いてるのか?」
仏頂面の蓮は、口を開こうとしない。
「湯澤先生に聞いたぞ。教室にもずっと行ってないんだろ」湯澤の教室には、高校一年生の冬頃から通っていない。まだ籍は残っているが、どうしても気分が乗らなかった。「どうしたんだよ。絵を描くことをあれだけ楽しんでいただろ。天才と呼ばれたあの渡井蓮は―」
「その言い方はやめてくれ!」
突如憤慨した蓮が、大声で叫んだ。二人の間に重苦しい空気が流れた。
「蓮…。まだあのこと、引きずってるのか」
『全国小学生絵画コンクール』金賞を始め、数々のコンクールで入賞を果たした蓮の存在は、入学前から注目の的になっていた。「天才が入学してくる」先輩生徒達はそう言って、蓮のことを揶揄していた。特に『油彩画専攻』では、いったいどんな人物がやってくるのか、根も葉もない噂話が飛び交っていた。そしていざ蓮が入学してくると、一目顔を見たい大勢の生徒が、教室に集まり連日お祭り騒ぎとなった。当の本人はというと、まるで他人事のように、何食わぬ顔で淡々と絵を描いていた。そんな蓮の冷めた態度が、最悪の事態を引き起こすとは、この時は思ってもみなかった。
「もう一年以上経つし、先輩達はとっくの昔に卒業してる。もう誰もあの時のことなんて、覚えちゃいない」
蓮の澄ました態度が気に入らなかった、数名先輩生徒がいじめを始めたのは、入学して三ヶ月後のことだった。最初は、故意に肩をぶつけてきたり、足を引っ掛けたりと些細な悪戯程度だったが、次第にエスカレートし、筆や絵の具を隠されたり、鞄をプールに沈められたこともあった。学校側もいじめの存在に薄々気づいて始めていたが、自由な校風をモットーとしているため、積極的に関わろうとはしなかった。
さすがの蓮も、いじめられていることにショックを受け胸を痛めたが、湯澤と絵の存在が心の支えとなり、平穏と冷静さを保つことができた。そのおかげもあり、八月に行われた『ヤングアーティスト公募展』では優秀賞、九月に開催された文化祭では、経験豊富な二、三年生を相手に、校内トップに選ばれた。この結果にいじめていた先輩生徒は舌を巻いた。蓮の圧倒的な才能と実力を前に、牙抜かれた獣のように遜った。だが、そんな先輩達の姿は、蓮の視界には入っていなかった。絵を描くことが全てであり、それ以外のものに興味を持たない蓮にとって、先輩生徒は空中を漂う塵や埃と変わらなかった。自分の人生に必要のない存在。意識しても目にすることができない極小な汚物。蓮の欠点は、これらを悪気なく、堂々と態度に出してしまうことだった。純粋な子供がそのまま歳をとっただけの蓮は、人の気持ちを理解する心が抜け落ちていた。幼い蓮によって、顔に泥を塗られたと感じた先輩生徒の憤りが、この後起こる残忍な事件の引き金となってしまう。
「蓮の気持ちも分かる。俺だってあんなことされたら、正気じゃいられなかったかもしれない。滝野もクラブのみんなも、先生だって蓮に同情してる。だから戻ってこい。俺はまた蓮と一緒に絵を描きたいんだ」
二学期の期末試験も終わり、冬休みを間近に控えた十二月のある日、事件は起こった。
その日、蓮が『油彩クラブ』に顔を出すと、たくさんの生徒が教室の中央に集まり、騒然としていた。「ねえ…」蓮に気がついた生徒が、他の生徒に声をかける。振り返った生徒が、同情の眼差しを向けてくる。訝しく感じた蓮が近づくと、身体をずらして道を開ける。皆の視線の先を追った蓮は、愕然とした。キャンバスが粉々に砕かれ、布は無残に切り裂かれていた。しかも一枚ではなく、複数枚のキャンバスが跡形もなく破壊されている。そして、そのキャンバスは全て蓮のものだった。中には年明けに開かれるコンクールに出品予定の作品も混じっていた。
ゴミ屑と化したキャンバスを呆然と見下ろす蓮の中で、何かが弾けた。
背後から視線を感じ、顔を向けると数名の先輩生徒が壁にもたれかかり、ニヤニヤと嘲笑を浮かべていた。間違いなく彼らの仕業だ。しかし、証拠はどこにもなかった。
彼らの蓮に対する嫉妬と恨みが、くっきりとした輪郭と確かな温度をもって目の前に横たわっている。ここにきてようやく蓮は理解した。自分の置かれている危うい立場と人の怖さを…。
絵を描くことが楽しかった。蓮の絵を皆が「上手」とほめてくれた。父親と母親が喜んでくれた。湯澤が笑ってくれた。キャンバスを前にした時の幸福感と恍惚感が、たまらなく好きだった。誰かと比べる気もないし、本音を言えば比べられるのが嫌だった。皆で絵を楽しめばいい。入賞だとか、どの絵が勝ったとか、そんなことはどうでもよかった。蓮は本気でそう思ってきた。
それだけだったのに…。
ピンと張った精神の糸が、音もなく切れてしまった。
その日以来、蓮は絵を描かなくなった。
「英司に、分かるわけない…」
蓮とは正反対に英司は絶好調だった。高校一年の最後の大きなコンクールで金賞を受賞すると、そこから立て続けに入賞を果たす。二年生の文化際では、最優秀作品に選ばれ『美術科』のみならず『音楽科』『舞台表現科』を含めた全ての芸術作品の中で、トップに輝いた。二年生の作品が選ばれることは、異例のことであり、全校生徒の間で大きな話題になった。『油彩クラブ』のクラブ長で、今や『東京都立芸術高等学校』の顔となった英司に、蓮の気持ちが理解できるはずがない。
「えっ何?」
英司を一瞥すると、蓮はその場を後にした。
「待ってるからな!いつでもいいからな」
後ろから後頭部を、思い切り殴られたような衝撃を受けた。胸が絞めつけられ、息苦しさを感じた。心臓の鼓動が早くなり、全身の毛穴から嫌な汗が噴き出し、膝が震える。逃げるように、校門から離れた。
誰にも、僕の気持ちは分からない…。
(vol.10へつづく)