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小説「天上の絵画 第二部 vol.6」

こんにちは。未来の直木賞作家、小説家の川井利彦です。

今回は「天上の絵画 第二部 vol.6」をお送りします。

前回のお話をまだ読んでいない方は、こちらから。

「そもそも天上の絵画を読んだことがないよ」という方は、こちらを。

さらに今回のお話の裏話を紹介しているのが、「小説家川井利彦のここだけの話」です。
こちらはnoteメンバーシップ限定公開となっています。
月額2500円(初月無料)なので、ぜひ登録して読んでみてください。

それでは本編をお楽しみください。


6

 朝焼けの陽光をうけ、水面が金色に輝いている。視線を上げると海面から立ち昇る白い靄が、ゆるやかな曲線を描く水平線を覆い隠していた。
 浜辺に置かれたイーゼルが、海風に煽られて今にも倒れてしまうのではと心配になったが、土台がしっかりしているのか、イーゼル自体の質量が重いせいなのかビクともしない。
 キャンバスの前に立った英司は、腕を大きくしならせて筆を振った。描くことに集中し没頭しているときの彼のクセだ。こうなると、周りのことが一切に眼に入らなくなる。婚約者である優愛が話しかけても無駄だ。
 優愛はそんな彼の姿を見るのが好きだった。自分の世界に入ってしまうと、五、六時間平気で一心不乱に描き続けるのだが、寂しいと感じたことは一度もなかった。絵を描き終え、こちらの世界に帰ってきた英司は必ず「優愛、見てくれ!」と、いち早く描きあげた絵を見せてくれるからだ。そして、嬉しそうにその絵の自慢話を始める。その話に耳を傾けるのが何よりも幸せだった。
 突然英司の腕の動きが止まった。どうしたのかと訝しんでいると、糸の切れた人形のようにガクンと肩を落とした。慌てて駆け寄り「どうしたの?」と肩に手を置くと、手のひらから伝わってくる感触がいつもと違うことに気がついた。カシミヤのセーターの滑らかな肌触りではなく、ザラザラとした細かい粒が手のひら全体に吸いついてくる。思わぬ不快感にたまらず目を向けると、英司の肩が徐々に砂に変わり始めていた。見る見るうちに肩口から肘、指先までが変化し、あっという間に英司の全身が砂に浸食されていった。
 「英司君!!」
 優愛が両肩を掴もうとすると、手の中で砂がくだけ、腕だった部分が散り散りになり跡形もなく消えた。恐怖で言葉を失った優愛の前に、砂の塊になった英司の首が落ちた。白目を向き、苦痛に歪んだおぞましい表情に優愛は悲鳴を上げた。
 
 ベッドから跳ね起きた優愛が時計を見ると、深夜二時過ぎだった。身体を横にしてから一時間ほどしか経っていない。顔を洗うために洗面所へ向かうと、目の周りが腫れ、白目が充血している。頬には涙が流れた跡が残っていた。
 葬式が終わってから、それまで張り詰めていた糸が突然切れてしまい、受け入れがたい現実と胸を抉る悲しみが津波のように押し寄せてきた。英司を失った悲劇を自分の中で消化することができない。そのせいで毎夜悪夢にうなされていた。
 退職を申し出たのは優愛の方からだった。
 辞表を受け取った画廊の責任者は、目を丸くしたがすぐに憐れみの眼差しを向けた。
 「一度休職してみるのはどうかな。少しの間仕事から離れて、ゆっくり休んでみたら。退職するのは、その後でもいいと思うけど」
 休職中も国からの補償があるし、特別に給料の何割か支払っても構わないと言ってくれたが、これ以上迷惑をかけたくないと断った。
 このままこの職場で働き続けることはどうしてもできなかった。
 英司との思い出が多すぎる。
 彼のキャンバスと愛用していた筆、そろそろ補充しないと言っていた絵の具、機械が苦手でいつも頭を抱えていたパソコン。疲れてうとうとしていたビジネスチェア。
 眼を閉じれば、頭の中で英司の声が聞こえた。その度に誰もいないところでむせび泣いた。
 「元はと言えば、僕が英司を誘ったのが良くなかったのかもしれない。彼の才能だったら個人でも十分やっていけた。それを無理矢理僕が誘ったからこんなことに」
 そんなことはない。英司は感謝していたはずだと伝えると、物憂げな表情を浮かべた。
 大学の先輩である彼は、在学中から起業し卒業と同時に今の画廊をオープンさせた。入学当時から英司の絵に惚れ込んでいた彼は「卒業したら一緒にやろう」と事あるごとに声をかけていた。
 初めは興味がなくめんどくさい先輩だと思っていた英司だったが、やがて彼の熱意に負け共にやっていくことを決めた。彼の人脈と手腕によって、英司は在学中に二度も個展を開き、二十三歳の若さで、海外進出の足掛かりを作ることができた。
 「本当にあの人について行くと決めてよかった」
 生前の英司はよくそう言っていた。彼のおかげで間違いなく英司の人生は変わった。恨んでいるはずがない。
 「これからどうするの?」
 今のアパートを引き払い、来月の頭に実家に戻ることを告げた。
  「少し実家で静養するのもいいかもしれない。後のことは大丈夫だから、ゆっくりしてくるといい。もし何か困ったことがあれば、いつでも連絡してきていいから。出来る限り力になるよ」
 優しい心遣いに目頭が熱くなった。
 簡単な引き継ぎと挨拶を済ませ画廊を出ようとした時、スタッフ全員が見送りに来てくれた。何名かのスタッフは涙を浮かべていた。なぜか後ろ髪を引かれる想いがした。
 どうしてこんなことになったのか。自分は何か悪いことをしたのか。
 対象物のない憤りが英司を失った絶望を加速させた。

 引っ越しを一週間後に控え「いい加減荷物をまとめなければいけない」という気持ちはあるが、身体が鉛のように重くどうしても動かない。
 「とりあえず段ボールだけでも」と組み立てているとチャイムが鳴った。
 のぞき穴から覗くと、見覚えのある男性が二名立っていた。事件後すぐに聴取にやってきた刑事だった。確か名前は権藤と長谷部。
 玄関を開けると若い長谷部が「突然お邪魔して申し訳ありません」と警察手帳を見せた。
 「少しお伺いしたいことがありまして、今お時間よろしいですか」
 ちらりと視線を向けると、白髪交じりの権藤が頭を下げた。
 「…なんですか」
 「事件のあったマンションのことなんですが―」
 長谷部が質問している間、権藤はせわしなく視線を動かしていた。
 一通り答えると「わかりました。ありがとうございました」と長谷部が礼を言った。
 「引っ越し、されるんですか?」と権藤が一歩前に出た。
 声音は穏やかだったが、視線は鋭かった。
 優愛が振り返ると、リビングとキッチンを隔てる扉の隅に段ボールが積み上がっていた。
 「実家に帰ることにしました」
 「お仕事も辞められたそうですね」
 怪訝な表情を浮かべると長谷部が申し訳なさそうに言った。
 「実は午前中に画廊の方へ行ってきたんです。それでスタッフの方から、滝野さんが辞められたと伺って」
 「…母が心配してすぐに帰ってこいと。私もその方が落ち着きますし」
 長谷部が同情した顔で首を縦に振った。
 「念のためご実家の住所を教えてもらってもいいですか?」
 「いいですよ」
 「ご両親も心配でしょうね」権藤がわざとらしく目を細めた。
 優愛がため息をついた。
 「母は父と早くに離婚してしまって。今は妹が母の面倒をみてくれています」
 「それはそれは。ご苦労されたんですね」
 大仰な態度で同情する権藤に違和感を覚えた。
 用事は済んだはずなのに、二人から帰る気配が伝わってこない。まだ何かあるのだろうか。
 「あの…まだ何か?」
 優愛がそう訊くと、権藤と長谷部が素早く視線を交わした。
 「一点、滝野さんに確認してもらいたいことがありまして。ここでは何ですから、場所を変えませんか」
 「…ここでいいですよ」
 「しかしー」
 長谷部は当惑しながら廊下に視線を向けた。
 「どうせすぐに引っ越しますし、隣の部屋の人の顔も名前も知りません」
 「そうですか」
 長谷部がちらりと見ると、権藤が首を軽く振った。
 「わかりました。ではこちらで失礼します。実はー」
 肩にかけたカバンの中から、透明なビニール袋を取り出した。
 「現場にあった一本の筆から犯人のものと思われる指紋が見つかりました。それがこちらです。見覚えはありませんか?」
 優愛はビニール袋に入った細筆を見た。どこにでもある普通の筆で、英司が何百本と持っていた筆の中の一本だ。
 「同じ筆が何本もあったので…すみません」蚊が泣いているような小さな声でつぶやいた。
 「まあ、どれも似たようなもんですからな」
 権藤が歯を見せて笑った。
 「ただ、どうしても気になりましてね。犯人は部屋中の指紋を拭き取っているんですよ。でもこの筆には指紋が残っていた。おそらく拭き忘れたんでしょうが、問題は指紋が残っていたことではなく、犯人が何のためにこの筆に触ったのか」
 「・・・」
 「今は固まってますが、この部分に黒の絵の具がついてます」権藤の指の先を見ると、毛先がわずかに黒くなっている。
 「鑑識が調べた結果、被害者のアトリエにあった絵の具と成分が一致しました。犯人がこの筆を使って、何を書いたのか、もしくは塗ったのか。そこまではわかっていませんが、被害者を殺害し丹念に指紋を拭き取り、一刻も早く現場を立ち去りたい犯人がわざわざこの筆を手に取った。そこには重大な意味が隠されているのような気がしてならんのですわ」
 冗談っぽい口調の中に真剣さがにじみ出ていた。
 「私には…よくわかりません」
犯人が何をしたのか、そんなことは知りたくないし、考えたくもない。
 「もちろんもちろん。それを調べるのは我々警察の仕事ですよ」
 「滝野さんにお聞きしたいのは、事件当日、岩谷さんが誰かと会う約束をしていなかったかということです」
 「えっ…」
 「現場の状況から考えて、顔見知りの犯行である可能性が高いんです。しかも筆を使っていることから推測すると、同じ画家ではないかと」
 背筋に冷たいものが走った。学生服姿の彼が遠い目をして立っている。
 「…わかりません」
 喉の奥から絞り出すように言った。
 「岩谷さんの周りに何か変化はありませんでしたか?例えば昔の友人と再会したとか」
 心臓が物凄い速さで脈打っている。
 「そんな話は…聞いてません」焦っているせいか、少し早口になった。
 「退職された方と今でも親しくしているとかはありませんでしたか?」
 「…いいえ」
 「そうですか。不躾な質問ばかりですみません」
 謝罪を口にする長谷部の後ろで、権藤が笑顔を作った。
 「ご実家でゆっくりできるといいですな。何かあればまた連絡します」
 二人の刑事は疑う様子も見せず帰って行った。
 
 玄関にもたれかかると、力なくへたりこんだ。手足の先が冷たくなっていくのがわかった。
 「そんなはずはない」と自分を説得するが、一度息をした“疑い”は、そう簡単に消えてはくれなかった。
 
 
 高校二年生の頃、どうしても入賞したかったコンクールがあった。小さいころから大好きだった画家が、当時金賞を受賞したコンクールでその時の作品がきっかけで、彼は有名画家の仲間入りをした。
 自分もその画家と同じ賞を受賞すれば、その背中に追いつけるかもしれない。
 スランプに陥り、思う様に絵が描けずにいた当時の優愛にとって、そのコンクールは最後の希望だった。
 学校と食事以外の時間は全て絵を描くことに費やした。英司や先輩からも連日アドバイスをもらい、寝る間も惜しんでキャンバスの前に座った。
 そのかいもあって、半年間かけて描きあげた作品は、これまでとは比べ物にならないほどのクオリティで確かな手ごたえがあった。「これなら絶対に入賞できる」英司を始め、周囲の人間の声にも影響され、優愛の中に芽生えた自信は、やがて確信に変わった。だが結果は予選落ち。
 ショックだった。自分の才能の限界を突きつけられ、自信を喪失し絵を描くことが怖くなってしまった。
 美術部からも足が遠のき、筆を握っていない日が何日も続いていた頃、彼とたまたま再会した。
 「あっ、滝野さん…」
 気まずそうに顔を伏せ、そそくさと立ち去ろうとする彼を呼び止めた。
 帰り道でコンクール落選のことを話し、絵をやめようと思っていることを正直に打ち明けた。
 上級生からの嫌がらせが原因で、彼が一年以上絵から離れていることは知っていた。そんな彼ならこの悔しさや失望感を理解してくれるはずだ。
 「滝野さんの気持ちわかるよ。僕も本当に絵が嫌になった」
 優しい眼差しで振り返った彼は、穏やかな声音で言った。
 「でも僕は滝野さんの絵が好きだよ」
 英司も羨む実績と実力を持っている彼から言われるのは、例えお世辞でも嬉しかった。
 「お世辞じゃないよ。本当に滝野さんの絵が好きなんだ。あんなに柔らかい筆づかいの美しい絵は僕じゃ描けない」
 彼の表情を見れば、その言葉が本気であることは一目瞭然だった。
 「今回は上手くいかなかったけど、今度は大丈夫。絶対に入賞するよ。滝野さんの絵は唯一無二だ。誰にもまねできない。だからここで絵をやめちゃダメだよ」
 歯が浮くようなセリフに、こっちが恥ずかしくなった。
 「最近思うんだ。絵には描いた人そのものが現れるって」
 虚空を見つめた彼の瞳に、昔見たまっすぐな光が灯っていた。
 「几帳面で完璧主義な英司は、線一本一本から、構図、配置まで全て計算され尽くした絵。いい加減で気分屋な僕は、その場の雰囲気とノリで描くから感覚的な絵。大らかで優しい性格の滝野さんは、美しく滑らかな線と丁寧な色使いの絵。描いた人それぞれの個性や生き方みたいなものが絵に現れる。絵の前で自分を隠すことはできない。だから本当はコンクールなんて意味がないのかもしれない。審査員の尺度で無理矢理順位をつけているだけで、本来人の性格や人生に優劣をつけることはできないでしょ」
 言葉に熱がこもる。
 「それなのに、誰が金賞だ。特別賞だ。あいつは天才だ。恵まれてるって。恨んで嫉妬して。くだらないよ。どうしてみんな絵を楽しむことができないんだ。汚いよ。本当に汚い」 眉間に皺を寄せ、語気を強めた。
 「そうじゃなかったら、あんなこと…。あんなひどいことが起こるはずない!」
 今にも泣きだしそうな横顔を見つめていると、ちらりと顔を向け気まずそうに視線を泳がせた。
 「あっ…ごめん。滝野さんを慰めるつもりだったのに、なんか変なこと言っちゃった」
 気にしないでいいと顔を小さく横に振った。
 「とっ、とにかく滝野さんは大丈夫だってこと。だから、これからも自信持って絵を…。うん、そういうこと」
 不器用な優しさに、ささくれだった心が綻んだ。天才と持ち上げられていた裏で変人と揶揄され、理不尽な暴力に傷ついた彼を理解することは、おそらく一生かかってもできない。
 別れ際「私も渡井君の絵…好きだよ」と振り返った。西の空に輝く夕陽のせいか、彼の頬が赤く染まって見えた。
 「それじゃあ」と踵を返した瞬間「ありがとう」とかすかに聞こえた気がした。
 
 玄関のノブを掴みフラフラと立ち上がった。心臓の動悸は幾分か治まったが、額からは汗がにじみ出てきた。
 確かめないと…。
 リビングに戻り、電話をかけた。
 「お母さん、ごめん。私…まだ帰れない」

(vol.7へつづく)

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