【４０歳までの男】　統失２級男が書いた超ショート小説

吉野拓也は２３４年生きていた。とは言っても老人の姿をしていた訳でもなく、不老の薬を飲んだ訳でもなかった。拓也がこの世界の奇妙なところに気が付いたのは、１９４年前の平成１２年の事だった。自分の４０歳の誕生日に妻の実奈と６歳になる１人息子の蓮太と一緒に自宅で寿司とケーキを食べた後、眠りに就くまでは幸せながらも何の変哲もない普通の人生だった。しかし翌日、目を覚ますと奇妙な状況に遭遇した。「ねぇ、今日はテレビで『タイタニック』が放送されるから、早く帰って来てよ、一緒に見ようよ」と実奈が朝食の席で発言したのだ。しかし、それは２日前にも聞いたセリフだった。「一昨日、一緒に見たじゃん」と拓也が返すと、「朝は忙しいんだから、変なお笑いは要らないのよ」と軽くあしらわれてしまった。実奈がふざけているのか、それとも実奈が本当に記憶違いをしているのか、拓也には判断が付かぬまま卵焼きを食していると、「昨日のシドニーオリンピックのマラソンでは高橋尚子選手が２時間２３分１４秒の記録で見事金メダルを獲得しました。本当に素晴らしい走りで日本中に感動をもたらしてくれました」とテレビのアナウンサーが２日前と全く同じセリフを喋っていた。実奈が２日前のビデオテープを流してふざけている可能性も考えてみたが、ビデオテープにしては映像が綺麗過ぎた。そして読まれた形跡の無い新聞を広げてみると日付は自分の誕生日の前日の９月２５日になっていた。

拓也は４０歳の誕生日を境に日が１日ずつ遡って行き、２０歳の誕生日を境にまた日が普通に進んで行くという人生を何度も繰り返していた。遡りターンの期間でも寝ずにずっと起きていると普通に日は進むが、寝てしまうと１日戻ってしまうという具合だった。そして、今は５回目の遡りターンの期間で実際の年齢は２３４歳だったが、外見と体力と脳の働きは２６歳だった。周りの人間にこの奇妙な現象を説明しても狂人扱いされるだけだったので、もう誰かに話すのはやめていた。４０歳と２０歳の間を戻ったり進んだりする人生には辛い事もあり楽しい事もあった。産まれて順調に成長していた我が子が、遡りのターンに入ると日々幼くなって行きその内、胎児に戻り遂には消滅してしまうのは最大に辛かった。だから、この２３４年の人生で子供は蓮太１人しか作っていなかったし、結婚は何度もしたが、２０歳に戻る度に避妊手術を受けていた。そしてこの奇妙な人生の楽しい所は老人にならずに済む所だった。

産まれて２３４年目の昭和６２年に拓也が、朝のバス停でバスを待っていると、１人の見知らぬ老婆が拓也に話掛けて来た。「普通の人生に戻りたいのなら、いつも乗っているバスはやり過ごして、後赤行きのバスに乗って終点で降りると良いよ。でも、今の奇妙な人生を永遠に続けたいのなら、いつも通りのバスに乗っていつも通りの停留所で降りると良いよ。普通の人生に戻るのはこれが最初で最後のチャンスだからね、時間は余り無いけどちゃんと考えてね。それじゃあね」と言い残し、老婆は去って行った。拓也は少し考えた後、いつも通りのバスに乗った。