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小説「天上の絵画 第二部 vol.4」

こんにちは。未来の直木賞作家、小説家の川井利彦です。

今回は小説「天上の絵画 第二部 vol.4」をお送りします。

今回は、主人公渡井蓮のマネージャーを務める上杉弥栄子のお話です。

彼女がなぜアーティストマネージャーをやっているのか、どういった想いがあるのか。そこを描いています。

ボリュームはありますが、ぜひ最後まで読んでください。

まだ前回のお話を読んでいない方はこちらから。

「そもそも天上の絵画って何?」という方はこちらからどうぞ。

さらにメンバーシップ限定で今回のお話の裏話を公開しています。

なんと今回は次回作についての構想もお伝えしていますので、興味のある方はぜひメンバーシップへの登録をお願いします。
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それでは本編をお楽しみください。


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  アーティストマネージャーの仕事は大きく分けて三つある。

 一つ目は、アーティストを広めることだ。

 ようするに、プロモーションやPR活動などを通じて、マーケティングやブランディングの観点から、アーティストをいかにして広く周知させるかということだ。歌手であればCDの販売やライブの集客、画家であれば作品の販売など、ホームページやSNSを使ってアピールし、どうやって目標の販売数達成までもっていくのか。その過程、プロセスを考えるのがアーティストマネージャーには求められる。そのために、アーティストの作風や個性を把握し、それぞれのアーティストに合ったビジョンやPRポイント、目標までのプランを策定し、アーティストと何度も打ち合わせを重ねながら、より良い形を作り上げていく必要がある。この際注意しなければいけないのは、具体的な数値や計測可能な目標や行動などを決め、達成までのステップを明確にしておくことだ。さらに、経済や時代の流れ、流行などを意識して、都度プランの変更や改善を図っていくことだ。多くのアーティストがその場の思い付きで行動してしまうので、冷静に全体を見ながら、軌道修正していかなければならない。どれだけ作品が素晴らしくても、時代の流れや流行にそぐわなければ、容赦なく切り捨てる。そういったドライな一面も持ち合わせておく必要がある。

 二つ目は、アーティストを高めることだ。

 プロモーションやPR活動が上手く行ったとしても、アーティストの作品のクオリティがそれに見合っていなければ、全てが水の泡となってしまう。特にアートというものは、人によって評価が分かれるものだ。全ての人が認めるアート作品というのは、そうそう生まれるものではない。だからといって、作品を生み出さなければアーティストとは言えない。そして、アーティスト活動を継続していくためには、人としての価値を高めていくしか方法はない。自らが生み出した作品を通して、自分自身を磨いていく。アーティストにはこのような役割があり、中途半端な覚悟や作品では到底生き残っていくことはできない。
 アーティストマネージャーは、時には叱咤激励し、時には寄り添いながら、アーティストが作品を生み出し続けられるよう、成長を促していかなければならない。このような活動を継続していくことで、アーティストとしての価値を高め、人々の心を動かす素晴らしい作品を生み出すことができるはずだ。

 三つ目は、アーティストに専念させることだ。

 アーティスト活動を続けていると、作品とは関係のない雑用に追われることがある。アーティストは作品の制作やそれに直接関与しないことをやるべきではない。アーティストの本来の活動は、自身の創造力を高めて、作品を制作し表現し続けることである。しかし、制作依頼が多くなればなるほど、契約や交渉、メールや事務書類などが増えていく。アーティストマネージャーは、そういった雑用を一手に引き受け、適切に即座に対応していかなければならない。
 
 実はこの三つ目が、アーティストマネージャーとして最も重要な仕事であると、上杉弥栄子は考えている。
 これらの雑用にスピード感を持って、的確に対応していく。こういった事務処理能力の高さが不可欠だ。売れっ子になればなるほど、税務関連業務なども関わってくるので、弁護士や税理士との交渉や幅広い知識も必要となってくる。アーティストに創作を専念させるためには、様々なスキルや経験がなければならない。
 
 元々大手商社の経理として働いていた上杉弥栄子は、事務処理や金の管理、交渉や顧客との対応、英語、税や法律の知識など、十年のキャリアの中で様々なスキルを身につけた。これらがアーティストマネージャーとして役に立つと気がついたのは三年前。商社を退職し、自分の人生に絶望していた時だった。
 同期が続々と寿退社していく中、見合いの話を断り、キャリアを積み上げていったのには理由があった。その当時弥栄子には恋人がいた。十六歳年上の総務課の部長で、彼には妻子がいた。不倫関係は五年以上続いていた。「妻とは終わっている。息子が十八歳になったら離婚する」この言葉を信じ、後ろめたさを抱えたまま、じっと耐え待ち続けていた。
 だが、突如その不倫関係は終わりを迎える。きっかけは弥栄子の妊娠だった。

 妊娠したことがわかった途端、彼は態度を豹変させ一方的に別れを告げた。弥栄子に残された選択肢は堕胎しかなかった。会社にも居づらくなり退職。その時彼女を引き留める者は一人もいなかった。
 傷心の弥栄子に希望を与えたのが、テレビでたまたま目にした一枚の絵だった。世界的な有名画家の展示会が、都内の美術館で開催されることを紹介しているだけだったが、美しく鮮やかな色彩の絵に、心を奪われ実物を見てみたい衝動に駆られた。美術館で目にしたその絵は、神秘的で神々しい光を放っていた。弥栄子は何度も美術館に足を運び、閉館の時間までその絵の前から一歩も動かなかった。その絵に心を癒されたのか弥栄子の中に、少しずつ自分自身を取り戻していく感覚が芽生えていた。

 展示会最終日。
 いつものように絵の前に座っていると、一人の女性スタッフが声をかけてきた。白銀の髪に柔らかい雰囲気のふくよかな女性が「毎日熱心に見にこられていますね」と微笑んだ。
 弥栄子がこの絵の魅力を語ると、女性は「そんなふうに見ている方は初めてです」と目を細め口元を綻ばせた。
 「実はこの絵は、十九世紀初頭に描かれたと言われているんですが、それ以外のことは何も…。作者もタイトルもわかっていないんです」
 展示されているどの絵にも、作者とタイトルが書かれたプレートが掲示されていたが、この絵だけ短い説明文が書かれているだけだった。
 「状態もあまり良くないので、一般の方にお見せするのは今回が最後になると思います」女性がなぜか申し訳なさそうに言った。
 残念だったが、この絵からもらった希望は、弥栄子の心の中にしっかりと焼きついている。
 「好きなだけご覧になっていってください」恭しく頭を下げた女性に礼を言った。
 閉館の一時間前に事務所を覗くと、先ほどの女性が顔を上げて眼鏡を外した。
 「お帰りですか?」
 ありがとうございましたと弥栄子が言うと、女性が「なんか雰囲気が変わりましたね」と目尻を下げた。
 「初めてお見かけした時は、顔色も悪いし様子も変だったから、ちょっと心配だったんです」毎日同じ絵の前に憑りつかれたように佇む弥栄子を心配し、何度か声をかけようかと迷ったが、人を寄せ付けない思いつめた雰囲気に躊躇してしまったと、正直に打ちあけてくれた。
 「でも今日はいつもより雰囲気がいいみたいだったから、それでさっき声をかけてみたんです」
 余計なお世話だったらすみませんと、申し訳なさそうにしている女性の姿を見て、胸が締め付けられた。どうやら知らず知らずのうちに、善意の他人を煩わせてしまっていたようだ。あまりに身勝手で盲目的だった自分を恥じた。
 『アーティストマネージャー募集』と書かれたチラシが目に入ったのは、女性への謝罪を口にし視線を下げた時だった。
 「あっこれですか?」女性がチラシを手に取った。「美術品の修繕や鑑定をお願いしているデザイン事務所が、新しい方を募集されているみたいですね。美術品を好きな人であれば、興味をもつだろうと思われたようですが、仕事と趣味は違いますからね。もしかして、興味がおありですか?」
 チラシには職務内容と応募資格が書かれていた。

 『職務内容:当社と契約するアーティストのマネージャー

 具体的な職務内容:担当アーティストのプランニング、実行、絵画・彫刻など美術作品の制作活動の推進、外部取引先とのやり取り、スケジュール管理、現場への同行。

  求められるスキルと応募資格:・社会人経験五年以上の方・責任感が強く協調性のある方・アーティスト本人、関係各所との円滑なコミュニケーションが取れる方・美術品への興味と関心がある方』
 
 弥栄子が興味を引かれたのは『美術品への興味と関心がある方』と書かれた文言だった。十年以上の社会人経験の中で培われた責任感と協調性には自信がある。円滑なコミュニケーションも心がけてきた自負がある。さらに今の自分は美術品への興味と関心、いやそれ以上の深い愛情を持っている。

 女性スタッフはアーティストマネージャーの仕事がどういったものなのか、かいつまんで教えてくれた。
 アーティストを影から支え、ときに寄り添いながら二人三脚で作品を作り、世に送り出していく。孤独で対人関係に難があるアーティストが多く、どれだけ素晴らしい作品を作っても、それを世に広める術を知らない。論理的に物事を組み立て、計画的に遂行し、さらに金を生み出すことができる参謀役がアーティストには必要だ。
 アーティストマネージャーなら、これまでのキャリアを存分に活かすことが出来るかもしれない。そして何より「自分が担当したアーティストの作品によって、同じように救われる人がいるかもしれない」という誇らしさで心が震えた。
 チラシを食い入るように見つめる弥栄子に「あの…」と女性スタッフが戸惑いながら声をかけた。
 弥栄子が過去の出来事と、今の率直な想いを打ち明けると、女性スタッフの目がだんだんと光を帯びていった。
 「これは運命ですよ!」運命という言葉に、弥栄子の気分は高揚した。「先方には私から連絡しておきますから、お話だけでも聞いてみるべきです」
 弥栄子は力強く頷いた。
 
 アーティストマネージャーになってからの三年間は、あっという間だった。
 頭の中は作品のことでいっぱいで、ビジネス的な考えを持たないアーティストに、マーケティングやブランディングの方向を示す。ときには意見がぶつかることもあるし、理不尽な要求を突き付けられることもあるが、作品が完成しそれを手にした購入者の幸せそうな顔を想像するだけで、まだ頑張ろうと思えた。
 アーティストの多くは、頑固で偏屈で融通が利かず、マネージャー契約を結んだからといって、すぐに心を許してはくれない。時間をかけ忍耐強く、信頼関係を築いていかなければならない。一度心を開いてしまえば、こちらの話に素直に耳を傾けてくれる。
 だが、穢れを知らない未成熟な一面に振り回されることもある。
 数カ月前に担当することになった彫刻家の三島信弘は、芸歴三十年以上の大ベテランだった。気難しい性格の上に、時代錯誤も甚だしい男尊女卑を未だに抱えており、初対面のときの人を見下した物言いと軽蔑の眼差しは、今でも忘れることができない。
 彼の信頼を得るため、打ち合わせのたびに好物の饅頭を持参したり、工房や自宅の庭の掃除、次回作の資料を集めなどの雑用を嫌な顔せず引き受けた。そのかいもあって、ある程度の信頼関係を築けたと思っていたが、突然契約の打ち切りを上司から告げられた。
 「どうして―」弥栄子は愕然とした。
 「契約の更新はしないから来月から来なくていいと、三島先生の方から連絡があって―」マネージャーリーダーを務める吉中卓哉が不機嫌そうに眉根を寄せた。「上杉さんさ、先生の機嫌を損ねるようなことしたんじゃないの?」
 「そんな―」心当たりがなかった。
 先週も次回作のマーケティング戦略について、打ち合わせをしたばかりだ。
 「年寄りのわしにはよくわからんから、あんたに任せるよ」そう言って、弥栄子が自腹で購入した一箱五千円もする饅頭を頬張っていた。
 「考えを強引に押し付けたんじゃないの?」吉中の懐疑的な眼差しに腹が立った。
 「何度も打ち合わせをして、細かくご説明しました。確かに広告やマーケティングは専門用語も多くて、あの年代の方には難しいとは思いますが、先生にご理解していただけるように、出来る限り嚙み砕いて分かりやすくしたつもりです。資料まで見せて一つ一つ丁寧に―」
 「でも、よくわからんって言われたんだろ?自分では伝わったって思っていたのかもしれないけど、独りよがりだったんじゃないの」
 「先生は打ち切りの理由をおっしゃっていなかったんですか?」気がつくと上司に対して、詰問口調になっていた。
 「来月から来なくていいの一点張りで、理由は教えてもらえなかった」
 「だったら、私のせいとはかぎらないじゃないですか。もしかすると費用や事務所の対応が問題だった可能性もありますよね」
 「契約打ち切りの大半は、マネージャーとの相性の問題か対応不備と相場が決まってる。これまで事務所への不満を訴えてきたアーティストは一人もいない」
 それはマネージャーが直接の窓口となっており、事務所まで不満が届かなかったからではないか。現に事務所の対応の不備をアーティストから直接言われたこともある。
 「そういうことは、ちゃんと報告してもらわないと」吉中が眉の皺を深くした。「とにかくそう言うことなんで、来週からは行かなくていいから。今回の件は次のボーナス査定にも影響があると思うので、そのつもりで」吉中が片手を振った。これ以上この話はしたくないという意思表示のつもりなのか。到底納得できなかったが、雇い主から首を切られれば、雇われる側にはどうすることもできない。自分にできることは、精一杯取り組んだ結果だ。素直に受け止めるしかない。しかし、胸の奥のわだかまりは消えることがなかった。
 「来週から私は誰を担当すれば―」
 通常は二、三人のアーティストを同時に担当するのだが、弥栄子は契約満了と三島の打ち切りが重なり、担当アーティストがゼロになってしまった。
 「うーん。ここは人が足りてるから、大阪とか福岡にかけあってみるか。弥栄子さんは身軽だから、出張も大丈夫だよね」スマホを操作しながら、投げやりに言った。
 「はあ、まあ―」
 「何?嫌なの?」
 「いえ…」地方にも魅力的なアーティストは大勢いるから、出張は苦ではなかった。癇に障ったのは、使い勝手の良い駒だと思われていることだった。三十過ぎの独身女性は、適当に仕事を振っておけばいいと思われている。
 「三島先生の報告書を提出したら、今日はもう帰っていいよ」踵を返した吉中は、スマホを耳にあてて出て行った。
 自分のデスクに戻ると、大きなため息が出た。胸にぽっかりと穴が開き、空虚な風が吹き抜けた。
 「どうかしたの?」
 同期の村石理恵が心配そうに顔を覗かせた。
 「実は―」三島から首を切られたこと、吉中からぞんざいな扱いを受けたことを話すと、やれやれといった感じで肩をすくめた。
 「災難だったわね。最近契約の打ち切りが続いてて、吉中さんちょっと気が立ってるのよ。三島先生の件は、運が悪かっただけだって、さっさと切り替えた方がいいわ。あの年代の芸術家はわがままな人が多いから、何でもないことでもすぐにマネージャーのせいにしたがるのよ。弥栄子ちゃんは丁寧だし、相手をちゃんと見てるから、すぐに相性の良いアーティストが見つかるわよ。元気出して」
 理恵とはこの事務所に入ったのは同じ時期だったが、別の事務所でのマネージャー経験が長く、困ったことがあると何でも相談に乗ってくれる頼れる先輩的な存在だった。
 「先生とは上手く行ってると思ってたんだけどなぁ」椅子の背もたれにもたれかかった。「次回作の構想も聞かせてくれたし、ちょっとずつプライベートなことも話してくれてたんだよ。それなのに突然首だって。明日から来なくていいって。ひどいよね。しかもそれを私に直接言わないで、事務所に言っただけで『はい、さよなら』だよ。さすがにショックだわ」
 「わかるよ!わかる。私もそういう経験が一度や二度じゃないから。でも引きずっててもしょうがない!」肩をバンバンと叩かれた。「相手が悪かったと切り替えて、次に行こう!」
 「でも、担当ゼロになっちゃったよ」弥栄子はデスクに力なく突っ伏した。「吉中さんに言われたわよ。独身だから出張も楽だよねって」
 「何?出張が嫌なの?」
 「出張は嫌じゃないけど、自分が使い勝手のいい駒みたいに思われてることが嫌なの」
 「なんだ。そんなことか」
 「いいよね。理恵ちゃんは結婚して子供がいるから、気を使ってもらえて」
 「そうよ。安月給の旦那の面倒を見ながら、わんぱく盛りの男の子の世話してんだから、近場で物事の分別があって、扱いやすい芸術家しか担当させてもらえないわ」
 目を合わせるとほぼ同時に吹き出した。こうやって嫌味にも冗談で返してくれる、大らかな理恵にいつも救われている。
 「でも、担当ゼロって言うのは、可愛そうね」顎に手を当てて、首を傾けた。「良かったら、来週から担当する画家さんを譲ってあげよっか」
 「えっ、いいの?」弥栄子が顔を上げた。
 「うん。担当はもういるし、子供も四月から四年生に上がって、部活動が始まるから、お弁当とか父母会とかいろいろやることが増えるのよ。だから、どうしようかなって迷ってたの。二十三歳の新人さんでまだ駆け出しの子だから、今の弥栄子ちゃんにはピッタリだと思うわ」
 「資料ある?」
 「これよ」理恵がパソコンの画面をこちらに向けた。

 『渡井蓮 二十三歳 画家』
 『経歴:世界絵画大賞展 大賞受賞 他多数』
 『これまでにマネージャーがついた経験はなく、個人で活動』
 
 「名前聞いたことない」
 「私も。でも見て!『世界絵画大賞展』ってちょっと前に発表された、世界規模のコンクールなんだけど、大賞受賞は日本人では初の快挙なんだって」
 「すごっ!」
 「でしょ。しかもこれまでの経歴もすごいのよ。十歳の時に『全国小学生絵画コンクール』って大会で金賞に選ばれてて、これも当時の最年少記録で、他にもほら―」
 理恵が画面を操作すると、画面の上から下までいっぱいに、文字の羅列が表示された。
 「これ全部?」
 「天才ってこういうことよね」理恵が感嘆のため息を漏らした。「うちも完全にノーマークだったみたい。それで急いで連絡とって、マネージャー契約を結んだらしいわ。本部の磯谷さんが得意顔だったわよ」
 アーティストとの交渉、契約は本部の専属社員が担当する。弥栄子たちのマネージャーは、契約が決まったアーティストを勤続年数や経験によって、適当に割りふられる。
 「磯谷さんの第一印象は、そんなに悪くなかったみたい。受け答えもできるし、ちゃんと話も聞いてくれたって。ただ業界のことには疎いみたいで、自分が歴史的な偉業を達成したってわかってなかった。私たちみたいなマネージャーの存在も知らなかったそうよ。あと、けっこう人見知りが激しそうだから、打ち解けるまでには時間がかかりそうね。でも弥栄子ちゃんなら大丈夫よ!」
 理恵が両手を握って、軽くガッツポーズをした。
 確かに三島よりは扱いやすそうだし、これだけの経歴があるのであれば、実力は十分。将来も期待できる。ブランディングとマーケティング戦略をしっかり組み立てれば、日本を代表する画家になれるかもしれない。
 だが同時に不安もある。
 こういう天才タイプは、人としての常識や道徳心といったものが、すっぽり抜け落ちている場合が多い。弥栄子の偏見かもしれないが、これまでの経験から天才的なアーティストになればなるほど、そういった傾向が強いことを学んだ。三島の女性差別もしかり、今回の渡井蓮の人見知りにも不安がある。磯谷の話では受け答えはちゃんとしていたそうだが、それはほんの数時間の話である。マネージャーは、数週間、数ヶ月、ときには何十年単位でそのアーティストと関わっていくことになる。現時点では完全な憶測だが、これまでの経歴と磯谷の人物評から、わずかな不安を感じていた。もしくは、三島の件が尾を引いて、懐疑的になっているのかもしれない。
 最初の一歩をなかなか踏み出せない弥栄子の背中を押してくれたのは、やはり理恵だった。
 「何?迷ってるの?どうせ、三島先生の件を引きずって、あれこれ考えすぎちゃってるんでしょ。弥栄子ちゃんらしいわね」呆れ顔で肩をすくめた。
 「だって…」
 「だってじゃないの。あのね―」前屈みになりグッと顔を近づけた。「アーティストに常識人なんていないの。全員頭のネジが一本抜けてたり、人の気持ちが理解できない人ばっかり。私だって、今まで散々振り回されてきたわ。下げなくてもいい頭を、嫌々下げたこともいっぱいある。ストレスで円形脱毛症にもなったのよ」
 「本当に?」初めて聞く話に、目を見張った。
 「それでもこの仕事を辞めなかったわ。どうしてだと思う?」
 弥栄子は首を傾げた。
 「非常識な人が生み出す芸術に、大勢の人が魅了されるからよ。悔しいけど私も感動で泣いちゃったことがあるわ。同じ人間なのに、どうしてあんなものが生み出せるのか未だに不思議よね。私には生まれ変わったってできやしない。でも、大勢の人があんなに感動してる姿を見ちゃったら、もっといい作品を届けたいって思っちゃうじゃない」
 少女のように輝いた瞳を見て、三年前の自分を思い出した。
 「まあ結局拍手喝采を浴びるのは非常識な人だけで、私達は存在さえ知ってもらえないけどね」理恵は皮肉を言いながらも、満足そうな表情を浮かべていた。「縁の下の力持ちよ」
 「例え古くない?」弥栄子はわざとらしく鼻で笑った。 
 自分と同じように、たまたま知った一つの作品がきっかけで心を救われる人がいる。傷つき、悲しみに暮れていた弥栄子は、一枚の絵に救われた。あの出会いがなければ、今この場所にはいないだろう。自分に絵の才能はないが、アーティストをサポートし素晴らしい絵を届けることはできる。そう思いこの仕事に就いた。
 「いいわ。やってみる」両手を組んで大きく伸びをした。不思議と今までの不安や憂鬱が晴れていった。
 理恵が「じゃあ吉中さんに伝えてくるね」と席を立った。その後ろ姿はなぜだか弾んでいるように見えた。
   


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