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小説「天上の絵画」第一部 vol.8
2026年直木賞受賞者、小説家の川井利彦です。
今回は小説「天上の絵画」第一部vol.8をお送りします。
前回お詫びとしてvol.7を投稿いたしました。
よくよく考えてみたら、第一部はまだまだ続きがあって、これを投稿していなかったことに自分自身絶望しております。
#反省
まずはvol.8をお楽しみください。
8 二〇一二年 渡井蓮 十四歳
『みんなの絵画コンクール 中学生の部』
金賞「渡井蓮」 銀賞「岩谷英司」
職員室前の廊下にある、ガラス扉の棚に並べられたトロフィーを見つめながら、英司が舌打ちをした。
「また、負けた」悔しさで唇を噛みしめている。
「あーどうしても、蓮に勝てない」
「惜しかったな」蓮がからかうと、肩に拳が飛んできた。
中学一年生の頃から、蓮はほぼ全てのコンクールで、入賞を果たしていた。自宅には賞状やトロフィーが数多く飾られている。圧倒的な才能を前に、絵画界がざわつく中、蓮は普段と変わらず飄々としていた。新しい先生の元で学び始めた英司も、賞や特別賞に選ばれることが多くなってきたが、蓮には一歩及ばなかった。受賞者の欄に、蓮と英司が並ぶ様が当たり前になりつつなる中、浮足立ったのは学校の方だった。突如現れた二人の天才に、職員達は大いに盛り上がり、二人が入賞すると、学校をあげて祝福した。美術部の新入部員は、例年の三倍に膨れ上がり、部費も倍増した。おかげで、普段活動をしていた美術室が手狭になり、広々とした多目的室に移ることになった。キャンバスなどの資材は、全て新品に入れ替えられた。一躍注目の的となった二人の生徒を、全校生徒が一目見ようと、部活時間になると、黒山の人だかりができた。風の噂で、英司のファンクラブも結成されたと、耳にしたことがある。
「次の絵画展では、構図を大きく変えてみようと思うんだ。昨年と一昨年の入賞作品を見たけど、古典的な構図が選ばれてた。審査員の年齢層も高めだから、革新的な構図よりも、古き良き伝統的な絵の方が受けが良さそうだ。見てみろ」
英司がタブレットをひっくり返した。蓮は一瞥すると「フーン」と膝の上に乗せたスケッチブックに、視線を戻した。
「…興味ないだろ」呆れた様子の英司が、ため息交じりに言った。「蓮は自分の絵しか見えてないからな」
自室の床に、胡坐をかいた蓮は、真剣な眼差しで下書きを描いている。
蓮にとって絵を描いている時が最も幸福感を感じる瞬間だった。コンクールで入賞することにも、周りがどんな絵を描いていることにも、全く興味がなかった。唯一英司がどんな絵を描いているのか、少し気にはなったが、あくまで自分の絵が蓮の中心だった。
「そんなことないよ。英司の描く絵は、どれもすごいよ。毎回新鮮で驚かされる」視線を下げたまま、蓮が抑揚なく言った。
「嫌味にしか聞こえねえぞ」
頭の後ろで手を組んだ英司は、寝転がり天井を仰いだ。
「蓮はさ、将来どうしたいとかあんの?」英司が物憂げな表情を浮かべた。
「…考えたことないかな」下書きの手を止めず、蓮が淡々と答えた。「しいて言うなら、絵は描いていたいな」
英司が鼻を鳴らしたのが分かった。
「絵を描いてるだけで幸せか…」囁くように言うと、首を回して壁にかけられた賞状を見上げた。「じゃあ何でコンクールに出品すんだよ。お前の絵がなければ、俺のが入賞できたのに」
「だって、先生が出品しろって言うから」
「そんな理由!?」勢いよく英司が身体を起こした。
思わず手を止めた蓮は目を丸くして、わずかに頷いた。
「それに入賞すれば、先生が喜んでくれるから」
「じゃあ湯澤先生が出品しなくていいって言ったら、しないのかよ」
そんなこと考えたこともなかったが、言われてみれば蓮からコンクールに出場したいと思ったことがなかった。全て湯澤や両親が喜んでくれると、考えて決めたことだった。この理由がなければ、もしかすると一度も出品しなかったかもしれない。
「そうだね」
「なんだ、そりゃ」
「英司は、どうしたいの」
「俺は絶対に海外に行く。日本じゃ俺の才能は理解されない」
「前にも聞いた」
「何度でも言ってやる。俺は絶対に海外に行くぞ!こんな所で終わる器じゃないんだ、俺は」
力強く立ち上がった英司は、壁の賞状をまじまじと見つめた。蓮に勝てないのがよほど悔しいのか、目の奥に憤りと焦りが見て取れる。純粋な羨望はやがて嫉妬に変わり、自らの首を絞める。恐怖にも似たその感情は、十代の英司には扱いきれるものではない。
「まあ、頑張ってよ」
「この野郎~」英司が笑いながら、蓮の腕の中からスケッチブックをひったくった。
英司がなぜここまで評価や海外にこだわるのか、以前聞いたことがあるが、軽く流されただけだった。人には言いたくない理由があるのか。もしくは蓮には、話したくないのか。
「返せよ!」蓮が飛びついて、英司の腕に手を伸ばした。だがするりと身体を躱され、その場でつんのめった。英司が舌を出して、挑発する。「この!」
スケッチブックを取り返そうと、英司の後を追いかけ、狭い部屋の中を走り回る。気がつくと、口元が綻び笑顔がこぼれ落ちた。
「ちょっと、何騒いでるの!」母親の声が、階下から響いた。
次の日の放課後、多目的室に入ると、すでに英司が来ていた。周りを見渡すと、他に生徒はおらず、英司は一人腕を組み、一枚のキャンバスを見下ろしている。よく見ると、かすかに嘲笑を浮かべているのがわかった。
「どうした?」蓮が声をかけると、英司が振り返った。
「よお。…見てみろよ」顎でキャンバスを示す。見ると、綺麗に色付けされた風景画が描かれていた。
「誰の?」
英司はキャンバスの裏面を見た。「田中先輩だな」
うっすら記憶している。おかっぱ頭の一年先輩の女子生徒だったはずだ。
「フーン。上手だな」蓮が覗き込むと、英司が軽蔑の眼差しを向けた。
「ハア、どこが。下書きのバランスも悪いし、塗りも甘い。構図もありきたりでつまらない。小学生の落書きの方がまだ上手い」
あまりの酷評に不快感を感じたが、あえて口にはしなかった。
「しかも、見てみろ」英司が指先でトントンと木枠を叩いた。「今度のコンクールに出品するらしいぞ。この絵で」ちらりと見ると『産経ジュニアコンクール』と書かれたシールが貼られていた。
「別にいいだろ。学生なら誰でも参加できるコンクールなんだから」
「良くない。俺だって出品するんだ。これが先輩の絵だと思われたら、俺の名前に傷がつく」
それは被害者意識が強すぎるのではと、あ然としたが、英司は真剣だった。
「こういう勘違いには、きっちり現実を分からせた方が、本人のためだ」
「何もそこまで言わなくても…」筆とパレット、描きかけのキャンバスを鞄から取り出した。「でも何でこんなところに」
多目的室は美術室とは違い、キャンバスを保管しておく棚やスペースがない。そのため部員達は、自分達でキャンバスや道具類を持ち歩かなくてはいけなかった。授業の教材と併せて、絵の道具まで揃うと、大荷物になってしまうため、教室のロッカーの中にこっそり隠している部員も多い。蓮は無くしたり汚されたりするのを防ぐため、筆やパレットはもちろん、キャンバスも一枚一枚カバーの中に入れて、持ち歩いていた。
「おっ、もうすぐ完成か」英司が目を細めた。
産経ジュニアコンクールに出品予定の絵が、完成間近だった。昨日、湯澤の教室で一気に描き進めた。元々この絵は、コンクール出品用には、描いていなかったが、湯澤の強い勧めもあって、数日前に出品することを決めた。そのことを英司に伝えると「また、俺を邪魔する気か」とブツブツ文句を言われたが、どことなく楽しそうだった。
「なんだ、これ。初めて見る色だな」キャンバスに顔を近づけた。
「昨日、先生のところで試しに作ってみたんだ。意外といい色で合いそうだったから、使ってみた」
「確かに、悪くない…。配合は?」
蓮が色の種類と配合比を教えると、英司は真剣な眼差しで、メモ用紙に書き留めた。
「まだ残ってるから、英司も使う?」絵の具が入ったチューブを差し出した。
英司がチューブを手に取った。「いやいい。いい色だけど、今回の俺の絵には合わない」キャップを開け、パレットに絵の具を出す。「…これでまた一歩、大賞に近づいたってか」皮肉ぽく言いながら、パレットを目線の高さまで持ち上げ、まじまじと絵の具を見つめた。
「今回は自信ないよ。コンクール用に描いてたわけじゃないし」
「でも相変わらずレベルは高い。こういう絵と比べられたいんだ、俺は」
遠回しに田中先輩の絵のことを、批判しているのか。いい気分はしなかった。
「この色を使ったら、もしかしたらこれも―」身体の向きを変えた途端、パレットが英司の手から落ちた。
「あっ」
蓮が気がついた時には、ひっくり返ったパレットが、絵の上に落ちた後だった。
「ヤバッ」英司が慌ててパレットを掴むが、田中先輩のキャンバスにべったりと絵の具がついていた。
「ちょっと」無残な姿になってしまった、キャンバスを見下ろす。「どうするんだよ」
今にも泣きだしそうな顔で、英司が立ち尽くしている。
「すぐに、拭かないと」布巾を取った。
「やめろ」英司が声を震わせた。
「もう無理だ。こうなっちゃったら…」
「でも…」
英司の言う通りだった。これだけ大量の絵の具がついてしまうと、ちょっと拭いたくらいでは、さらに被害を拡大させてしまう可能性がある。修復するためには、上からもう一度塗り直す以外に、手はない。しかしコンクールの締め切りは、今月末だ。今日から寝ずに修復したとしても、間に合わないだろう。
「とにかく、先生呼んでくる」蓮が踵を返そうとした瞬間、英司に腕を掴まれた。
「いいよ」低い声で囁くように言った。「このままにしておこう」
「えっ」蓮は自分の耳を疑った。「なんて言ったの?」
「だから、このままにしておくの」英司は、パレットや絵の具を片付け始めた。「俺も蓮も今日は、ここに来ていない」
「そういうことにする」蓮の胸に鞄を押し付ける。「いいな」
「待ってよ!」声が上ずった。「そんなことできるわけないだろ。正直に打ち上けて、田中先輩に謝った方がいい。英司は、わざとやったわけじゃないって、僕もみんなにそう言うから」
英司が非難めいた眼差しを向ける。「蓮…。お前分かってないな。お前が疑われるんだぞ」
「どうして僕が…」眉をひそめ怪訝な表情を浮かべた。
「だってそうだろ。この色は、お前しか作れないんだ」英司がわざとらしく肩をすくめる。「これを見た奴は、真っ先にお前がやったんだって、思うはずだ」
「そんな」蓮は愕然とした。「でも英司が―」
「俺は今日はここに来ていない!」
射るような鋭い眼光を、蓮に向ける。恐怖ですくみ上った蓮は、とっさに口を噤んでしまった。
「だから、蓮もここには来ていないことにしよう」悪魔の囁きに胸騒ぎを覚えた。「それにな…これで良かったんだよ」英司が田中先輩のキャンバスを掴み上げ、侮辱の眼差しで見つめた。
「どうせこんな絵を出品したって、入賞どころか審査員特別賞にだって選ばれない。恥をかく前に、身を引くのが先輩のためだ。自分には才能がないと、分からせてやるのも、選ばれた人間の役割なんだ」
英司の自分勝手な物言いに、蓮は戦慄した。選ばれた人間の役割だか、何だか知らないが、田中先輩にとってそんなことは余計なお世話だ。自分の失敗を棚に上げ、相手を見下すなんて言語道断。決して許されることじゃない。だが…。英司が知らないと言えば、疑いの目は蓮に向けられる。この色を作り出せるのは、この世に蓮しかいない。どれだけ声高に自分の身の潔白を証言したところで、信じてもらえるのだろうか。風船のように膨れ上がった不安感に、胸をえぐられた。
「早く行くぞ」英司に急かされ、仕方なく多目的教室を後にした。
悲惨な姿に変貌したキャンバスを前に、田中先輩は悲嘆に暮れ嗚咽を漏らしている。周囲を囲む先輩達が代わる代わる励ますが、そんなことをしても、絵が元通りになるわけではない。その様子を遠巻きに見ていた蓮は、胸を締め付けられ、息苦しくなった。正直に打ち明けようかと、何度も思った。だがその度に、英司の姿が視界の隅に映る。澄ました顔でまっすぐ前を見つめる、堂々たるその姿に背筋が凍りついた。自分が無関係であることに、微塵の疑いももっていない。
結局、絵の具をかけた犯人が、名乗り出ることはなく、真相はうやむやになったまま、人々の記憶から風化していった。
蓮は、納得できなかったが自己保身のため、あの色の部分を別の色に塗り直すことにした。徹夜で塗り直し、なんとかコンクールの締切に間に合わせた。
数カ月後、結果が発表され、蓮の絵が大賞を受賞した。英司の絵は、審査員特別賞に選ばれた。
(Vol.9へつづく)