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【エッセイ】スポーツ観戦は「他人の祭り」か?
スポーツ観戦は他人の祭りだろうか? いや、そもそもどうして我々はスポーツ競技を観戦し、熱狂してしまうのだろうか?
今年の夏は、パリオリンピックに夢中になってしまった。以前、このnoteのエッセイで『北京オリンピックをボイコットする一番簡単な方法』なんてものを発表しておきながら、この体たらくである。
私がこの以前のエッセイで繰り広げたのは、いわばIOC批判であった。IOCという腐った組織が選手たちを搾取し、自分たちの利権を守ることだけに拘泥しているのではないか、とそんな主張をしたのだ。IOCなんかがでかい顔をするぐらいなら、それぞれの競技団体が仕切って世界大会を開いたほうがまだマシだ、とも述べた。そもそも私はIOCのことを「オリンピックを開催できる、という利権を握った貴族のふりをしたヤクザ」と言っているが、その思いは今でも変わらない。オリンピックという4年に一度のイベントが、この地球上でもっとも注目を集めるスポーツ大会であるだけに、IOCは増長し、やりたい放題とは言わないまでもそれに近い。とはいえ私は自分のこんな主張が多くの人には受け入れられないだろうなあ、という自覚もあるのである。そして何より、私自身が今回のパリオリンピックを楽しんでいたわけだし……
東京オリンピックでもマラソンの札幌移転でゴタゴタしたように、今回のパリでもそれに似た動きがあった。トライアスロンでのスイム種目をパリを流れるセーヌ川で行うか否か、という騒動だ。パリ市内を流れるセーヌ川はパリの象徴のようなものだ。だから、なんとかしてセーヌ川を競技会場にしたい。水が汚すぎて長年遊泳禁止にしてきたが、オリンピックのこの機会に選手に泳いでもらってレガシーとしたい、という裏事情があったようだ。マラソンの札幌移転とは違って、企んでいたのはIOCというより地元の組織委員会だったようだが、選手のことなどまるで考えていない、という点は同じ構図である。結局、セーヌ川でのスイムは強行され選手は大腸菌でいっぱいの下水のような川で泳がされて体調不良になった人もいたようである。注目を浴びる大きな大会だけに、こうした選手を無視した運営が行われてしまうのである。
また、そうしたIOCや組織委員会に対する批判とは別のところからオリンピックに対して非難の声を上げる人もいた。いわゆる左翼リベラル系の人たちだ。それもかなり筋金入りの左翼系の人たちは、オリンピックという大会自体が行われることに、金メダルを獲得した選手たちが注目を浴びること自体にも難癖をつけてきた。というのも、彼らはいわゆる地球市民的なものに憧れがあるので、国別対抗で競い合い、表彰式では国旗掲揚に国歌斉唱というセレモニーも含めた運営自体が気に食わないのだ。実のところ、私も何十年も昔の若い頃はそうした地球市民的な気質を少し持っていたので、まあ、そういう感情も少しは理解できるのである。今現在も地球のどこかでは戦争が行われている、人間がそうして争うのはそもそも国家というものがあるからだ。だから、国家なんて、国境なんてものはなくしてしまえばいい! 国旗を掲げるなんてまったくナンセンスだ! 団結して地球市民になるのだ! ……まったく残念だが、世界のすべての国が戦争を止めてひとつに団結するなんてことは、宇宙人が地球に侵略してくるなどしないかぎり、まずないだろう。地球がひとつになる、そんな理想としては素晴らしい思想が実現するのはまだまだかなり先のことになりそうである。
そもそもなぜ人々はオリンピックに熱狂してしまうのか? というより、人々はなぜ赤の他人がスポーツをしているのに注目し、熱狂し、大騒ぎをしてしまうのだろう? いや、上に上げたようにそんなスポーツイベントを冷笑的に見ている人もいなくはない。IOCのような欺瞞に満ちた巨大組織が嫌いな人もそうだし、地球市民的な人もそうだ。そしてもう一つ、オリンピックやサッカーのワールドカップや、日本シリーズやワールドシリーズなどの巨大スポーツイベントを斜に構えて見ている人たち、あんなものは他人の祭りだ、と吐き捨てるように呟く人もいる。そう、それが今回のエッセイの本題なのだ。そんな「他人の祭り」というフレーズは福本伸行の漫画『最強伝説 黒沢』の一場面から取っている。というのも、このフレーズが我々がスポーツを観戦し熱狂する謎の根源に迫っているからだ。そもそも他人がスポーツで勝とうが負けようが、見ている人が直接何らかの利害を被ることなどない。もちろんギャンブルとして大金を賭けていれば大アリなのだが、それはごく一部の限られたケースだ。
例えば、あるプロ野球チームの熱狂的なファンの人がいるとする。そのチームが試合をしている時、ファンの人はそわそわしている。得点を上げれば拍手喝采だし、逆に相手チームが点を取ると「何やってんだ!」と悪態をつく。試合に勝てば大喜びだし、負けたらがっかりし、不機嫌になって関係ない他人にあたったりする。この場合、ファンの人はお金が儲かったわけでも損をしたわけでもない。チームの中に親戚や学校の後輩がいるわけでもない。まあ、いる場合もあるけどそれはレアケースだろう。ファンの人はただそのプロ野球チームのことを純粋に愛して、応援して、贔屓にしているだけだ。自分が汗水働いて稼いだお金を入場料として払ったり、グッズを買ったりして経済的にも支援している。悪い言い方をすれば、お布施のように払わされている。そして自分の数十倍もの年収を稼ぐ選手たちに向かって「頑張れ!」と声を上げるのだ。端から見れば確かに滑稽だ。我々は子供の頃からプロ野球チームやプロサッカーチームが身近にあるので当たり前のように受け止めているが、そうしたものに馴染みがない外国人が見たらただただ変なものに見えるだろう。
それが周囲の人から見れば、いや自分を客観視すると「他人の祭り」に精を出している馬鹿な人となって映るのである。『最強伝説 黒沢』でも主人公の黒沢は周囲からちやほやされるようなものを何一つ持っていない平凡な存在である。それなのに周りからの人望だけは得たいと渇望する、卑屈な独身中年男だ。そんな彼がサッカー日本代表の試合を熱心に応援していたものの、しかしそれが負けてしまうと急に現実に気づくのである。あんなものは他人の祭りじゃないか、と。本当なら誰でも自分が注目を浴びてちやほやされたい。しかしそれは叶わない。だから注目を浴びている存在に、この場面ではサッカー日本代表を応援することで、あたかも自分が褒められているかのような錯覚をする。いや、普段の自分があまりにも平凡だから日本代表に惨めな自分を投影し、偽りの充足感を得ているだけでは? スポーツ選手が勝って喜んでいたとしても、観客席やテレビの前で見ている自分とは本質的にはまったく関わりがない。スポーツ競技を観戦し、さらにはスポーツ選手を応援することなんて、意味のない下らない行為ではないか? 他人の祭りという言葉にはそんな意味が込められている。しかし、そんな単純なものだろうか?
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私自身は今現在プロ野球やJリーグの試合を定期的に見に行ったりはしていない。まったくないわけではないが、もうずいぶん昔のことである。今ではせいぜいテレビで観戦するぐらいなのだが、今から二十数年前に見に行ったとあるスポーツ競技で、ふと違和感を抱いたことがあるのだ。あれ、俺は一体何をしているのだ、という具合に。それは1998年に行われた長野オリンピックを見に行った時のことだ。当時、私はオリンピックというイベント自体に心酔していたから地元で開催される世界的な大会をなんとかライブで見たかったのである。その一つがスキージャンプの男子団体で、これは金メダルの瞬間に立ち会えて大満足だったのだが、(このあたりは 【コラム】DQNネームを考える:名前は親が子供にかけた呪いか? に詳しく書いているのでそちらもお読み下さい)、それともう一つ、会場まで押しかけた競技があった。スキーアルペンの男子スラロームである。
当時、30歳頃の私は遅れてきたスキーブームに一人で乗っかって、一人でスキーに夢中になっていたのである。十年以上前に映画『私をスキーに連れてって』で一大ブームが巻き起こっていた頃は、あんな軟弱なもの、と否定していたくせに何年も遅れてブームが去っていた頃になって何故かスキーに嵌っていたのだ。スキー雑誌を買い込んだり、トレーニングキャンプにも参加したりとかなり熱を上げていた。なので何としても、アルペン競技も目にしておきたかったのだ。で、当日、アルペン男子スラロームの会場となったのは志賀高原の焼額山スキー場である。友人達と向かったのだが、確か長野市内に車を停めてシャトルバスで志賀高原まで上がった気がする。そして会場に着いたが、そこはただのスキー場の斜面である。観客席などはなく、区切られたコースの外側に大勢の観衆が立ち見で観戦するスタイルだった。私達が陣取ったのはコースの中腹で、スタート地点もゴール地点も見渡せないまったくの中間点だった。そこにただすごい勢いで滑走してくる選手がいきなり現れるのだ。
焼額山の斜面に作られたコースは標高差220m、全長607mとアルペン競技の中では一番規模は小さく、旗門の設定も細かくて、スピードも出せない仕様なのだが、そこはさすがにオリンピック選手たちである、軽やかな身のこなしで次々とコースを滑っていく。私達の観戦スポットからだと、選手が群衆の間から急に現れ、そしていくつかの旗門をくぐり抜けて見えなくなっていく、そんな具合だった。そして、自分でも不思議だったのだが、選手の姿が見えると「うおおー!」と声を張り上げていたのである。もちろん私だけでなく、まわりの観客も同じだった。大勢の観衆の間を切り裂くように現れる選手の滑りにただ驚いていた、というのも違う、なんとも言えない感情や興奮が私を包み込み、声を出さずにはいられなくなっていた、というのが正しいところだった。そうして「あれ、俺はなぜ声を張り上げているんだ?」という自問も抱いたのだ。そう、今の今までずっと疑問だった。あの感情はいったい何だったのだろう?
とはいえ私もあの時からかなり歳を取り、知識も増えたので色々と思い当たることがあるわけだ。まず考えられるのは「サバンナの理論」である。前々回のエッセイでも取り上げたが、我々ホモ・サピエンスは何百万年もアフリカのサバンナで暮らしてきたのでその時の習性が離れがたく身についている、というものだ。サバンナでは肉食獣と対峙しなければならない。自分たちを殺して食べようと向かってくる肉食獣を退けなければ子孫を残すことなど出来ないし、また死肉を奪うために、彼らが仕留めた獲物を掠め取ろうと闘いを挑んだかも知れない。そんな、むき出しの闘争本能が、現在の我々の中にも残っているために攻撃的な精神と肉体が時折頭をもたげてしまう、というものだ。つまり斜面を滑り降りてくる選手があたかも肉食獣のように見えてしまったので、無意識に身体が反応してしまったのでは、とそんな考えが出来るかも知れない。もちろん、ただスキー場の斜面で他の誰かが滑っているのを見ているだけではそうならなかっただろう。大勢の集団で取り囲んでいるところにふいに選手が現れる、そんな状況も私の中のサバンナ的本能を目覚めさせる後押しになったのかも知れない。
以前、テレビで「警察24時」みたいな番組を見ていたときにも同じような場面を視聴した。確かお祭りの警備で大勢の警官が動員されている時のことだった。詰めかけたお祭り客で大混雑した中、一台の車が進入禁止を突破して入ってきた。確か酔っ払っていたか、薬中毒か何かで要領を得ない運転手だったようだ。すると警備をしていた警察官が十人程すぐに集まり、警棒で車のガラスをボコボコに叩き壊して運転手を引きずり出したのだ。やはりこれも我々の中の本能が起こした動きだろう。ちょうど車のサイズはマンモスやサイなどの大型の狩猟動物に近い。お祭り客を守るという職務に忠実だったのもあるだろうが、一方で先祖たちがマンモスに襲いかかっていた本能が警官たちを突き動かした、とも言えるだろう。きっと仕事の後、警官たちは居酒屋などで仲間たちと祝宴を上げたに違いない。マンモス狩りを成功させた我々の祖先達がしていたのと同じようにだ。
『銃・病原菌・鉄』などの著作で知られるジャレド・ダイアモンドの何かの本(忘れてしまった)を読んでいた時に、次のようなものがあった。ダイヤモンド氏が趣味のバード・ウォッチングでニューギニアの奥地を訪れていた際、夜に現地のガイドと焚き火を囲んでいると、ガイドたちはずっと噂話に興じていたというのである。つまりどこどこ村の誰々が奥さんに逃げられた、誰々の家で豚の子供が沢山生まれた、などの噂話を延々としているのだそうだ。果たしてこれはニューギニアのジャングルの中だけの話ではないだろう。都会のIT企業で社内パーティーが開かれたとしても、社員たちは同じようなゴシップで盛り上がるはずだ。つまり、人間はどこに住んでいようとコミュニティの仲間の動向から目が離せない、他人が何をしているか気になって仕方がない生き物なのだ。これもサバンナの理論と言えるはずだ。
我々ホモ・サピエンスは何百万年ものほとんどの時間、狩猟採集民として過ごしてきたはずだ。肉食獣に襲われたら撃退するのはもちろんだが、草食獣を狩るために頭を使っていたはずだ。あそこの水場に夕方になると鹿が集まってくるぞ、あるいは、木ノ実や果実などがどこに実っているか、そうした情報も重要だったはずだ。そんな自然の中で生きていくためには、情報をどのように手にし、仲間に伝え、またある時は伝えなかったりといったやり取りも重要だったのだろう。隣の集団の誰々があそこの谷で熟れた果実を見つけたらしい、じゃあ、俺達も近くを探しに行こう、そんな情報はゴシップというより生きていくための大切な口コミだったのだろう。我々はそうして自然の中で何百万年も生きてきたのであり、ビルの中でパソコンと向き合ってパチパチ仕事をしているなんてことに、身体も頭もまったく適応していないのだ。さらにこれはネットの記事で読んだ内容だが、我々の脳はテレビで見ている有名人と、毎日顔を合わせているような近所の人との区別がついていないのだそうだ。テレビに出ている芸能人が「街で一般の人に友達のように話しかけられる」とよく喋っているが、つまり脳の機能としてもそれはまったく通常のことなのだ。有名人のゴシップ記事がメディアで盛んに取り上げられるのは、我々一般人が求めているからでもある。有名人の動向に注目し、彼らが何をしているのか、上手くやっているのかいないのか、知りたくてたまらないのは我々がホモ・サピエンスである以上、致し方ないことなのだ。
そんな有名人、スポーツ選手が身体を動かして戦っているのを注目するな、というのがそもそも無理なのだ。以前からテレビや雑誌などで顔を見ていた有名スポーツ選手は、もう近所のアンチャンと一緒である。その彼が大勢の観衆の前で身体を動かし、敵と戦ったり、仲間と共に助け合う姿など、自分たちの集団の仲間が必死になってマンモスを狩っているのを間近で見守る行為をほとんど同義なのだ。敵を倒すとは狩りが上手くいくのと一緒であり、一挙手一投足を見逃すまいと注目するのは、自分の腹が満たされるのかどうかという問題とも関わってくる。いや、まったく関わらないのだが、そう錯覚してしまうのを避けることなど出来ないのだ。我々ホモ・サピエンスはコンピューターを扱っていたり、飛行機で空を飛んでいようとも、その中身は野蛮な原始人のままなのである。
大相撲の世界には「江戸の大関より土地の三段目」という言葉があるそうだ。それだけ、地元の力士のことを贔屓にして応援してしまう心理のことを言っている。2023年の第105回全国高等学校野球選手権大会では慶応高校が躍進し、107年ぶりの優勝を果たした。そのスタンドは慶応の関係者で埋め尽くされた。慶応高校の卒業生が大半だっただろうが、大学から慶応に進んだOBも多かっただろう。高校には在学していなかったとしても、同じ慶応であればそんな繫がりから応援に駆けつけたくなる気持ちは当然のように芽生えるのだろう。いや甲子園の高校野球はただ「同じ県の代表だから」というそんな薄い繫がりでも応援してしまう心理が働く。まったく希薄な今住んでいる県の代表、というそれだけのことで贔屓にしてしまう不思議な感情だ。とはいえ人間が社会に属した動物である以上、抑えられない本能なのだろう。だから当然、オリンピックで活躍する選手は地元の代表を広げて広げて拡大した存在になる。
オリンピックを政治的に最初に利用しようとしたのは、よく知られているようにナチスドイツのヒットラーだ。自分たちアーリア人が優秀な民族だから、世界が注目するスポーツイベントでそれを証明してみせる、という目論見があったのだ。そんな考えは当然のように現代においても通じている。全体主義的な独裁国家が国ぐるみで選手を育成し、そんな自国選手が活躍する様子を国威発揚に、民族的な威信を奮い立たせる道具として利用している現実はある。しかし、そんなものも、前述したようなサバンナの理論の上に乗っけたものに過ぎない。独裁者が育成しようとしまいと、人々は自国選手を応援してしまうのである。だから我々スポーツファンはちょっとひねくれた人から「あんなもの、他人の祭りでしょ」と皮肉めいた言葉を投げかけられても、萎縮する必要はない。一般の我々が、スポーツイベントや選手に熱狂してしまうのは、視野が狭く、民族主義的な愚かな思考の持ち主だからではない。例えばの話、はるか未来に太陽系オリンピックなるものが開かれ、地球代表が金星代表や火星代表と戦うことになったら、その人がユダヤ人であろうと黒人であろうとすべての地球人は「頑張れ!」と声援を送るのだろう。そう、それは間違いない。