小説「天上の絵画」第一部 vol.11
2026年直木賞受賞者、小説家の川井利彦です。
今回は小説「天上の絵画」第一部 vol.11をお送りします。
前回のお話をまだ読んでいない方はこちらから。
「そもそも天上の絵画って何?」という方はこちらから!!
それでは本編お楽しみください。
11 二〇一二年 渡井蓮 十四歳
「サインって何?」
「マジで言ってんの!?」英司が目を丸くした。「自分の描いた絵に、サインを書くんだよ。普通は」
「どこに?」
「絵の右下とか左下に小さく。キャンバスの裏に書く人もいる」
「どうやって?」
「細筆が多いけど、鉛筆で書く場合もある」
「書いたことない」
「マジで!?ありえない」英司がわざとらしく頭を抱えた。「あんなにたくさん描いてきて一度も?」
蓮が真面目な顔で、こくんと頷いた。本当にこれまで一度も書いたことがなかった。なくさないよう裏にフルネームで名前を書いたことはあるが、サインなんて大げさなものではない。
「名前じゃダメなの?」
「ダメじゃないけど、ダサい」英司が吐き捨てるように言った。「ローマ字でかっこよく書いてあった方が、見栄えが良いだろ」
「そうかな…」蓮は肩をすくめた。
どうして英司がここまでサインにこだわっているのか、全く理解できなかった。
「よし!じゃあ蓮のサインを俺が考えてやる」
「別にいいよ」顔の前で、軽く手を振った。
「遠慮するな」そう言うと英司は、スケッチブックを開いて、サインペンのキャップを外した。「将来、お前の絵の贋作が出てくるかもしれない。その時にサインがあれば、本物だって証明できるぞ」
サインを真似されたら意味がないのではと思ったが、真剣な眼差しを向ける英司に、口を噤んだ。
「前から思ってたんだけど、渡井蓮って、めちゃくちゃかっこいいじゃん。絶対サイン映えする」
「サイン映え…」人の名前に、サイン映えするものとサイン映えしないものがあるのだろうか。
「やっぱりアルファベットだよな。『Ren』は外せない」
筆記体をさらに崩し、まるでミミズが這っているような、うねうねと曲がりくねった線を英司が書いた。
「どうだ」
「どうって言われてもな…」
「気にいらないのかよ」いまいち盛り上がらない蓮の態度に、機嫌をそこねたのか、英司が眉を寄せた。
「そうじゃないけど…。なんて書いてあるの?」
「『Ren・W』だ。外国人みたいでかっこいいだろ」
「これじゃ、なんて書いてあるのか。分からないよ」
「じゃあ、これならどうだ」
今度はうねうねした筆記体ではなく、角ばったブロック体で書いた。
「こっちの方がいいかな。書きやすそうだし」
「なんか普通だな」
「いいよ、俺はこれで。英司のサインはどんなやつ?」
「俺は、これだ」得意げな顔で、英司がサインを書いた。筆記体で『Eiji』と書くと、最後の『i』から線を伸ばし、円で全体を囲んだ。まとまりもよく、一流の画家が描いたサインっぽい雰囲気を醸し出している。
「いいじゃん」
英司が目元と口元をほころばせた。
「でも、名前だけなんだね。苗字は書かないんだ」
「…『イワタニ』なんてどうでもいい」英司は顔をしかめ、声を落とした。
不味いことを聞いてしまったかと、蓮は戸惑った。
「じゃあ蓮のサインは、これで決まりな」パッと顔を上げた英司が、気を取り直すように言った。
「…分かったよ」
蓮は、渋々といった様子で頷いた。英司には悪いが、サインを書く書かないは、個人の自由であり、せっかく考えてもらったが、今後もサインを書く気はなかった。