【短編小説】リボルバー
黒木から間に人を介して連絡があった時、俺はネパールのカトマンズにいた。宿のWiFiを通してスマホをネットに繋ぐと、メッセージが届いていた。高校時代の友人、根本からだった。「黒木が君に会いたいと言っている。都合のいい日時を教えてくれ」と、それだけだった。
俺は「黒木って誰だ?」と返信した。しかしその返事はすぐにはこなかった。一週間後、日本に戻り、成田から家に向かう電車の中で再び根本から「お前が中学の時にダブルスのパートナーだった奴だよ」とメッセージが届いた。
「俺も奴に合うのは二十年ぶりくらいだった」と根本は言った。「なんだか、もうすぐ死ぬらしい」
「はあ?」と俺は言い返した。「死ぬ? もうすぐ?」
「ガンなんだそうだ。余命宣告されていて、もうすぐ死ぬんだと」
俺は根本が経営する蕎麦屋にいた。日本に帰ると自分の家に戻る前に彼の店に寄るのが習慣になっていた。だから、と根本は続けた。「早く連絡してやってくれ。死ぬ前に君に頼みたい仕事があるんだそうだ」
「仕事? 俺に?」
「そうだ。最初は俺に頼むつもりだったみたいだけど、断ったんだよ、俺は。あまり自由な時間がないからな」
「仕事って何だ? 聞いてたのか?」
「家の片付けとか、そんなことを言ってたのかな」根本は言いつつ厨房に戻りかけた。「家族というか、親族も誰もいなくて、誰か頼める奴を探してたらしい。だから早いとこ連絡してやってくれ。まだ死んでないとは思うけど」
俺と黒木と根本の三人は中学時代、同じバトミントン部だった。中学卒業後、俺と根本は同じ高校に、黒木は県内で一番の進学校に進み、それっきりになった。いや成人式の後の同窓会で会ったような記憶がある。しかしそれにしたってもう三十年も昔のことだ。俺は翌日、根本から教わった番号に電話をかけた。
「やあ、ありがとう」と黒木は言った。「詳しいことは会ってから話すよ」
「待ってくれ」と俺は言った。「まだ受けるとは言ってない」
「そうだね」と黒木は電話の向こうで言う。声だけなら余命宣告を受けた人間のものとは思えないくらいに清らかだった。濁りがない。「でも取りあえず、会って話がしたい。断るなら断るでそれはそれでいいし」
「それなら、まあ」俺は言った。「どこで会う?」
「出来たら家に来てほしい。そのほうが色々と説明できるし」
三十年ぶりに顔を合わす中学時代の友人との再会はどこか恥ずかしい。とっくの昔に葬った未熟で幼かった頃の自分の姿を隠し撮りされた映像で見る気分だ。いや俺だけ恒星間飛行から帰った宇宙飛行士だった。俺は光の速度で飛んでいた。相対性原理により故郷の時間の進みはずっと早かった。黒木がそれだけ老けていたのだ。髪は半分は白髪だったし、顔や腕の皮膚は弛み、ほうれい線が頬にざっくりと刻まれていた。「やあ、よく来てくれた」と黒木は言った。
「上がらせてもらうよ」と俺は言い、靴を脱いだ。五階建ての団地の四階だった。
「話は根本に少しは聞いたかい?」
「ああ」と俺は言う。言いながら室内を見渡す。
「かなり片付けたんだけどね」と黒木はネルドリップでコーヒーを煎れてくれた。「彼とはずっと会ってたんだ?」
「いや高校の同窓会が八年ぐらい前にあって、それ以来だな、よく会うようになったのは。嫁さんの実家の蕎麦屋を継いだなんて全然知らなかった」俺はテーブルを挟んで座る男を見る。「本当なのか?」
「余命宣告のことかい? 本当だよ、もうすぐ死ぬんだ。四ヶ月くらい前に半年は持たないって言われた。膵臓癌のステージ四ってとこだな」
「そうなんだ」
「君は健康そうだ」
「いや普通に五十過ぎのおっさんだよ」
「でも死ぬとは思ってない?」
「そうだな」と俺は言った。「考えないな」
「いつか死ぬんだぜ、誰でも。遅かれ早かれ人は死ぬ。君は遅かれかも知れないが、俺は早かれのほう。ただそれだけ」
「達観してるんだな」
黒木はくすりと笑った。「そんなわけで時間がないから手短に言うよ。実は俺の両親も既に死んでてね。なおかつ、二人とも一人っ子だったから、親戚というものが一切いないんだ。俺にも兄弟はいないし、死んだ後に片付けをしてくれる人が誰もいない」
「誰かはいるだろ?」
「そうだろうな、父親の爺さんの弟の子孫とか、どうにかして辿れば、誰かいるだろう。でも付き合いが一切なかった。どうも俺の両親はどちらの親からも結婚を反対されてて、駆け落ち同然だったみたいなんだ。そんなわけで、親戚関係には誰も頼れない。行政に頼んでもいいんだけど、それもな」
「問い合わせたのか?」
「一軒家なら、土地を自治体に納付できるらしいんだが、こんな賃貸の団地じゃあまるで価値がない」
「なあ、それより、お前本当に癌なのか? そりゃ少し痩せてるけどそんなに不健康そうには見えないぞ。からかってるんじゃないよな」
「からかってないよ、これは本気だ。だからタダでやってくれなんて言わない。それなりのものは払う。いや、金はほとんどないけど」
「ほとんど?」
「頼みというのは、早い話が断捨離だよ、俺の代わりにやってほしい。俺が死んだ後、この部屋の中のものをすべて捨ててほしい、俺の代わりに」
「捨てればいいのか?」
「自分のものもそうだけど、親のものもそうだ。捨てられなかった。もう使わないから捨ててしまえと強く念じるんだが、身体が動かない。捨てられないんだ。さすがにゴミみたいなものは捨てたけど、少しでも思い出が詰まってるものは駄目だな。捨てられない。でも君ならそんな思い入れはまったくないだろう?」
「ないな、確かに」
「そういう業者を呼んで君は指揮を取るだけでいい。それぐらいの金はまだある」黒木は食器棚の引き出しを開けて封筒を取り出し、俺の前に置いた。「一度、来てもらって見積りを取ったんだけど、これくらいあれば済むみたいだ。自分で全部やるなら、この金は君の懐に入れてもいい。好きにしてくれ。だからこれはその金だ」
「仕事は?」
「とっくに辞めた。というか早期退職に応募して三年前から働いてない」
「結婚は?」
「五年してたけど、インドネシアに駐在してた時に。色々合わなくて別れたけどな。日本語も喋れない現地の人だから頼みようがない」
「じゃあ子供も?」
「いないよ、だから君に頼んでるんだ」
「そうか」俺は言った。なんだか可笑しくなって笑った。「わかったよ」
「実は断捨離だけじゃなくて、他にも頼みがある。あともうひとつ」
「なんだい?」
黒木はその依頼を話した。正直、ぞっとした。「冗談だろ?」と俺は言った。しかし黒木は真面目な顔だった。茶化すことも、誤魔化すことも出来なかった。俺は「わかった、それも頼まれとくよ」と言った。断りようがなかった。
「それでその分の報酬が払いようがないんだ。金はほとんどないし、いつ死ぬか、正確に分かればいいんだが、そうもいかないし」
「いいよ、報酬なんて」
「そうはいかないって」と黒木は言い、財布を出した。そして中から一枚のカードを引っ張り出した。「これで払う」
「クレジットカードか」
「ずっと昔に付き合いで作らざるを得なくて、でも、あまり使いたくなくて、まったく手をつけてなかった奴。リボ払いのカードなんだ」
「それで払うって?」
「だから現金では無理だな。何か物じゃないと。でも車とかオートバイとか、名義が必要な物は無理だな。名義がなくて、そこそこ高い物、何かないかい?」
「あ、ああ・・・」俺は思案した。「レンズ、カメラの・・・」
言ってから、後悔した。これから死ぬ友人におねだりしている自分が醜く思えた。
「じゃあ、あとで機種名を詳しく教えてくれ」
俺はコーヒーを飲み干していた。その日はそれで帰った。
また三日後にはカトマンズに向かっていた。俺はこの十五年、ヒマラヤトレッキングのガイドだった。日本人観光客と一緒にヒマラヤの登山道を歩くのが仕事だった。そのためにも程度のいいカメラは必需品だった。しかし経費にはならない。俺は職業カメラマンではなかったからだ。写真集を出す話は二回ほどあったが、いずれも企画段階でぽしゃった。俺が撮影した写真を見た出版社の編集者はこう言った。「悪くはないんだけど、やっぱりどこかで見たような写真なんだよな」
プロのカメラマンにもなれなかったし、プロの登山家にもなれなかった。俺は仕方なくガイドになった。写真だけは続けていたが、客に喜んでもらう以上の写真は撮れないでいる。多分、死ぬまで撮れないだろう。
黒木と二回目に会ったのは、二週間後だった。少し頬がこけていたようにも見えたが、ほとんど変わってなかった。俺はレンズの機種名を書いたメモを渡した。黒木はその場でスマホを使いネット通販で注文した。
「三日後には君の家に届くよ。まだ日本にいるだろ?」
「ああ」と俺は答えた。その日、俺たちは外にいた。荒川の土手の上にある子供のための公園の中だった。ベンチに並んで腰かけていた。
「明日からまた入院だ」と黒木は言った。「まだ死なないとは思う。だが進行しているのは間違いないから、死ぬ日はひたひたと近づいてきている」
「どんな気持ちなんだろう?」
「交通事故とかである日、いきなり死ぬよりはいいんじゃないか? 心構えが出来るしな。でも可笑しいよな、このリボルビング払いのカードって」黒木は指で摘んだカードをひらひらさせた。「このカードで買い物をすると払う額は一定でいい。しかし利息がどんどん積み上がる。この利息から逃れるには、死ぬしかない。逆に言えば、死ぬ人間には最強のカードだ。いくらでも買い物が出来る。可笑しいよなあ、使っている奴が死なないことが前提になってる。人間なんていつか必ず死ぬのにな」
「借金じたいがそんなものだろう、死ねばチャラだよ、借金なんて。五億だろうと十億だろうと」
「まあそうだな」と黒木は言った。「聞いてなかったな、お前、子供は?」
「いないよ」俺は言った。「とてもそんな余裕はなかった」
「そうか」
俺たちは公園の中を見ていた。子供たちが四、五人、芝生の広場を走り回っていた。俺は横目で黒木を見た。彼は子供たちの姿を追っているようで少しも見ていなかった。視力はまだある。しかし視界には入らない。きっと別世界過ぎるからだ。俺は立ち上がった。
「来月があれば」と黒木は言った。「レンズ以外にも何か買って渡すよ」
「もういいよ」俺は言った。
「そう言わないでくれ、これは俺が好きでやってることなんだ。君は何も後ろめたく思うことはない」
トレッキングガイドの仕事は波があるので、俺はもう一つ、親戚が営む測量会社でも働いていた。とはいえ資格はないから、測量ポールを手にして指示されるままに歩き回るだけなのだが。それも忙しい時期に短期間、呼ばれて手伝うだけの仕事だった。一週間ばかり新潟の山の中で境界の杭を打ち込む仕事に従事して家に戻ると、黒木から連絡があった。
「都合のいい日を教えてくれ」
「しばらく暇で家でゴロゴロしてるが」
「じゃあ明日だ。リボ払いを使わせてくれ」
何かに急ぐような言い方だった。電話はすぐに切れた。翌日、俺は車で彼を迎えに言った。団地の入口でコンクリートの車留めに腰掛け、彼は待っていた。「よっしゃあ、行くぜ」
「どこへ?」
「んー、まずはイオンモールにでも行くか。今日は散財する。悪いが、運転手君、俺を連れて行ってくれたまえ」
中学生みたいな言い方だが、俺の記憶にある限り、黒木はほとんどふざけない奴だった。クソ真面目の黒木、と陰口を叩かれていたくらいなのだ。
「気分はどうだ? 入院していたんだろう?」車を運転しながら俺は聞いた。
「良くも悪くもないね」
「モルヒネとか、使ってるのか?」
「それはまだだが、そのうち必要になるだろうな」
駐車場からモールへの短い距離も、黒木は重そうに歩いた。右の肩が下がり、ガクガクと揺れていた。入口を抜け、そのまま行こうとした黒木に俺は「おい」と声をかけた。「乗っていくか、あれに」
入口の自動ドアの横に誰でも使える車椅子が置いてあったのだ。俺は半分は茶化したつもりだったが、黒木は立ち止まり、神妙な顔になって「いや、いいな、まだ」と答えた。「ああ、でも歩き疲れて動けなくなったら、乗るかもな」
黒木は再び歩き出した。俺たちは平日の午後の、それなりに人の多いショッピングモールの中を進んでいく。最初に入ったのは登山用品店だった。そこで黒木は俺にトレッキングブーツを買ってくれた。もちろん支払いは彼のリボ払いだった。次には腕時計の店で、GPS機能つきのごついアウトドア用の時計を買ってくれた。「礼はいらないぜ」と黒木は言った。
しかし彼は息苦しそうに見えた。俺は「お茶で飲もうぜ」と言った。
「写真を見せてくれよ」と黒木は言った。俺たちはフードコートの端っこで一息ついていた。「君が撮ったネパールの写真を」
「興味があるのなら見せるけど、別にたいしたもんじゃないぞ」
「あれから少し調べたんだ、ネパールの仏教のこととか、それで少し気になって」
「ああ、日本と少し違うからな。俺もさわりくらいしか知らないが」
「でも輪廻転生はあるんだろ?」
「あったと思う」
「これから死ぬ人間として、やっぱそういうのも気になってな」
「メールアドレスを教えてくれれば、あとで送っとくよ」
その日、黒木は俺にあとタブレット端末とエスプレッソマシンを買ってくれた。両手では持てず、カートに入れて運んだ。帰りがけ、カートを押す俺の横で黒木は躓き、転んだ。前のめりに倒れて両手と膝を床についた。
「大丈夫だ」
腕を掴み、支えて立ち上がらせた俺に黒木は言った。大丈夫そうではなかった。まったく何もない平らな床の上で転んだのだ。「無理するなよ、少し休むか?」
「いや、いい」黒木はカートの縁をつかんで息を整えた。「これは俺が押していくよ」
「そうか」俺は横にどき、把手を彼に任せた。車椅子の代わりにはならなかったが、支えにはなった。
その日の夜、俺はパソコンの中の写真を整理していた。黒木に送る写真を選んでいた。あまりにも膨大な量のデータがあちこちのファイルにでたらめに保存されていて、自分でも整理しきれていなかった。それでも五枚ばかり選んで送った。三日後、再び、ネパールに向かった。
その回のトレッキングは天候の悪化に見舞われて予定の半分しか消化出来なかった。強い雨と風でとても外を歩き回る天気じゃない。宿から出られず、雨粒の当たる窓ガラスを見ているしかない日々を過ごした。
「こんなことってよくあるんですか?」と宿の食堂でぼんやりしていた俺に客の女性が話しかけてきた。
「そうですね、たまにはありますね」俺は答えた。バター紅茶を飲んでいた。「少しくらいの雨なら強行するんですが、今回はさすがに無理ですね」
「そうですか」と彼女は言った。俺と同い年くらい、五十歳代の白髪まじりの女性だった。「あの、ところで輪廻転生ってあると思います?」
「輪廻転生ですか。うーん、どうでしょう? 多分、誰も答えられないと思いますよ。どんなに偉いお坊さんでも」
「そうですか」と彼女は詰まらなそうに言った。
そしてしばらく彼女は黙った。窓に寄り、雨が降りしきる外の様子を静かに眺めていた。俺は紅茶を飲み干し、お代わりをポットから注いだ。
「先月、父が死にまして」と彼女は言った。「大腸がんでした。けっこう長く患ってて、最後は何もできずにただ看取ることしかできなくて」
「ああ、それは」俺は言った。
「テレビでヒマラヤとかエベレストを放送するとよく見てたから、多分、来たかったと思うんですよね、父も」
「ご高齢の方のたまに見えられますよ」
「いいえ、私が勝手にそう解釈しているだけですから」と彼女は言う。「多分、来たかったんじゃないか、ヒマラヤの景色を自分の目で見たかったんじゃないか、とそう想像で話しているだけですから」
彼女はそう言い残すと、食堂から出て行った。窓の外では風が唸っていた。
その後、俺は日本に帰り、またネパールへ行き、ということを何度か繰り返した。黒木から連絡はなかった。一度だけ、俺は教わっていた彼の家の電話を鳴らしたのだが、誰も出なかった。もしかしたら彼はもう死んでしまったのでは、とそんな悪い予感が頭をよぎったが、何もできなかった。あるいはただ入院しているだけかもしれない。しかしどこの病院に入院するのかも聞いてなかった。俺は待つことしか出来なかった。その電話が掛ってきた時、俺は昼飯のカップラーメンにお湯を注いでいた。画面を見ると知らない固定電話の番号が表示されていた。
「小宮山さんのお電話でよろしいでしょうか?」若い女の声だった。
「はい、そうですが」
「黒木さんのご友人の、小宮山さんで?」
「はい、そうです」
「黒木さんが、今朝方、お亡くなりになりまして」
「え? ああ、はい」
「遺体の引き取りなどを頼んである、と黒木さんから伺っていたのですが、それは正しいのでしょうか?」
「ああ、はい」俺は言った。「頼まれてます」
俺は病院の場所を聞き「じゃあ、一時間後に伺いたいと思います」と言った。電話を終えると、カップラーメンを啜った。
隣の市の総合病院だった。黒木は個室の病室で静かに眠っていた。看護師の男性が「ご確認を」と言い、身体を被っていた布が剥がされると、数週間ぶりに黒木と再会した。白いガウンを着ていた。顔は引きつっているようにも、穏やかに眠っているようにも見えた。俺はしばらく彼を見下ろしていた。看護師が俺を見た。
「はい、そうです。友人の黒木です」と俺は言った。
「葬儀社と連絡はついています」看護師は言った。「葬儀などの手順も任せてあるとのことでしたが」
「はい」俺は言った。「任されてます」
「葬儀社の方はあと一時間ほどで到着します。それまでお待ちください」看護師はまた黒木に布を被せ、出て行った。
枕元と部屋の壁に俺が送った写真が貼ってあった。風にはためく五色の旗、そそり立つヒマラヤの峰々。見ていると若い女の看護師が入ってきた。「黒木さんの私物の整理もお願いしてよろしいでしょうか?」
「ああ、はい」
彼女が「使われます?」と空の段ボール箱を渡してきた。
「使います」俺は言い受け取った。
ベッドの横の引き出しに彼の私物があった。鍵の束、スマートホン、プラスチックのコップとティッシュの箱、二冊の漫画雑誌、着替えのTシャツ、二枚のバスタオル、それくらいだった。看護師の女の子に手伝ってもらい、俺はそれらを箱に詰めた。そして「あの、この写真は何でしょう?」と聞いた。
「私がコンビニのコピー機で印刷したんです。気に入ってる写真とかで」
「それは俺が撮った写真で、見せてくれって頼まれてて・・・・・まさか死んでから連絡が来るとは思わなかった。確かに葬儀のこととか色々と頼まれてたけど、勘違いしてた。最後のときに立ち会えるのかと・・・・・」
「私も黒木さんに聞いたのですが、ご本人の要望でしたから」
「え?」
「連絡は死んだ後でいいと、黒木さんが」
「そうですか」俺は彼女が壁から剥がした俺の写真を段ボール箱に入れた。
葬儀社のワゴン車に収まり、黒木の遺体は病院を出た。俺は自分の車で続いたが、途中で道を変え、市役所に向かった。黒木の死亡届を提出し、国道沿いの葬儀社の安置施設に向かった。俺が遅れて着くと彼の遺体は棺の横に並んでいた。「では納棺を始めてよろしいでしょうか?」と黒いスーツ姿の男が言った。
「どうぞ」
俺以外は葬儀社の三人の男だった。四人で黒木の遺体を持ち上げ、棺の中に押し込めた。
「荼毘にふすのは明後日になります」と葬儀社の男が俺に言った。「明日は火葬場の定休日になりますので」
「ああ、はい。今日ではないのか」
「臨終から二十四時間以内は法律で出来ないので」
「そうなんだ」俺は言った。「代金は払い済みと聞いてたけど、それでいいんだよね?」
「はい、二ヶ月前にご本人から。ご両親の時もお世話させていただいたので」
「そうか。俺は立ち会うだけでいいと言われてたから」
「では、明後日、お願いします」
二日後、さすがに俺も喪服で家を出た。葬儀社の安置施設には根本もいた。「やあ」と彼は言った。俺が黒木の死を知らせたのは彼だけだった。中学の時の部活仲間を集めていいかとも思ったが、俺は心のどこかでは、黒木はそんなものを望まないだろう、という気がしていた。
「俺もそう思うね」と根本も言った。
俺と根本、それに葬儀社の若者たちで棺を担ぎ、霊柩車に載せた。遺族が座る席は無人のままで、俺と根本はそれぞれの車で火葬場に向かった。
「棺に一緒に収めたいものは何かございますか?」
炉の前で葬儀社の男が聞いてきた。俺は「じゃあ、これを」と病室に黒木が飾っていた俺の写真を二枚、入れた。そして最後に彼の顔を見た。同い年の男、同級生だったが、その後はほとんど関わりを持たなかった男、俺はそんな黒木の顔を最後にじっと見て、棺の蓋を閉めた。
火葬が終わるまでの間、俺と根本は控え室で過ごした。親戚や近所の人の葬儀で、この火葬場には四、五回は来ているだろう。しかしここまで簡素な葬儀も初めてだった。もちろん飲食は何も用意していない。自動販売機でペットボトルのお茶を買い、畳の広間に座った。
「あっけなかったな」と根本が言った。
「かもな」俺も答えた。「葬式は別に初めてじゃない。死体を見るのも。登山道でぐちゃぐちゃになってるのも見たこともある。しかし、同い年の知り合いが死ぬのに遭遇するのは初めてだからそのへんは違うな」
「あっけないものだな。俺はあいつが生きている間に何をしたのかほとんど知らないままだ。お前もだろ? そんな二人しか葬式にこないなんて、それでよかったのかな?」
「それでよかったと思う、少し前、本人からそんな話を聞いたから」
「そうなのか・・・」と根本は言った。
火葬場の職員が「そろそろお時間です」と呼びにきた。俺たちは炉の横の部屋に、骨を拾うための小部屋に入って待った。白く、粉々になった骨が運ばれてきた。俺と根本でそれらを拾い、骨壷に収めた。それで終わりだった。黒木の葬式はそれですべて終わった。
駐車場で根本は俺に言った。「お前はまだやることがあったんだよな?」
「ああ、そうだ。家の片付けと、そう、もうひとつ。そっちが頼まれていた本番だ。その分のギャラも貰ってる。黒木の望みどおり、ちゃんとやっておくよ」
「じゃあ、またな。店に顔だせよ」根本は言い、ネクタイを外し、自分の車で帰って行った。俺もネクタイを外して上着も脱いだ。助手席のシートに骨壷を置き、車に乗った。黒木の自宅に向かった。遺品の中にあった鍵を使って団地の彼の部屋に勝手に入り、骨壷を置く。食器棚の引き出しを開けて封筒を出した。数枚の一万円札とメモがあった。片付け業者の電話番号が書いてある。俺はその場で電話をかけた。
四日後、俺はまた黒木の団地に向かった。中で待っているとすぐにチャイムが鳴った。清掃業者が四人、部屋に入ってきた。
「ええと、以前にここの住人とは話してると思うけど」
「はい、以前に。全部廃棄でよろしかったと聞いてますが」
「うん、そう。それ以外は全部、捨てていい」俺は食堂の床に置いた骨壷を指差して言った。
「では、作業に掛ります」
俺は食堂の椅子の腰かけて作業を見ていた。若い男女の作業員が部屋の荷物を次々に運び出していく。引っ越しと違って荷物は捨てるだけだから、丁寧な梱包はない。大きな家具から順に部屋から消えていく。家具が運び出されると、清掃になった。掃除機で埃を吸い、雑巾で床や壁を丁寧に拭いていく。半日で終わった。黒木とその両親が住んでいた跡形はなくなった。
「その椅子もよろしいですか?」
「ああ」俺が言い、立ち上がると、部屋からは何もなくなった。骨壷だけが残された。作業員たちと入れ違いに団地の管理人が入ってきた。俺は四日前、すでに彼に挨拶を済ませていた。俺は彼が差し出した書類にサインをする。そして鍵の束から玄関のものを外して渡した。
「ご苦労さまです」と彼は言った。そして床の骨壷を見る。「あとはそれだけですか?」
「ええ」
「どちらのお寺に?」
「彼の父親のお寺が群馬の方にあるとかで、そこへ。すでに話はしてあります」
「そうですか」
俺は骨壷を抱いて先に部屋を出た。続いて管理人が部屋を出て施錠した。「それじゃあ」と俺は言って歩き出した。その日、俺は自転車で来ていた。ママチャリの前籠に骨壷を入れて走り出した。群馬の寺、というのは嘘だった。黒木からそう言えと教えられていたのだ。俺が黒木から頼まれていたのは、断捨離と散骨だった。
「父親のも母親のもそうしたんだ。もちろん、本人たちが望んだからだぜ。寺に墓を構えるのが面倒だとか、そういうことじゃない。いや、それもあるだろうが」
「経験済みなのか」
「ああ。しかし自分のは出来ないからな」
数週間前、荒川の土手の上の公園で話していた時のことだ。黒木は俺に詳しい手順を教えてくれた。散骨をするなんて人には話すな、適当な嘘をつけ、そして骨の砕き方も。
「高温で焼くからほとんど跡形はないと思う。でも少しでも形が残ってたら石で潰せばいい。骨壷の中に石を押し付けてがりがり潰してくれ。骨が河原に落ちていたら通報される可能性もあるが、粉々なら分かりゃしない」
「なるほどな」
「俺の両親は駆け落ち同然だと話したろう。これは俺の推測なんだが、多分、二人は二人だけで死ぬまで過ごすつもりだったんだろうな。俺が生まれたのは想定外だった気がする。いや、別に虐待されたとか、そんなことはないんだが」
「思い過ごしだろ」
「かもしれない。でも二人共、この世に執着はなかったな。ただ生きて、死ぬ時がくればただ死ぬのを待っていた、そんな感じだったよ、親父もお袋も。だから俺もそれでいいんだ」
荒川の土手の斜面を立ちこぎで上がり、少し休んだ。強い風が吹いていたので、汗を乾かした。今度は坂を降りていく。河川敷の麦畑の横をしばらく走ると舗装道路は終わり、砂利道になる。籠の中の骨壷がガタゴトと揺れた。
河原に降りていく急斜面の前で自転車を停めた。俺は骨壷を取り出し、身体の前に抱えて砂地の坂を降り、河原に出た。幸い人の姿はない。平日のまだ早い午後だった。
じゃりじゃりと石を践み鳴らしながら水際まで進んだ。しばらく大雨がないからだろう、荒川の流れは穏やかだった。俺は骨壷を地面に置き、蓋を開けた。確かにまだ少し人の骨の形を残している。俺は自分の拳ほどの大きさの石を拾って掴んだ。
俺は白い骨に石を押し当てて潰した。「これはレンズの分」
さらに潰した。「これはブーツの分」
ごりごり。「これは時計の分」
まだ顎の骨が形を残している。「これはタブレット」
だいたい粉になった。「これはエスプレッソマシンの分」
俺は石を投げ捨てた。そして河原に座ると靴と靴下を脱いで裸足になり、スボンの裾をまくった。立ち上がり、骨壷を拾い上げると、川の中に入って行った。川の中の大きな石は滑りやすく、バランスを崩しかけたが、何とか踏ん張る。膝下が浸る深さまで進むと、腰を屈め、ゆっくりと骨壷を川に浸した。川の水がざっと壷の中に入り、粉々の骨が浮かび、そして俺が揺すると、水は壷から出て行った。それを何度か繰り返す。黒木の骨だった白い粉はすべて荒川の流れに乗って、流されて行った。
俺は腰を伸ばす。そして気づいた。この骨壷は?
「聞いてなかったな。お前はどうしたんだ?」
俺は陶器の壷を肩の高さまで抱え上げ、川の深みに放り投げた。どぼん、と水音が鳴り、壷はすぐに沈んだ。どうせ陶器の壷だ。台風でもくれば粉々に砕けて跡形もなくなるに違いない。川から上がると、河原に蓋が残っていた。俺は水切りをするように蓋を低く投げたが、一度も跳ね上がらずにそのまま水面に消えた。
俺は靴を履き、河原を後にした。自転車を漕ぎ、麦畑の横を過ぎて再び土手を上がった。そして自分の家まで土手の上のサイクリングロードを走り出した。しかしいつの間にか風がさらに強まっていた。空は晴れていたが、風だけが唸っていた。おまけにまともな向かい風だった。
俺は自転車を停めて、汗を拭う。黒木はあっという間にいなくなった。この二ヶ月、彼の最後に立ち会ったが、きっと誰でもよかったのだろう。弾倉に納められた弾丸が順番に飛んでいくように、俺が断ったとしてもきっと誰かがやっただろう。俺もそのうち同じように消えていく。それは明らかだった。何年後か分からないが俺も黒木と同じように死んで、骨になり、粉になる。それだけのことだ。何年後かなんて知ったことじゃない。その時まで生きるだけだ。死ぬ瞬間まで生きて、あとは死ぬだけだ。
(了)