小説「天上の絵画」第二部 vol.8
2026年直木賞受賞者、小説家の川井利彦です。
今回は小説「天上の絵画」第二部 vol.8をお送りします。
前回のお話をまだ読んでいない方はこちらからどうぞ。
そもそも「天上の絵画」って何?という方はこちらから!
それでは本編お楽しみください。
8
渡井蓮のトークショーが開催されることを知ったのは、たまたま目にしたネット記事だった。
『天才少年が十三年ぶりに思い出の地に凱旋!画家としての原点を恩師と語る』
天上の絵画の一般公開に併せて、湯澤徹との対談も予定されている。
自分は行くべきではないのかもしれないとギリギリまで悩んだ。下手に顔を出せば彼が変な疑いを持つかもしれないし、本当に会って話がしたいのであれば、こちらから連絡すれば済む。何も片道二時間もかけて、わざわざ地元まで足を運ぶ必要はない。
それでも行くと決めた理由は二つある。
一つは『天上の絵画』の実物をこの目でしっかりと見ておきたかったからだ。彼は絵の中にはその人の本質が現れると言っていた。英司の事件と彼の間に、もし何か関わりがあるならば『天上の絵画』の中に真実が垣間見えるかもしれない。
もう一つは、会場である美術館に馴染みがあったからだ。実は高校生の時、この美術館でアルバイトをしていたことがある。大学受験が忙しくなる高校二年生の夏までのわずか一年たらずだったが、人の良いスタッフに囲まれ、充実したバイト生活だったことを今でも覚えている。洗練された技法と時代を越える魅力を兼ね備えた多くの芸術作品から、多大な影響を受けたことは間違いない。
美術館の名前を目にした瞬間、懐かしさが込み上げ目頭に涙が浮かんだ。例え渡井蓮に会えずとも今の自分にはあの場所に行く必要があるのかもしれない。
針葉樹に囲まれた遊歩道を抜けると、レンガ色の古風な建物が見えてきた。建物前の広場にはすでに大勢の人が長蛇の列をなしており、最後尾と書かれたプラカードを持った警備員が拡声器を使って呼びかけていた。
「展覧会に参加される方は、こちらの列にお並びください」
列に並んでいるのはほとんどが大人だったが、小学生くらいの子供の姿もちらほらと見えた。皆、開場されるのを今か今かと待ちわびている。
列の横を素通りし、美術館の裏側に回った優愛は、従業員専用の通用口に向かった。前日に降った雨でできた水たまりを避け、通用口の前に立つと、小さく息を吐きスタッフ呼出用と書かれたインターホンを押した。優愛がアルバイトをしていた頃は、事務員がすぐに応答してくれたはずが、五分ほど経っても何も反応がない。イベント対応に追われてそれどころではないのか。優愛が諦めて引き返そうとした時、通用口が勢いよく開いた。
扉から出てきたスーツ姿の男性は、優愛の存在に気がつくと、足を止め怪訝な表情を浮かべた。
「何かご用ですか?」
走ってきたのか、息が少し上がっている。
「あっ私、高校生の頃ここでアルバイトしていた滝野と言います」
「はあ」男性は当惑気味に目を細めた。
「有名な絵の展示会があると聞いて、久しぶりに帰ってきたんですが、急に懐かしくなってしまって、思わずここに」
男性は早くこの場を離れたいのかそわそわしている。
「それであの…事務員の園原さんはまだいますか?」
「園原さん?」男性が美術館の方を振り返った。「あーいますよ」
「会えますか?」
「どうだろうな。今日はどこもバタバタしてるから」男性は早口で言った。「そのインターホンは壊れてるから、中に入って警備員に直接声をかけてください。じゃあこれで」
走り去る男性の後ろ姿に礼を言い、扉を開け中に入った。
女性警備員に事情を説明し、園原に会いたい旨を伝えると、ここで待つように告げ警備室の奥に消えた。
園原はアルバイトしていた当時、最も世話になった先輩事務員の一人だ。面倒見の良い性格で、初めてのアルバイトで不安でいっぱいだった優愛を常に気にかけてくれた。
「えっ滝野さん?」
声のした方を見ると、眼鏡をかけた小柄な女性が小走りで近づいてくるのが見えた。髪には白いものが目立ち、目尻には細かい皺が増えていたが、快活な声と大らかな雰囲気は間違いなく園原だった。
「お久しぶりです」嬉しさと懐かしさで目頭が熱くなった。
「こんなに綺麗になって。見違えたわよ。元気だった?」優愛の両手をつかみ、上下に振った。
「何年ぶり?」
「大学入学前だったので、五年前です」
「もう五年か。私も年取ったな」園原が自嘲気味に笑った。
「そんなまだまだ若いじゃないですか」
「あら、どこでそんなお世辞を覚えてきたの?」
園原の冗談に思わず声を出して笑ってしまった。戻ってきた女性警備員がちらりと顔を覗かせた。
「それで今日はどうしたの?あっ、あの絵?」
「はい」
「やっぱりね」園原がお手上げと言わんばかりに両手を上げた。「今日のイベントが決まってから大変だったのよ。段取りとか打ち合わせとか。偉い人が大勢押しかけてきたり、毎日問い合わせの電話がかかってきたり」
どうやら今日のイベント開催のために、美術館側は相当の負担を強いられているようだ。
「外の行列見た?昨日の夜中から並んでる人もいて、警備員が怒ってたわ。帰ってくれって言ってるのに、動こうとしないって」
「そんな大変な時に押しかけてしまってごめんなさい」
「いいの!いいの!あなたはいつだって、大歓迎。そっか。ずっと絵の勉強したから、気になるわよね」
「実はあの絵を描いた渡井蓮君は、高校の同級生なんです」
「そうなの!?」驚いた園原が目を見開いた。
「彼にお祝いを伝えたくて、ここまで来たんですけどー」
優愛の逡巡に気がついたのか、園原が首をわずかに傾けた。
「会わせてもらえませんか?」
「今!?」声を上擦らせた園原は、困ったように眉をひそめた。「どうだろう。そろそろ始まっちゃうし、そんな時間あるかしら」
「お願いします!どうしても彼に直接おめでとうを伝えたくて」
「…そういうことね」園原がいたずらっぽい笑みを浮かべて目を細めた。「ちょっと館長に掛け合ってみるわ。ここで待ってて」
駆け足で事務所に戻る園原の背中を見つめながら罪悪感を感じた。園原は勘違いをしているようだが、あえて否定はしなかった。
五分後、園原が戻って来た。館長が渡井蓮とマネージャーに優愛が来ていることを伝えに行っているから、もしかすると会えるかもしれない。ただし本番まで時間がないので、会えても二、三分が限界。それ以上は難しいということだった。
優愛が礼を言うと、園原がいたずらっぽい笑みを浮かべた。
英司の葬式以来、約二ヶ月ぶりの再会だったが、これまでとは印象が大きく違っていた。ボサボサだった髪を整え、紺のタキシードに身を包んだ姿は、日本を代表する画家としての風格が備わり始めていた。優愛が受賞を讃えると、渡井蓮は照れくさそうだったが、どこか誇らしげだった。
その後は他愛もない話をしただけで、時間になってしまい事件のことを切り出すことはできなかった。多忙のせいで疲れが溜まっているようだったが、他に変わった様子はなかった。
「じゃあ会場で」優愛が手を振ると、振り返った渡井蓮が少年のように笑った。とても人を殺しているようには見えなかった。
トーク会場にはすでに大勢の観覧客が詰めかけており、優愛は会場の真ん中辺り、ステージから三メートルほど離れた場所を確保するのが精一杯だった。ステージにはイスが二脚置かれ、そのすぐ隣には黒い幕がかかったイーゼルがあり、すぐそばに鋭い眼光の警備員が立っていた。おそらくあの幕の後ろに『天上の絵画』があるのだろう。興奮を隠せない一部の観客は、スマホを向けて写真を撮っている。
ネットやテレビのニュースで見たことはあったが、実物を見るのは今回が初めてだった。本当なら同級生の傑作を心の底から祝福したかったが、胸の内に張り出した暗雲に邪魔され。
司会者が登壇し「お時間になりましたので、始めたいと思います」と言うと、会場が水を打ったように静かになった。
今回のイベントの趣旨と注意事項が説明されると、渡井蓮と湯澤徹がそろって姿を現した。少し緊張した面持ちの渡井蓮と照れくさそうな湯澤徹の登場に会場から拍手が起こった。
「この後お二人にいろいろ訊いていきたいのですが、その前に皆様お待ちかねのお披露目タイムと参りましょう」司会者がそう言うと、ひと際大きな歓声が上がった。警備員が幕を取り払うと、観客が一斉にスマホを向けた。中には両手を合わせてまるで拝んでいるような老婆の姿もあった。
優愛は「天上の絵画」の実物を目にした瞬間、何かに弾かれたように立ち上がった。後ろにいた中年女性から「見えないじゃない」と叱責され、慌てて座ったが壇上から視線を外すことができなかった。胸の奥が締め付けられ、息苦しい。一番近い場所でいつも見てきた絵。最愛の人が描いていた絵。なぜか英司の存在をすぐ間近で感じ、涙が頬を伝った。
いくら親友同士で、共に絵を学んできたからといって、ここまで似た絵を描けるはずがない。相手の構図や筆づかい、色の特徴などクセを真似することはあるだろうが、これはほとんど模写に近い。優愛は渡井蓮の絵の特徴や描き方のクセを熟知している。その彼がこんな絵を描けるはずがない。
その時、刑事の言葉が脳裏をよぎった。
『現場の状況から考えて、顔見知りの犯行である可能性が高いんです。しかも筆を使っていることから推測すると、同じ画家ではないかと』『岩谷さんの周りに何か変化はありませんでしたか?例えば昔の友人と再会したとか』
疑惑の霧がだんだんと晴れていき、真実の景色が目の前に広がっていくのを感じる。
「いやー驚きましたよ。まさか彼がこんな素晴らしい絵を描けるようになっているなんて」
茫然自失となっていた優愛の耳に、湯澤徹の声が響いた。
「湯澤先生のところで学んでいたのは、確か中学生まででしたね」
「そうですね。高校に入ってからは、すっかり相手にしてもらえなくて。だから、ここにいることも場違いな気がして、どうも居心地が―」湯澤の自虐ネタに会場から小さな笑いが漏れた。「だから高校を中退したと知った時は本当に心配でした。このまま絵をやめてしまうんじゃないかって。でもこうして絵の勉強を続けてきてくれたことを知って感激しました。僕はこの絵には一切関わっていないので、偉そうなことは言えませんが、小学生だった蓮君の才能にいち早く気がついた一人として、誇りに思います」
「こちらの作品を見た時は第一印象はどうでしたか?」
「これまでの彼の絵とは全く違った印象を受けましたね。僕の元にいた時はもっと抽象的で柔らかいタッチの作品が多かったんですが、この絵は構図、色、線一本一本まで全て計算されていて、見る人に何を感じてもらいたいのか、どこを見てほしいのか、主張がはっきりしています。僕の知っている彼の絵は、その辺が曖昧で見た人それぞれが自由に感じることができました。画家としてこれまでの自分の作風を180度変えることは、とても大変なことです。僕では想像できないような努力を重ねてきたんだと思います」
「湯澤先生はこうおっしゃっていますが、渡井さんはどうですか?」
司会者から話をふられて、慌ててマイクを握った。
「先生のおっしゃる通りです。正直高校を中退した当時は、もう絵をやめようと思っていました。先生に連絡しなかったのも、申し訳ない気持ちと情けない自分を見られたくなかったからです。でも絵に対する情熱が消えることはなかった」渡井蓮が視線を下げた。「誰にも頼ることはできませんでした。だから独学で必死に勉強しました。ずっと絵のことばかりを考えて、自分の絵の何がいけないのか、弱点は何か、もっと大勢の人を感動させるためには何が足りないのか。必死に必死に考えました。孤独で辛くて何度も挫けそうになりましたが、その度に思い出したのは先生の教室です」
湯澤徹を見つめる眼差しに、高校のころの面影があった。
「あそこが僕の原点で、絵の楽しさを教えてもらった唯一無二の場所です。筆が止まりそうになったら、教室で描いている自分を想像するんです。すると筆がまた動く。先生との思い出が僕を支えてくれました。あの時がなかったら、今の僕はいません。湯澤先生。本当にありがとうございました」
教え子からの突然の告白に、湯澤は赤面しながら嬉しそうに目元を拭った。
まるで映画のような師弟愛に会場から割れんばかりの拍手が起こった。ハンカチで目頭を抑えている観客もいる。周囲が感動と優しさに包まれる中、優愛は不釣り合いな自分の気持ちに戸惑っていた。
画家がこれまでの作風を変えることはおかしなことではない。優愛自身も作風を変えたいと英司に相談したことがある。だが「作風を変えるのは、そんな簡単なことじゃない。だいたいが失敗で終わるからやめておいたほうがいい」ときつく止められた。現に英司は自分の作風を絶対に変えようとはしなかった。渡井蓮の才能ならわからないが、独学で作風を変えることは不可能ではないか。筆のタッチや色使いを変えるならまだしも、ここまで違った絵を描けるようになれるのだろうか。
心の中がザワザワとして落ち着かない。
出会った頃の渡井蓮がどれだけの才能を秘めていたのか。湯澤徹が語る思い出話に観客が耳を傾けている。だが優愛の意識は、別のところにあった。
「本当にあの絵を渡井蓮が描いたのか。もしそうじゃなかったら、あれは…」
疑惑が確信に形を変え始めている。だが信じたくない自分がまだ胸の奥深くにいた。警察にこのことを話すべきだろうか。でもそんなことをすれば、彼はどうなる。
「残念ですがお時間となってしまいました。お二人とも貴重なお話をありがとうございました。渡井蓮さんと湯澤徹先生に大きな拍手を」
観客からの暖かい拍手に見送られ二人が会場を後にした。
「あの人ならー」優愛は湯澤徹の後ろ姿を見ながら、唇を噛みしめた。
少し離れた建物の影からスタッフ通用口を見ていると、渡井蓮と女性マネージャーが姿を現した。走って来た初老の男性が、タクシーの後部座席を開けた。あれが今の館長だろうか。男性は深々と頭を下げて、タクシーを見送っている。渡井蓮とマネージャーを乗せたタクシーが美術館の敷地を出て行くのを待って、建物の影を飛び出した優愛は、ゆっくりとした足取りで通用口に向かった。その時通用口が開き、湯澤徹が姿を現した。
(vol.9へつづく)