【閉鎖病棟】⑦ただ、飯を食う!という特別な思い
1日3度の食事。
薬とラジオ体操と病棟散歩。
時々、風呂。
ここは、退屈で仕方がないな…。
小さな心の余裕が生まれた時。
閉鎖病棟の中。
毎日の健康チェック、食事、服薬。
ただ、それだけ。
ラジオ体操と風呂は、自由。
ただ、その時間に行くか、行かないか、それだけ。
外へ出たいなら行けばいい。
ただしその許可があるなら。
煙草は、時々吸えばいい。
トイレは、行きたくない。
まだ、保護室から出たばかりの頃の私について。
ベッドの上で寝たり起きたり。
突然ムズムズと暴れだす足を抑えつけたり、体をゆすって。
歩いてトイレに行くのも億劫で仕方がない。
出来ることなら我慢し続けていたかったけれど、そうもいかない。
病室を出て、右に行くか、左に行くか、そんなことでも悩んでしまう。
右のトイレは、病棟の一番奥にあって少し寂しい。
時々、嗚咽を感じる程に酷く汚い。
左のトイレは、食堂ホールに近くて常に騒々しい。
時々、人の視線や声を感じて嫌だ。
今でも、そのようなことだけはハッキリと覚えています。
なのに、母がいつから面会に来られるようになったか?
どれ程に心配した顔で、初めて病院にやってきたのか?
大切なことは、悲しいくらいに覚えていない。
しきりに母に訴えていた、「足がムズムズするんだ…。」という嫌な感覚も、今ではすっかり忘れてしまいました。
記憶は断片的。
今思えば、
毎日ただ決められた生活だけで、他にやる事もなく。
与えられたベッドと少しの空間だけで過ごすこと。
時々、まるで辻褄の合わない会話や不可解な出来事。
4ヶ月もの間、
私はどうやって過ごしていたのか?
そんなことが、今はとても不思議。
「今日は、何をしようかな?」
そんな感覚は、きっとその頃の私にはなくて。
それが退屈だとか、暇だとか、寂しいなとか…。
そういうことも、大した問題ではなかったのだろう。
毎日毎日、同じことの繰り返し。
だけど、1日3度の食事のメニューは、いつも違う。
これは好き。
これは嫌い。
美味しい。
マズい。
食べたい。
もういらない。
そんなことを感じながら、ただ食べる。
その度に、皆が揃って食堂に集まることや、
その後に、ホールで少しテレビを見ること、
そこで時々、誰かとほんの少し会話をしたり。
ただ、それだけのことも。
私にとって「食事」は、病室から出る目的になり、人と過ごすことに大きな意味を与えてくたのだろうと思います。
「ほら、来た。」
ご飯はね、いつもこの時間になると、ここからやって来る。
ただ、食事の時間。
そればかりが楽しみで。
他にすることは何もなくて。
まだかな…?を知りたくて。
そのうち私は、病室を出て行くようになりました。
私たちの食事を乗せたワゴンは、まるでお祭りの山車のよう。
配膳用のエレベーターの前には、いつも食事を待つ患者がいて。
扉が開いて、食事を乗せたワゴンが来ると、そのまま着いて歩く。
「ご飯が来るのを、待ってるの?」
ある時、私に声をかけてくれた女性がいました。
彼女は、私よりは大分年上で。
私と同じくらいの息子がいて。
息子は暫く見舞いには来ない。
ここにいるのは息子の為なの。
だから、寂しくはないのよね。
ご飯はね、いつも〇時になったら来るの。
だから、それまで少し歩こうか。
そうやって、私を誘ってくれました。
その頃の私の時間感覚は、まだ滅茶苦茶で。
エレベーターの扉の上に大きな時計があることも、彼女から教わりました。
楽しくおしゃべりをしながら歩く訳でもなく。
何となく、ただ彼女と一緒に歩くことが私の習慣。
私は、外出許可をもらえないから。
これは運動不足も兼ねてるからね、って。
1日3度の食事の時間が近付くと、彼女は必ず病棟内を歩き始める。
そして、
私がフラフラと病室を出て行けば、
その度に「歩く?」って優しく笑ってくれました。
だけど、
彼女が病棟で過ごしてきた数年に比べたら…。
これはとても少しの間。
他に良い話し相手と出会えたり。
病室での退屈をしのぐ物を得たり。
私が、彼女と歩くことは少なくなって…。
外出許可が出た頃にはもう、
食事の時間までに病棟に戻らなきゃいけないことが、ただ不便でならなかった。
病棟での4ヶ月。
クリスマスケーキも。
年越し蕎麦も。
新年の雑煮も。
閉鎖病棟の食堂には沢山の人がいました。
それぞれに、ただ食べるだけだったとしても。
それはそれで、今の私には大切な記憶です。
頂いたサポートは、より沢山の方へお伝えできることを目指して、今後の活動に、大切に使わせて頂きます。