【短編小説】怒りを込めて振り返れ
半年ぶりに再開した 新谷が岡駅の階段を登りながら、ぼくはあの事件のことを思い出していた。ここに来る前までは気が重く、とても登れない気がしていたけど、実際に来てみたらそうでもなかった。あの事件のことは過去のことだ。発生した直後は確かに衝撃を受けたし、言葉も出なかった。しかしぼくはもう克服した、ああ、そう断言したい。
その事件とは日本中を震撼させたテロ事件、一人の人間が引き起こしたものでは世界最大の犠牲者を出した最悪の悲劇だ。事件の首謀者はぼくの友達だった井澤兼好で、彼は小学五年と六年の時は一番の親友だったが、その後仲違いし、後に彼はぼくに恨みを抱いて脅迫までした。しかしその後、ぼくらは和解し、以前ほどではないけど友達に戻った。それからきっちり半年後だ。彼は無差別テロで大勢の無実な人々を死に追いやった。その現場がここ、新谷が岡駅だった。
小学生の時に初めて会ったときのことは思い出せない。しかしぼくらはほんの数日で仲良くなり、休み時間や放課後の多くの時間をともに過ごすようになった。もちろん学校だけの関係ではなかった。彼の家と僕の家は少し離れていたけど、自転車でなら十分もかからない。自然に彼は僕の家によく遊びに来ることになった。しかしその逆、ぼくが彼の家、いや小さなアパートに遊びに行くことは滅多になかった。彼のじいさんが病気で臥せっていることが多く、小学生がどたばたと遊んでいいような環境ではなかったんだ。
当時、小学校五年生の僕らの一番の共通の話題はカードゲームとサッカーだった。ぼくは低学年の時から地域のサッカークラブのメンバーだったし、彼も体育の時間にサッカーをする時はかなりの上手さだった。ぼくは何度か彼を僕のチームに入るように誘ったのだけど、「いいよ、おれは。休みの日は家にいなきゃだし」と言って断った。当時、ぼくは彼の言葉の意味をほとんど理解していなかった。じいさんの看病があるし、という彼に「年寄りなんてほっとけよ」なんて、心無い言葉をかけていた。(ああ、いまでは後悔しているよ。でもぼくはまだ小学生だったんだ)。
ぼくは自動販売機で名古屋までのチケットを買い、改札を抜けた。売店の横を過ぎ、プラットホームに上がる階段の前で立ち止まる。そうだ、あの日、ぼくはこの場所で兼好と会った。そして言葉を交わしたんだ。もちろんその様子は監視カメラに映っていた。だからぼくは彼の共犯に疑われ、かなり厳しい取り調べを受けたし、マスコミに付け回されたりした。結局、疑いは晴れたのだけど、彼が起こしたテロがあまりにも凄まじかったから警察も単独犯だとなかなか信じられなかったみたいなんだ。あの日のことは僕もはっきりと思い出せる。彼と交わした会話、彼の表情、どれもぼくの脳裏に刻み込まれている。彼は階段の下で立ちすくみ、電光掲示板を見上げていた。最初、ぼくもなぜ彼がこんな場所にいるのか不思議だったが、声をかけようと近づいた。彼はぼくが「よう」と声をかけるまでずっと上を見ていて僕には気づいていなかった。
「久しぶりだ、何してんだよ」とぼくは言った。
兼好は振り返って僕を見るなり、ぎくりと身体を縮めて半歩後ずさった。そして何か言おうとしていたけど、ぼくのほうが続けた。
「珍しいな、旅行か?」
「ああ、そうだな」と彼は言った。ぼくとは目を合わせたくないかのようにうつむき加減だった。けれどそんな挙動不審なところは彼のよくする仕草なので、なんとも思わなかった。「まあ、そんなところだよ」
ぼくは彼の足許のバッグを見た。黒い大きな、いや長細くて子供がすっぽり入れそうな巨大なバッグだった。「一週間ぐらい? どこへだよ?」
「いや、知らないほうがいい」そして兼好はぼくを見た。「お前はいい奴だよ、だから早くいけよ。次の新幹線だろ」
「そうだけど」
その時でさえ、彼が何を考えているかなんて、ぼくにはまったく解らなかった。当たり前だ、解ってたまるもんか。その時すでに彼の頭の中はどす黒い計画で一杯になっていたなんて解るはずがないんだ。警察の取り調べの席で、捜査官はぼくにこんなことを言った。「君は彼を止められたのに止めなかったんだな。それについて何も思わないのか?」って。ここではっきりさせておきたいけど、ぼくは彼の無差別テロにいっさい関わっていない。相談も受けていないし、計画をほのめかされたこともない。すべては彼が一人で全部、計画立案し、準備し、そして実行した。ぼくが知る限り、いやその後の警察の綿密な捜査でも、彼はまったく一人でこのひどいテロを敢行したとのことだ。小学校の頃に遡っても、彼の口から大勢の人を殺したいなんて言葉が出てくるのを聞いたことはないんだ。だからその時、ぼくが彼と最後に言葉を交わした相手になったのもまったく偶然だし、いや、もしかしたらぼくも巻き込まれて死んでいたかもしれない。実のところ、ぼくも彼にそんなに構ってなんかいたくなかった。お盆休みに実家で過ごし、明日からの仕事に備えて職場の寮に戻る途中だった。いや本当はその前に当時付き合っていた女の子と会う予定を立てていた。だから早いとこ地元の谷が岡を離れて、名古屋に向かおうとしていた。
「じゃあ、またな」とぼくは言って彼と別れ、プラットホームに上がるエスカレーターに乗った。エスカレーターに揺られながら振り返り、彼のことをもう一度見たけど、その時でさえぼくは彼の魂胆にまったく気づいていなかった。兼好はまた同じ場所で、同じ電光掲示板を見上げているだけだったんだ。今になって思い返せば、いくら普段から挙動不審なところがある彼でも、新幹線の駅になんているはずがないのに何でいたのかとか、疑問に思える気配はあったのだと思う。でもぼくは本当に抜けていたというか、二時間後に会う予定の女の子の事で頭はいっぱいだった。(正直に言うけど、会ってすぐホテルにいく計画だったんだ)。
兼好と別れたぼくがホームに上がると、ちょうど名古屋行きのこだまが滑り込んできていた。慌てて乗り込み、ほぼ十割の混み具合の車内を進み自由席の通路に立ったまま荷物を足許に置いた。するとすぐに新幹線は走り出していた。それから約十分後のことだ。遠くでどーんという雷が落ちたような音が一瞬、いや二回に渡って鳴り響いた。するとぼくが乗っていた新大阪行きのこだまは徐々に速度を落とし、駅でもない線路上に停止した。車内アナウンスが事故のため緊急停止しました、と告げたが、ぼくもそしておそらくほとんどすべての乗客もすぐに回復するだろうと、のほほんとしていた。けどそれはとんでもない見当違いだった。とてつもなく長い一日の始まりだったのだ。
あのとてつもないテロ事件があった直後、テレビを始めとしたメディアはさかんに兼好の過去をほじくり返した。そしてこんなステレオタイプを作り出した。いじめられっ子が復讐のために起こした凄惨な事件だ、と。そうかもしれない。確かに兼好はいじめっ子ではなかった。しかし彼がひどいいじめのターゲットになっていたのかと言えば、それも疑問なんだ。ぼくは彼が殴られたり、カツアゲにあっているなんて事実は見たことも聞いたこともない。ただからかいの対象になっていたことは確かなんだ。それは彼が少し、他の連中と違う反応をしたからだろう。どこかよそよそしく、挙動不審で、たまにどもったりすることもある。中学に入ってから、ぼくはサッカー部に入っていて忙しかったし、彼とは少し疎遠になっていた。三年間で同じクラスになったこともない。でも体育の授業は隣のクラスとの合同だったから、中二と中三の二年間は週に三日か四日、一緒に同じ授業を受けていたことになる。バスケやサッカーの時には対戦したり、学校のグランドで顔を合わせていたけど、ぼくらの関係に特に何も変化はなかった。でも、彼が少しづつおかしくなっていったのは、やはり中学生の頃からだろう。
ちなみに彼の兼好という名前はカネヨシと読む。でも古典の授業で徒然草が取り上げられた時から、周囲は彼のことをケンコーと呼ぶようになった。これは中学生のことだから仕方がない部分はあると思う。そうした小さな、他愛もないからかいが彼に対して向けられたのは事実なんだ。でもからかわれる当人がどれだけ傷つくかなんて周りの奴はまったく考えない。そう、そういう意味では確かに彼はいじめられっ子だった。もっと正直に言うならクラスの中のヒエラルキーの、かなり下の方に押し込まれたんだ。だれも彼のことを殴ったり、蹴ったり、転ばしたなんてことはない。でも一度でもそんな最下層の地位に認定されてしまうと、毎日がただ詰まらない、苦痛以外の何物でもなくなる。ああそうだ、彼本人は少しもおかしなところのない、普通の少年だった。でも周囲が彼をあんなモンスターにしてしまった。学校と、そして恵まれなかった家庭の環境とがだ。
確かに兼好の家庭関係は複雑だった。子供の頃から友達だったぼくでさえ聞いていなかったことも多く、事件の後の報道で初めて知ったこともたくさんある。まず彼には父親がいなかった。そして母親とじいさんの三人で小さなアパートに暮らしていた。アパートと言っても、集合住宅になっているのではなく、小さな一戸建てが密集して建てられている、田舎にしかない形態のものだ。兼好の母親とは何度も会っていたし、言葉をかわしたこともある。少し暗い感じがする女の人だけど、まあ普通のお母さんだった。けど彼のじいさんは病気で寝ていることが多かったので、ほとんど会っていない。そしてこれはぼくも事件の後に知ったことだけど、そのじいさんというのは母親の父ではなく、父親の父にあたる人だった。つまり、兼好の母親は、兼好の父親と離婚していたのに、その人の父親と暮らしていた、ということになる。父親は死別したわけでもなかった。東京の方で今でも暮らしているらしい。つまり、どういうことか? 兼好の母親は夫の父親にあたる人と恋愛関係になり、駆け落ちして、そんな小さな家にひっそりと暮らしていたってわけなんだ。じゃあ、兼好自身は父親の子供なのか、じいさんの子供なのか、それはぼくにも分からないし、もしかしたら兼好自身も分かっていなかったのかもしれない。とはいえ、それは事件の後に明らかになることなので、中学時代の彼のからかいのネタにはなっていない。そしてそのじいさんはぼくらが中三の冬のある日に死んだ。少し不可解なところはあるけど、病気で死んだことには間違いないだろう。テレビのワイドショーでは、母親かもしくは兼好が介護疲れで殺したのではないか、なんて妄想を垂れ流していたけど、最後の数日は病院のベッドの上なんだからそれは無理だろう。酷いうわさ話のたぐいだ。
中三のある寒い日、体育でサッカーをしている時にぼくは兼好の姿がないのに気づいた。けれど特に気に留めたわけではない。彼と会ったのは翌日だった。「まったく、面倒くさいよ」と彼は言った。本当に面倒臭そうな、嫌なことに巻き込まれた人の顔をしていた。「今夜お通夜で明後日に葬式だって。なんだか、色々とやることがあって本当、疲れたよ」
「でもさ、これでもう看病をしなくていいんだろ」
「ああ、そうだ」と彼は言い、足許の石ころを蹴った。「そうなんだよ、でも、もう遅いけどな」
何が遅かったのか? ぼくはその時突っ込まなかったから、はっきりとしたことはわからない。彼が何を考えていたのか? 彼の本心とは何だったのか? じいさんの看病なんかしていない中学時代を送れていたら、いったいどんなことを体験できていたのか、そんな彼の心の奥底の本音を引き出していたら、彼はどれだけの思いをぶちまけていたのだろう? でも兼好はそれ以上は何も言わなかった。もし彼のじいさんがもっと早く死んでいたら、彼もぼくらと同じような普通科の高校に進学していたかもしれない。でもじいさんの年金が収入の半分だったという彼の家の家計にすれば、それもあと付けで考えた勝手な想像に過ぎない。
兼好は少し離れた大きな町の選択制の高校に進学した。昔で言う夜間高校だ。そして昼間はコンビニで店員として働いていた。ぼくは彼がコンビニ店員になったというのは聞いていたけど、どこの店かなんて知らなかった。だからある日に、土曜日のサッカー部の練習試合で訪れた町のコンビニに入った所で偶然、彼と会ったんだ。
「よう、元気かよ」といきなり話しかけられてぼくは驚いてしまった。まさかこんなところで兼好と再会するなんて思ってもいなかったから。「高校はこの近くだったんだ?」
「たまたま来ただけだよ、サッカー部の試合でさ」とぼくは言った。でもその時はサッカー部の連中と20人ぐらいでつるんでいたから、あまり彼と話せなかった。「あとで連絡するよ」
でもぼくは彼に連絡しなかった。ぼくは彼のことを嫌ってなどいなかったし、親友だとも思っていた。でも彼との間に溝が出来てしまったことも感じていた。そりゃあ、仕方がないだろう。もうぼくらは小学生の頃のカードゲームやテレビゲームで遊んでいた仲でもない。中学生の頃の、ふざけてじゃれ合うような頃も過ぎた。当時のぼくは本当に部活に熱中していたし、一年生なのに全国大会も狙える学校のサッカー部のレギュラーに近いところにいたから、正直、兼好のことはどうでも良かった。けれども彼の生活はさらに追い詰められたものになっていたのは、そのあとしばらくしてから母親から聞いた。今度は兼好の母親が病気になり、仕事を辞めて通院をしている、というのだ。
「はっきり言わなかったけど、うつ病みたいね」と母は言った。
「会ったの?」
「スーパーで会った時に話しかけたんだけど、もの凄く落ち込んだ顔をしてて。とても健康そうには見えなかった」
もちろん本当にうつ病ならスーパーで買い物なんか出来ないのでは、なんて今では思うけど、当時はそんなことに詳しくなんてない。でも実際に兼好の母親はその後に身体を壊し、入院するほどではないものの仕事を辞めて家で過ごすことが多くなったらしい。すると兼好が母親の面倒を見つつ仕事へ行き、生活費も稼がなくてはならない、ということになった。だからぼくはまったく彼のこうした家庭の不幸が彼をあんな事件に向かわせたのだ、と思わずにはいられないんだ。もし彼の家が普通の家だったら、父親がいてその父親が普通に働いていて、金銭的に追い詰められたりしてなくて、どこにも歪なところのない普通の家庭で育っていたら。それならあんな悲惨な事件など起きなかったのではないか、と。でもそういったぼくの考えに反対する意見があることも知っている。「彼よりも不幸な家庭なんてどこにでもある。不幸な家庭に育った奴が皆テロリストになんてなるわけない」って。そうかもしれない。その通り、もっと不幸な家に産まれてもそんな運命を跳ね返して偉くなったり、金持ちになったりする奴もいるだろう。ではなぜ兼好はそうはならなかったのかと、ぼくは今でも考える。確かに誰でも上手くいかないことはある。ツイてないことばかりでまったくやってられないなんて思うことはあるよ。でもだからって大勢の人を無差別に殺してやりたいなんて思わない。だから、もしかしたら兼好だって大勢を殺したいなんて思ってなかったのかもしれない。道端の自転車を蹴っ飛ばして憂さ晴らしをしたい、とそれくらいの考えであんなテロを起こしたんじゃないかって気もする。彼にとってはそんなただの憂さ晴らしだったんじゃないかって。
彼から連絡があったのは、コンビニで再会してから一年後くらいだった。「久しぶりだな、ちょっと会おうぜ。話があるんだ」というメールがぼくの携帯に届いたんだ。待ち合わせは、駅前のマクドナルドだった。駅前と言っても新谷が岡ではなくて、谷が岡駅の方だ。新谷が岡駅は新幹線のみの駅だから、街の中心からは少し離れている。ぼくがマクドナルドに少し遅れていくと、彼は二階の席でもう待っていた。そこで彼が話したのは、こんなことだった。「先月から代理店になったんだ。タイヤの販売だよ、みんなに勧めてるんだ。高性能だけど、値段もそこそここなれているマックスタイヤってメーカーなんだ、知らないかい?」
「知らないな」とぼくは答えた。
つまり彼がはじめたのはマルチまがいのタイヤ販売だった。メーカーや販売網はすでに確保されていて、ただ売り捌く販売代理店の権利のみを何万円だか払って得る。売り上げによりランクが上がり、インセンティブも増え、また他の代理店を傘下に従えれば手数料も増額し、さらに収入も上がる。聞いているだけでぼくにはネズミ講めいたからくりをタイヤの販売に上乗せしているだけなのが判ったが、兼好はまったく気づいていなかった。いや気づいていないフリをしていたのかもしれない。とにかく「凄く儲かる」とか「ランクが上がる」とかそんな誰かに吹き込まれたような言葉しか言わない彼の姿にぼくは心底がっかりしていた。でも彼の境遇を知ってもいるぼくは、何も言えなかった。そんな下らないものから手を引け、あの時そう言っていればと悔やむこと今でもはある。しかし目を輝かせて明るい未来を語る彼に何も言えなかったのは確かだった。
「コンビニはどうしたの?」ぼくが聞いたのはそれだけだった。
「辞めたよ、もちろん、おれはこの仕事で成り上がるからさ」
まったく彼を責めることなんて出来やしない。彼はその時まだ十八歳の高校生だったんだ。彼もそれなりに努力し、情報を集めて考え、自分なりに突破口を見つけ出そうとしていたんだ。ただその方向がまったくトンチンカンだったというだけなんだ。ぼくはその日、パンフレットだけを貰い、まあ親に聞いてみるよ、とだけ答えて彼と別れた。ぼくの家には父の車と母の軽自動車の二台があったが、母はちょうどタイヤ交換の時期だから兼好に頼んでもいい、ということだった。母も彼の家の窮状を知っていただけに、少しでも助けになればという思いがあったのだろう。指定された日に指定された工場に母と出向くと、兼好はニコニコと満面の笑みだった。そしてお父さんの分もよろしく、としつこいくらいに言った。でも母は帰りの車の中で「父さんは多分、無理よ」と言った。そして実際にその通りになった。父はかなりのオフロードマニアで、四駆の車をたくさんカスタムし、いじっていた。ぼくも小さな頃から林道や河川敷に連れて行かれていた。当然、車の部品にはこだわりがあり、タイヤもそのうちのひとつだったのだ。
「そんなわけのわからんメーカーのタイヤなんか履けないな。命に関わるものだからな」と父は言った。
まあ、そうだろうなあ、とぼくも思い納得した。しかし兼好は納得なんてしなかった。断りの電話を入れるとひどく怒り、ぼくに汚い言葉を浴びせたんだ。小学生の頃に喧嘩して以来の、ありえないくらいの悪口だった。「ふざけんな、父さんの車も大丈夫だって言ったよな?」と彼が言うのでぼくは「そんなことまったく言ってないぞ」と言い返した。彼が勝手にぼくの言葉を解釈し、自分に都合のいいように受け取っていただけなんだ。高い四駆のタイヤの代金を儲かったつもりでいたなんてぼくの知ったことではなかった。
「知らないよ、お前が勝手にそう思ってただけだろ!」
ぼくはそう言って突き放した。この件にはぼくも頭にきていた。彼に同情して母の車のタイヤを交換させたことさえも後悔した。しかし彼はその後何日も、ぼくに連絡したり、一度は家の前までやってきて喚き散らしたりした。その時はさすがにぼくも背中がゾクッとしたよ。こいつはもう、昔の兼好じゃないとはっきり判った。あとで判ったことだけど、彼のマルチ商法のランクが、あと少しで上がるところまで来ていたが、なかなか達成できずにいた。父の車の分の売り上げが入ればそこを突破できそうだったらしい。だからあんな焦っていたのだ。でも、はっきり言えることはそこでランクが上がっていたとしても、彼は成り上がることなんてなかっただろう、ということだ。実際にその後、彼はマルチまがいの胴元たちのカモになっていただけなのが発覚し、借金を背負うことになった。いや背負わされたようなものだ。仕入れた分のタイヤが売れ残り、仕入れより相当値引いてやっと売り捌いたらしい。つまり代理店としてただ赤字を押し付けられたようなものだ。いやそれこそが胴元たちの魂胆だった、と言ってもいいだろう。
兼好がいくらの借金を背負ったかなんて当時は知らなかった。実のところぼくは喧嘩になったことで結果的に彼との縁が切れて少しホッとしたのも確かなんだ。それじゃあぼくとぼくの家族が彼を追い込んだと、彼があんなテロ事件を起こした原因のひとつとして関わっているのだと思う人もいるかもしれない。それはそうかもしれない。間接的に、兼好のことを崖っぷちに追い詰めたのではないか、と。確かにそう、ぼくは今でも彼のことをどうにかして救えなかったのだろうかと自問することはある。でもそんなことは無理だった。彼にこうしたらいい、ああしたらいい、なんてアドバイスをしたところで聞き入れたとも思えない。彼がだんだんとろくでもない方向へ突き進んでいくのを修正なんて出来たわけはないんだ。だって彼は自分の力で道を切り開こうとしていたんだから。自分だけの力で金を儲け、財産を築いて、まわりの連中を見返してやる、そう考えていたのはまず間違いないんだ。お前たちは俺のことを間抜けだと思っていたようだが、俺はこんなに金持ちになってやったぜ、とやり返したかったんだろう。でももちろんそれは上手くいかず、成り上がるどころか、マイナスの方向へと沈んでいくことになった。そしてそんな彼に手を貸そうなんて思う奴もいなくなっていたんだ。
あの日、名古屋方面に向かうこだまは二時間近く線路上に停まっていた。その頃には携帯のニュースなどで事故があったというのが知れ渡り(しかしどれだけの死者がいたかなんてまでは知らない)、車内は冷房が停まっていたので蒸し蒸しと酷い暑さで、とてもではないが耐えられなかった。そのため、車掌が「事故のためこの新幹線はもう動きません。順番に線路に降りていただきます」と大声を張り上げて車内を歩いていった。新幹線の線路上に降りるなんてまったく初めての体験だったけど、幸い、二、三百メートルも歩いたところで柵の隙間から道路に出られた。車掌とは別のJRの職員が待機していて「在来線は動いてます。そちらまで徒歩で移動して下さい」と叫んでいた。当然、文句を言っているやつもいたが、ぼくはさっさと寮に戻りたかったから、農道を歩いて市街地に向かい、一時間以上は歩いたと思うのだけど、在来線の駅にたどり着いた。彼女にはすでに「事故で遅れてる。今日は会えそうもないよ」とメールを送っていた。でも途中で圏外に出ていたようで、駅に着いてから十件近くのメールと着信が一気にあった。「ああ、御免、事故だったみたいだったんだ」と電話に出るなりぼくは言った。
「ああ、良かった」と彼女は言った。「本当に良かった」
「何言ってるの?」
「まだニュースを見てないのね、大勢死んだみたいよ、新谷が岡駅で」
ぼくの地元の谷が岡は 度会県では五番目くらいの市だけど、どちらかと言えば田舎の寂れた衰退途上都市と言ってもいいだろう。東京と名古屋の中間地点、いやでも名古屋寄りだから、買い物や就職でも名古屋に出ていく奴も多い。そもそも谷なのか岡なのかはっきりしろ、とよく言われるこの市名も江戸時代の藩の名前からとっていて、その名の通り、山から海に向かって谷筋と山が伸び、そこを横切れば岡と谷が交互に現れるからつけられたものらしい。昔、新幹線が東京から大阪まで開通したときには駅なんてなかったのだけど、地元の国会議員で偉くなった奴がいて、その男の尽力で二十年くらい前に無理やり新幹線の駅が出来た。当然、停車するのはこだまだけだ。全国の新幹線の駅の中でもビリから二番め三番目に乗降客が少ないまま、あたりもまったく発展していない。駅前にはコンビニが一軒だけ、夜になると真っ暗になって狸が出てくるような寂しい駅なんだ。
ぼくは夜の十時くらいにやっと寮の部屋に戻ったのだけど、テレビをつけるとずっと事故のニュースをやっていて、特別番組だった。大勢の人が死んだ、死者は千人を超えるような物凄い惨劇だ、アナウンサーはずっとそう喋っていた。ぼくが新谷が岡駅を後にしてからすぐに起きた大惨事には怯えていたし、一方ではなんとか助かった安堵感で全身に力が入らなかった。不思議な力でたまたま難を逃れたのではないか、とそんな呑気なことを考えていた。その夜はまだ事故の全貌は解らなかった。だからぼくも十二時過ぎには眠くなって、布団に入った。とてつもないショックに襲われたのは翌日の昼休み、職場の食堂で見たテレビの画面だった。事故ではなくテロだったとニュースが報じ始めていたのだ。監視カメラに犯人の姿が映っているとテレビの画面に現れた。遠くからの撮影だから犯人の顔までは解らない。しかし、その服装、バッグにぼくは見覚えがあった。そしてアナウンサーは「この階段の下で犯人と会話をしていた男も共犯だと思われます」と喋った。
ぼくは食堂でカレーを食べていた。スプーンを持つ手が止まった。「待てよ」と呟いた。「嘘だろ、おい」
気分が悪くなり、とたんにカレーが酷い異臭を放っているかのように感じられた。冗談じゃない、こんなことってあるのか、確かにぼくは駅で別れた兼好のことが少し心配になり、昨日、寮に帰ってからメールを送っていた。でもまったく返事はなかった。ぼくらが会ってから事故まで時間的に少しずれている。彼は安全だったのだろう、そう考えていた。ぼくは午後の仕事には出なかった。ちゃんと上司には報告した。いや最初はこう相談したんだ。「昨日の事故の件で、ぼくに容疑が掛かってるみたいなんですけど」と。上司は最初ポカーンとした表情でぼくが何か仕事上でとんでもない間違いをしてそれを誤魔化そうとしているのだと疑ったみたいだった。でもはじめからきちんと説明すると、すぐに事情を飲み込んだ上司はすぐに警察に行って話して来たほうがいいな、とぼくを送り出した。警察は会社から歩いて少しのところにあった。玄関をくぐり、受付にいた年配の警官にぼくは「昨日の事件のことで」と話しかけた。その時のぼくは思いもしなかったよ。逮捕こそされなかったけど、それから一週間もぶっ続けで取り調べを受けるなんてことは。
兼好が起こしたとんでもない無差別テロとは、やり方としてはいたって単純なものだった。爆弾を仕掛けたわけでも、大型旅客機をハイジャックしたわけでもないんだ。彼はただ新幹線の線路の上に持ってきたバッグを投げ捨てただけだった。しかしその中には、建設現場で使うような特大の釘抜き、いやバールが入っていた。三本まとめてダクトテープでぐるぐる巻きにしてあり、補強されていた。兼好はそのバッグをプラットホームから安全柵越しに二メートル先の線路の上に投げ捨てたんだ。新谷が岡はあと付けの駅だから待避線なんてない。胸の高さの安全柵とこだまが停まった時にだけ開く安全ドアだけで線路を仕切っていた。つまり柵のすぐ横一メートルのところを三百キロののぞみが走り抜けていく構造だった。テレビの専門家が「バール一本だけなら脱線はしなかったかもしれない」なんて言っていた。しかしお盆で満杯の乗客を乗せたののぞみが線路上の三本のバールに乗り上げて脱線したんだ。
時速三百キロで走る超満員の新幹線が脱線したらなんて考えただけでゾッとする。でも実際に事故は起こった。兼好がバッグを投げ捨てた三十秒後に新大阪行きののぞみがやって来たが、停れるはずなどなかった。先頭車両がバールに乗り上げ十五メートルも空に跳ね上がり脱線して横倒しになると、十八両編成ののぞみが次々に積み重なり、まるでケーキを壁に力いっぱい投げつけたかのようにぐしゃぐしゃに潰れ、粉々になった。それだけではない。一分後に反対からやってきた同じく満員のひかりも通過する速度で来たから、当然、のぞみの鉄塊の中に突っ込み、脱線して折り重なった。ぼくがこだまの中で聞いた遠い雷のような音の正体がそれだった。のぞみだけで死者は千三百五十人、ひかりは八百三十九人が死んだ。最後尾の車両にいた十三人だけが骨折だけの重傷で生き延びた。そして兼好も同じく新谷が岡で死んでいた。彼の最後は監視カメラに映っていた。最初ののぞみが吹っ飛ぶところを見届けた彼は急いで階段を駆け下りたのだけど、あっという間に九両目の車台が弾かれて階段下まで転がってきた。重さ七トンの車輪と車台に押しつぶされて、兼好も犠牲者の一人になった。多くの犠牲者と同じように彼の身体も原型を留めてはいなかった。
いったい全体なぜ彼はあんな無差別テロを起こしたのか? 警察の取り調べでもさんざん聞かれたし、テレビのインタビュー(顔にはモザイクをかけてもらったよ)でも同じことを聞かれた。彼がマルチまがいの商売で背負った借金とは百七十万円だった。たったそれだけ、それだけのはした金で大勢の人を殺さなくてはならないのなら、毎日がテロだらけになってしまう。だから借金は理由のひとつかもしれないが、大きなものではないだろう。テレビでもコメンテイターや解説者などが、勝手なことを憶測で適当に喋っていた。彼らの言ってることにぼくが感心したことなど何一つない。子供の頃から彼を知っていて、転落のきっかけになったマルチ商法にも関係しているぼくが解らないんだから、誰一人として解るわけはないんだ。警察は彼の家の家宅捜索を行ったし、ネット上の彼が訪ねた掲示板なども細かく調べたが計画についてのメモや書き込みなどは一切なかった。彼は事件の前日に中古工具屋で三本のバールを買い、ホームセンターでダクトテープと大きなバッグを買った。事前の用意とはそれだけだった。二千人以上が命を落とした無差別テロの準備がたったそれだけという無計画さに、あるコメンテーターは「ほんのいたずらのつもりだったのかも」と言った。ぼくとしてもそれに肯ける反面、首を傾げたい気持ちもある。あの事件の直前、新谷が岡駅の階段下で会った時の彼の表情はそんな単純なものではなかった、そんな気がして仕方がない。
あの日、なぜ彼はぼくに「お前はいい奴だよ、だから早くいけよ」なんて言ったのだろう? ぼくを巻き込みたくなかったのだろうか? 確かにその時に兼好と会ったのは半年ぶりだった。半年前にぼくらは仲違いを解消していた。ぼくが父親のタイヤを断って、彼が自分勝手に切れ散らかして音信不通になって以来、久しぶりにぼくらは再会したんだ。それもまったく偶然に。
あれはぼくが就職してから数ヶ月が経ったある日のことだ。ぼくは何度目かの現場作業に駆り出されて、先輩たちにこき使われながらせわしなく働いていた。仕事というのは電気の配電盤や、その周辺の機器の更新とメンテナンスを含めた大掛かりな工事だった。そしてそこは稼働中の老人介護施設で、百人以上の年寄りを収容していた。昼休み、昼食用にあてがわれた会議室は小さくて、ぼくと五人ばかりの先輩は、施設の大食堂で一緒にお昼をどうですか、と誘われたんだ。そしてぼくがテーブルに座ると、遅れて施設のスタッフが隣りに座った。ぼくはふと見た。そこにいたのはスタッフと同じエプロンを着た兼好だった。
「おい、カネ」とぼくは言った。中学になって皆が彼をケンコーと呼ぶようになっても、ぼくだけはずっと彼のことをカネと呼んでいた。
兼好はえ? と目を丸くしながらもぼくを見て、すぐに状況を飲み込んだのか「ああ、久しぶりだな」と言ったんだ。
例のタイヤ騒動があって以来だから約一年ぶりの再会だった。でも気まずくてあれこれ話をする気分にはならない。ぼくより早く昼飯を食べ終えた彼は席を立ちながら「大学じゃなくて就職したんだ」と言った。
「ああ」とぼくは言った。
「じゃあ、午後の仕事があるから」そう言って彼は離れていった。
でもその現場での作業は五日間に渡っていた。ぼくらは少しずつ、話すようになった。いや、もうぼくとしても彼と仲直りしようと、しまいとどうでも良かった。だから自分から彼に話しかける気になっていた。つまり兼好がぼくを拒絶したってまったく構わなかったんだ。第一、ぼくと彼はもうまったく違う世界の住人だ。これからのぼくの人生で彼に重要な役を演じてもらうことなんてない。金儲けの話を振られても断るし、遊びに行こうと誘われても仕事だから、と返事をするだろう。だからぼくは兼好とゆっくり話すことが出来たんだ。
「もうタイヤ屋は辞めたんだ?」とぼくは聞いた。
「もうやってない。あれはとんでもない詐欺だったよ。高い授業料を払わされた」と彼は言った。「まだ負債が残ってるし」
「そうか」と頷きつつも、幾らだい、とは聞けなかった。
「お前が高卒で働いているとは思わなかったよ。てっきり大学かなんかでちゃらちゃら遊んでいるのかと思ったからさ」
「大学出たところで、どっちみち働くんだ。だから早く技術を身に着けたくてさ」
とぼくは言った。この言葉にまったく嘘はないのだけど、高校の友達にも内緒にしていたことがある。ぼくが就職した会社の元役員には父さんの叔父にあたる人がいて、創業メンバーだったこともあり退職した今も株主の一人だった。だからコネであることには間違いないのだけど、自分の家を出て独立したかった気持ちもあったんだ。もちろん周りの社員の人たちはこのことを知っている。今のところ特別扱いはされていないけど。
「早く借金を返したくてさ、だから週末はガソリンスタンドでバイトもしてるんだ。まったく、嫌になるよな」
何が嫌になったのだろう? あの時のあの彼の言葉がもしかしたら無差別テロのもっとも奥深い原因じゃないかとも思えて、捜査官にも話したけど警察の人たちは特に何も感じなかったようだ。そう、だからぼくは事件の後もずっと、彼の心の中をどうにか理解しようとした。なんであんな事件を起こして大勢の無関係な人たちの命を奪わねばならなかったのか? これはテレビの報道で知ったことなのだけど、彼は中学を卒業した時に谷が岡の市役所に生活保護の相談に行ったらしい。しかし「君が働けばいいでしょ」みたいなことを言われて追い返されたそうなのだ。役場の職員の対応としてはそれも正解なのかもしれない。だからぼくはこう考えたんだ。兼好はこの町の名を汚名として、ずっと残そうとしたのかもって。無差別テロで大勢の人たちが死んだ町の名として、この後何年も何年も語り継がれることを狙ったのかも知れない。あんな事件を起こせば、巻き添えに合わなくて生き延びてもいずれ捕まって死刑になるのは解っていたのだろう。だから自分が死ぬか生きるかはどうでも良かった。凄惨で血にまみれた町の名として、ずっと不名誉な町の名前として語り継がれるのを狙ったのかも。彼が産まれて育って、そして誰からも救いの手を差し伸べて貰えなかった町が、酷い閉鎖的で退屈な田舎の町の代名詞として残っていくのを彼は望んだんじゃないか。もちろん、こんなのもぼくの勝手な推測だ。でも実際に市議会では市の名前を変更しようという議論もされているらしい。兼好の目論見通りのことが現実に起きているんだ。
兼好は事件の時には老人介護施設での仕事を辞めていた。その後に勤めた会社もいくつか転々とし、ガソリンスタンドでの深夜のバイトだけを続けていた。今回、帰省したついでに彼のアパートがあった一画に足を運んでみると、並んでいた建物はすべて取り壊され、更地になっていた。ニュースでも多くの報道陣や野次馬などが押しかけていたから、住人は次々と引っ越していったらしい。兼好の母親も行方不明とのことだ。施設に引き取られた、という声もあるし、自殺したのではないかという人もいる。それはまったく解らない。これがあの凄惨な無差別テロの顛末だ。いや、たったこれだけとも言えるかも知れない。こんな言い方、亡くなった多くの尊い人命を軽視していると怒られそうだけど、加害者側のすべての情報は本当にこれだけなんだ。もちろん、被害者の遺族や多くの人が兼好に対して恨みや憎悪の言葉を吐き続けているのは知っている。ぼく自身も共犯と疑われたり、筋違いの逆恨みめいた脅迫も受け取った。しかし、ぼくはもう立ち直ったんだ。ぼくはこの事件を乗り越えて生きていくしかない。だからもう振り返ったりはしないんだ。新谷が岡駅で起きた無差別テロのことも、子供の頃に友達だった男のことも忘れていくんだ。怒りなんかもない。だからもうぼくには構わないで欲しい。ぼくは前を向いて生きていく、ただそれだけのことに全力で取り組むだけなんだ。
(了)