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小説「天上の絵画」第二部

「今の率直な感想を聞かせてください」
 凛とした佇まいの女性記者が柔和な笑みを浮かべている。
 「素直に嬉しいですね。まさかこんな素晴らしい賞をいただけるなんて思っていませんでしたから」
 「どんな想いを込めてあの絵は描かれたんですか?」
 数時間前にも別の雑誌の取材で同じ質問をされた。蓮は少し辟易しながら、まるで俳優にでもなったかのように、何度も繰り返したセリフを読み上げた。口の動きが定着してしまったのか、スラスラとよどみなく話すことができた。
 「『天上の絵画』で、描きたかったのは僕自身です。僕は高校一年の時に一度筆を置きました。周囲からの期待と嫉妬に耐えられなかったからです」
 女性記者が目を少し見開いた。
 「今思えば恥ずかしくなりますが、当時はうぬぼれていたんだと思います。自分の才能を過信し、周囲に気を配ることができなかった。盲目的になっていたのかもしれない。筆を置いてからの五年間でそのことを痛感しました。改めて過去を振り返り、未来を想像した時に、自分の中に残っていたのは絵だけでした。初めて筆を握ったのときの感覚、描きあげた時の高揚感。それまでに描いてきた数々の作品が浮かんできて教えてくれました。『僕には絵しかない』と」
 蓮は背筋を伸ばした。
 「あの絵には僕の過去と未来が描かれています。過去を捨てた自分と、そこから未来に向けて歩き始めた自分が葛藤しながらも、調和し融合していく様が描かれています。ぜひ『天上の絵画』を見た方にも、僕と同じように過去を振り返り、未来を想像するきっかけになってくれたらと思っています」
 女性記者が瞳を輝かせて大きく首を縦に振った。
 「私も拝見しましたが、ものすごい光に包まれる感覚と共に、後ろめたさのような暗い影の部分を感じました」
 「誰にでも良い面も悪い面もある。人はついつい自分の良い面ばかりを見てしまいがちですが、本当は悪い面も含めて自分自身なんです。そのことを受け止めたときに初めて自分自身を深く理解できる。僕が五年間で学んだことをあの絵の中に込めました」
 「今回の受賞を誰に一番伝えたいですか?」
 それも散々聞かれた質問だ。
 「もちろん、両親です。僕に絵を学ぶきっかけはくれたのは、母です。当時はダサくてかっこ悪いってバカにしていたんですが、あの時の出会いがなければ、今の僕は存在していません。父はピアニストでした。残念ながら、プロになる夢は途中で断念してしまいましたが、父の芸術家としての血が間違いなく僕には流れています」蓮は右手を胸に当てた。女性記者の斜め後ろにいたカメラマンがシャッターを連続で切った。
 「ご両親も鼻が高いんじゃないですか?」
 「電話で話しただけですが、母は泣いてました。ずっと心配をかけてきたので、少しは親孝行になったのかな」蓮が照れくさそうに頭の後ろをかいた。
 「恩師である湯澤徹先生にも喜んでいらっしゃいましたね」
 「…はい」
 湯澤には受賞が決まった次の日に連絡した。メールアドレスを知らなかったので、電話をかけると数年ぶりにも関わらず、すぐにつながった。久しぶりに聞いた湯澤の声は記憶の中と変わりなかったが、疲れていたのか声に張りがなかった。大賞受賞のことを伝えると、湯澤は絶句し、数秒間沈黙していたが、その後は声を震わせながら何度も「おめでとう。おめでとう」と言っていた。
 「うちの記者が湯澤先生の取材に伺ったんですが、渡井さんのことを自慢の教え子だとおっしゃっていました」
 見出しに『世界一の絵描き、渡井蓮の恩師 湯澤徹が語る彼の才能と魅力』と書かれた記事を読んだ。白髪と皺が増えた湯澤徹が笑顔で取材に答えていた。場所はあの絵画教室だろうか。見覚えのある机や棚が奥に映っていた。
 『彼の絵を見て、すぐにわかりました。特別な才能を持った子だと。これまで教えてきた子供達とは、全く別の次元にいましたね。幼さゆえの危うさもありましたが、純粋に描くことを楽しんでいる彼には余計なお世話だったみたいです。私のところに通っていたのは事実ですが、教えたことはほとんどありません。今回の偉業は彼の持って生まれた才能とたゆまぬ努力の賜物です。恩師なんて大層なものじゃありませんよ』
 エプロン姿の湯澤が恐縮しながらはにかむ様子が目に浮かんだ。
 女性記者はその後もいくつか質問してきたが、どれも他の記者と似たものばかりで次第に退屈になってきた蓮は、あくびを噛み殺すのに必死だった。
 「今後はどんな作品を発表される予定ですか?」
 「申し訳ありません。次の予定がありますので、そろそろ」
 隣りで厳しい顔をしていた上杉弥栄子が女性記者を遮った。
 「あっもうそんな時間ですか」女性記者が困惑気味に言った。
 「いいですよ。最後にそれだけお答えします」蓮が何気ない仕草で目元をぬぐった。「次回作の構想はすでに出来上がってて、あとは描くだけです。ただ今回の受賞で、世間の皆さんの期待も大きくなっていて、駄作を発表して裏切るわけにはいきませんから、少し時間がかかるかもしれません」
 「首を長くして待っていますね」
 女性記者が右手を差し出した。蓮は口角を上げて、その手を握った。
 
 「次は十四時十分から新聞の取材が入っています。その次はテレビのインタビューが」
 「…わかりました」
 「少しお疲れみたいですね」
 連日朝から夜遅くまで取材が入っており、睡眠時間も二、三時間ほどしか取れていない上に、似た質問ばかりでストレスと疲労が溜まる一方だった。
 未知のウィルスによる未曾有の大混乱、物価高と一向に回復の兆しが見えない経済に、行き場のない怒りと先行きの見えない不満が社会の空気を汚染していた。誰もが希望を見いだせず、鬱屈としていた中で、ふって湧いてきたのが、渡井蓮の世界一獲得のニュースだった。メディアはこぞって今回の快挙を讃え、渡井蓮は一躍、時の人となった。取材の申し込みと『天上の絵画』を展示してほしいと、全国各地の美術館から問い合わせが殺到した。それらの対応とスケジューリングは全て、マネージャーである上杉弥栄子が担当している。
 彼女と初めて会ったのは、受賞から一週間ほど経った頃だった。
 てっきり最初にやってきた人の良さそうな男性が担当するものだと思っていたので「本日からマネージャーを担当させていただきます。上杉弥栄子です」と吊り目の気難しい顔の女性が現れた時は、少し躊躇った。
 上杉弥栄子は挨拶もそこそこに「契約内容の確認と今後のブランディング戦略についてご相談があります」とテキパキとした動作で、資料を目の前に並べ、淡々と説明し始めた。事務的で落ち着いた口調だったが、有無を言わせない強引さがにじみ出ていた。最後までブランディングの意味は理解できなかったが、特に疑問や質問を挟まず、言われるがまま契約書にサインをした。
 「これからはどんなオファーもまず私を通すようにしてください。私が現場にいればいいですが、いないときはこちらの番号を相手方に教えていただいて構いません」そういって名刺を手渡された。
 『株式会社Fabor Base マネージング部門 上杉弥栄子』
 「何か疑問や分からないことはありますか?」
 「…いや」喉がカラカラになっていたせいで、ザラザラした声しか出なかった。
 「これから宜しくお願いします」上杉弥栄子が恭しく頭を下げた。
 「はぁ…」
 「早速で申し訳ありませんが、明日朝八時から取材の方が―」
 そこから連日連夜、取材や撮影が続き目が回るほどの忙しさだった。
 「慣れないことばかりで大変だと思いますが、今が踏ん張りどころです。これからのことを考えたら、今のうちにできるだけ多くの取材を受けておかければなりません。あと三ヶ月もしたら、世間は渡井蓮のことを忘れます。その前に少しでも認知をとっておいて、一枚でも多くの作品が売れるよう下準備しておかないと」
 「はぁ…」
 「世間なんてそんなものですよ」上杉弥栄子がため息交じりに言った。「ですが、取材対応は立派です。堂々として受賞者としての風格を感じます。世間もあなたを一人の画家として認めると思います。どうしてもしんどうようでしたら、スケジュールを調整しますが、どうしますか?」
 「…頑張ります」
 上杉弥栄子がコクンと首を縦に振った。
 身体は疲弊していたが、精神的にはこれまで経験したことがないほど充実していた。
 自分に向けられる羨望の眼差しと尊敬の念が気持ちよく、恥かしさと相まって心の奥がむず痒くなった。
 (これが世界一の景色なのか)
 初めて到達した頂上は、視界が開け下界が一望できた。まるで自分が世界の中心になったような開放感と恍惚感が昔失った自我を思い出させてくれた。
 (そうか。僕はこの場所に立つべき人間だったんだ)
 純粋で穢れのない幼さは、直情的に物事を判断してしまう。疑うことを知らず思い込みが激しいせいで、平気で自分を騙し他人を欺く。
 蓮は眼前に広がる景色をガラス玉のような綺麗な瞳で見つめた。
 だが所詮ガラス玉は人工物でしかない。
 時が経てば、やがて劣化し腐敗してしまう運命にある。

(つづく)

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