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小説「天上の絵画」第一部 vol.12

2026年直木賞受賞者、小説家の川井利彦です。

今回は小説「天上の絵画」第一部 vol.12をお送りします。

今回で第一部は最終回となりますので、ぜひ最後までお楽しみください。

まだ前回のお話を読んでいない方はこちらから。

「まだ天上の絵画を読んだことはないよ」という方はこちらから。

それでは衝撃の展開が待ち受ける、第一部最終回をお楽しみください。




12 二○二一年 渡井蓮 二十三歳

 リビングに戻った英司は、六杯目のビールを注ぎ、一気に飲み干した。酔いが回ってきたのか、頬が赤く染まり、目が据わっている。
 「なあ、英司」おもむろに口を開いた蓮は、ソファの上で居住まいを正した。「…頼みたいことがあるんだ」
 「なんだよ。改まって」呂律が上手く回っていない。
 「これから一緒に絵を描いていかないか?」
 英司が目を細め、わずかに首を傾げた。
 蓮は気持ちを落ち着けるため、大きく深呼吸をした。いくら親友でも、これまでひた隠しにしてきた心の恥部を、打ち明けるのは勇気がいった。
 「英司の言う通りだ。もう…何年も絵を…描いてない」一つ一つの言葉を慎重に選びながら、ゆっくり話し始めた。
 「その…あのことがあってから、僕は絵を描けなくなった」粉々になったキャンバスの残骸が、瞳の奥で揺れた。「どうしても筆を…持つことができないんだ」
 「筆を取ろうとするたびに、あの時の光景が…。キャンバスが…その…。頭の中に蘇って来て、怖くて手が震えて……」
 脳裏に先輩達の下卑た笑い声が響く。
 これまで何度も絵を描こうと、筆を手に取った。だがその度に、冷や汗が背中を伝い、手が震えた。湯澤に相談しようとも思ったが、余計な心配をかけたくなかったし、いつまでも自慢の生徒でいたかった。ダメになってしまった自分を、直視することができず、強引に目を背けた。気がつくと、絵のことも自分のことも嫌いになっていた。
 「でも、さっきの絵を見て分かったんだよ!やっぱり絵を描きたいって。あんなすごい絵を自分の手で、やっぱり描きたい!」
 突如沸き起こった激情は、情熱に変わり、希望の種火が胸に灯った。やはり自分には、絵をしかない。希望の炎は燃え上がり、赤ん坊のような無垢な衝動をかきたてる。
 「親友の英司が一緒なら、また描ける気がするんだ」
 無表情でじっと蓮の話に耳を傾けていた英司は、グラスをテーブルに置いた。
 「だから、お願いだ」わずかに前屈みになった。
 「一緒に絵を描いてほしい。なんならスタッフとしてチームに入ってもいいよ。雑用でもなんでもやるから」
 射貫くようなまっすぐな眼差しで、赤く染まった英司の顔を見つめた。
 「英司…頼む!」
 蓮は膝に手をついて、深々と頭を下げた。

 「嫌だ」

 自分の耳を疑った。アルコールのせいで、幻聴が聞こえたのか…。

 「絶対に嫌だ。お前と組む気はない」

 無感情に抑揚なく、淡々と英司が言った。
 蓮が顔を上げると、英司の表情が変わった。まるで汚物でも見るような、軽蔑の眼差しで、口元を醜く歪めた。
 「俺は…お前のそういう顔が見たかったんだよ」
 突然、態度を豹変させた英司は、ソファにふんぞり返り、足を組んだ。
 「チームに入って雑用でも何でもやるだ?お前、何様のつもりだよ」
 天井を仰ぎ、高笑いを上げた。
 「何も知らないおめでたい蓮君に、教えてやるよ」
 立ち上がった英司は、バーカウンターから、タバコとライターを取り火をつけた。
 「先輩達を裏で操って、お前のキャンバスを破壊させたのは…俺だ」
 蓮はすぐに理解できなかった。酔っぱらっているせいで、冗談を言っているのではないか。
 「絵しか描いてこなかった頭の悪い連中だ。ちょっと煽ったら、すぐにその気になったよ」
 だが、英司の顔は真剣そのものだった。言葉にも、微塵の気負いや揺らぎがない。
 「英司、何を言って…」
 不機嫌そうに煙を吐き出すと、ギロリと怒りを込めた眼差しを向けた。
 「いつも俺の前をうろちょろしやがって。お前がいるせいで、俺はいつもトップに立てなかった。小学生の頃からずっとだ!」
 憤った英司は、火がついたタバコを蓮に突きつけた。灰がゆらゆらと空中を舞った。
 「俺がどんな思いで、筆を握ってきたと思う。毎日毎日寝る間も惜しんで、描き続けてきたんだ。それなのに、大した努力もしていないお前が、飄々と俺の前に立ちやがる」
 バーカウンターに置かれた灰皿にタバコを押し付けた。
 「ムカついて、ムカついてしかなかったよ!」
 蓮は慄然とした。これまで唯一信頼できると慕っていた相手が、まさか自分を心の底から恨んでいたなんて考えもしなかった。矢のように鋭い憎悪が、自分めがけて飛びかかってくる。
 「一緒に絵を描かないかだと?冗談じゃない!誰がお前なんかと描くかよ。一億円積まれてもお断りだ!俺がお前のことを親友だと思ってた?…そんなわけないだろ!」英司が吐き捨てるように言った。
 「お前に近づいたのは、絵の技術を盗むためと、つけいる隙を探すためだ。勝つためには、まず敵をよく知らないとな」
 「そんな…」
 「しかし、お前の鈍さには驚いたぜ。あれだけいじめられたのに、顔色一つ変えずに、呑気に描き続けやがった。さすがにあそこまでやらせるのは、気が引けたが、しょうがないと腹を括ったよ。お前から絵を奪うためだからな」
 タバコと灰皿を持って、ソファに戻って来た英司は、甲高い笑い声を上げた。
 「いやーそれにしても、ここまでうまくいくとは思わなかった」
 グイっと身体を近づけてきた英司は、薄気味悪い笑みを浮かべた。
 「あーそうそう言い忘れてたけど、この前、滝野と婚約したんだ」
 全身から血の気が引き、手足の感覚が徐々に薄れていった。
 「お前…滝野のこと好きだっただろ」英司が耳元でささやいた。
 蓮は目を丸くした。その反応がおかしかったのか、英司が腹を抱えて「やっぱり、そうか」と大声で笑った。
 「絵のことしか頭になかったお前のことだ、女と付き合ったこともないよな。そうだ。今度、滝野とのハメ撮り動画を送ってやるよ」
 首の後ろがカっと熱くなった。
 「惨めな自分を、それで慰めたらどうですか」
 小馬鹿にした眼差しの英司に、肩を叩かれた。
 次の瞬間、全身の血液が一気に沸騰し、衝動が神経を伝って蓮の身体を駆け巡った。気がつくと、持っていたグラスを、英司の側頭部に、思いっきりぶつけていた。グラスは粉々に砕け散り、手のひらに痛みが走った。
 悲鳴にも近い叫び声をあげて、ソファに崩れ落ちた英司は、両手で顔の横を抑えている。指の間から、真っ赤な血が滲み出てきた。
 「てめえ!ふざけんな!!」痛みをこらえながら、物凄い剣幕で睨んでくる。
 「ごめん…。そんなつもりじゃ」
 「警察だ!これは立派な傷害事件だ!刑務所に送ってやる!お前の人生めちゃくちゃにしてやるからな!!」
 「でも、元はと言えば、英司が―」
 「いってぇー…。よりによって、顔を狙いやがって。ちょっと仲良くしてやっただけで、お前みたいなクズが、粋がるなよ!」
 汚い言葉で罵り続ける英司を見つめながら、これまで感じたことのない憤りが、頭の中を蹂躙していったさ。
 警察に電話するつもりなのか、英司はうめき声を漏らしながら、スマホを操作し始めた。
 蓮は獣のような咆哮をあげると、英司に飛びかかった。もつれ合った二人は、そのままの勢いでソファから転げ落ちた。英司のスマホが空中に放り出された。倒れた英司に追いすがり、闇雲に腕をふるが、そのほとんどが空を切り、全く手ごたえがなかった。ふと身体を離した次の瞬間、鳩尾に蹴りを食らい、後方に吹き飛ばされた。うつ伏せに倒れた蓮が、ゴホゴホと激しく咳き込んでいると、背中を衝撃が襲い、呼吸が一瞬止まった。
 「調子乗るなよ!!」
 英司が蓮の背中を何度も踏みつけた。その度に激痛が走り、目に涙が浮かぶ。
 なぜ自分ばかりがこんな目に合うのか。

 どうして…。

 先輩生徒や及原慎吾、トラックの運転手、太った警察官、コンビニ店長の顔が、走馬灯のように駆け巡る。

 僕は何も悪くない…。全部周りが悪いんだ。
 
 どうして、みんな邪魔ばかりするんだ…。

 自分の中で、ブチンと何かが切れたような音がした。
 
 蓮がすばやく身体を反転させると、英司がその場でつんのめった。その一瞬の隙をついて、足首に両手でしがみつく。バランスを崩された英司は、背中から床に叩きつけられた。
 テーブルに置かれた灰皿を手に取った蓮は、馬乗りになり英司の顔面に向かって、力いっぱい振り下ろした。骨が砕ける感触が伝わってくる。鮮血が飛び散り、英司が悲痛な叫び声を上げた。何度も振りかぶり、灰皿を打ち下ろした。
 「れ、ん…やめ…」くぐもった声で英司が懇願したが、蓮は止めようとはしなかった。
 英司の身体は激しく痙攣していたが、やがて動かなくなった。顔面から溢れ出る血液が、床を真っ赤に染めていく。自分の荒い息遣いが聞こえた。鮮血にまみれた灰皿を放り投げると、蓮は力なくへたりこんだ。とんでもないことをしてしまったと後悔に苛まれながら、一方で冷静さを取り戻しつつある自分を、不思議に感じた。よろよろと立ち上がった蓮は、自分の痕跡を消すために、行動を開始した。指紋を拭き取り、割れたグラスを片付け、倒れたソファを戻し、英司が一人で飲んでいたように偽装した。血まみれの灰皿は、指紋を拭き取ると、英司の死体のそばにおいた。物取りの犯行に見せかけるため、高級腕時計と財布から金を盗んだ。時間を確認すると、すでに日付が変わっていた。
 一通りの作業を終えた蓮は、リビングを出て玄関に向かった。絵の中の滝野は、変わらず微笑んでいる。蓮は英司のアトリエの前で足を止めた。部屋を覗き込むと、あの絵が静かに佇んでいるのが目に入った。全てを超越した存在。すぐ隣の部屋で、あのような惨劇が行われていたにも関わらず、その輝きは損なわれることなく、なおも蓮の心を鷲掴みにして離さない。
 
 「…僕の絵だ」

 創作部屋に足を踏み入れた蓮は、キャンバスバックを開き、両手で木枠を掴み、動きを止めた。英司が「サインを書く」と言っていたことを思い出した。
 
 「サイン…」

 無造作に置かれていた細筆を取ると、黒色の絵の具をつけて、キャンバスの右下に『Ren W』と書き記した。

 足早に進んでいると、自然と口元が緩み笑みがこぼれた。
 
 蓮は自分がしたことに対する、罪悪感や後悔を微塵も感じていなかった。

(第二部へつづく)

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