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美学の成立と日本の改ざん文化から老舗を考える

こんにちわ。
今日は美学について書きたいと思います。
現在、自分が美学を勉強しているのでそれを備忘録としてまとめたり、人に伝えることで体に染みつけていくということが一番大きな理由です。
そもそも、なんで美学なの?てか、美学って何なの?っていう話だと思うので、僕が美学を大切だと思う理由、その辺りをまず前半は説明していきます。
後半は行為の美しさということに焦点を絞って、老舗というものの取り扱いを考えるという内容でお話しています。

美学をやり始めた理由

自分の生徒さんが奈良だけで60名以上はいるので、その方々に教える場を提供して、教えることを通じていけばなをさらにより深く学んでもらう意味もあり、いけばな体験を本格的にやっていこうとおもっていました。
それで、昨年から台湾の旅行代理店に営業に行っていました。
そしてご存じの通りコロナがあって、海外からのインバウンドも奈良・京都ともに大幅減になりました。
数年は戻ってくる兆しもありません。
そんな中、何かしないとと思い、最近、コロナのこともありオンラインでいけばなの指導を少しだけやり始めています。
ただ、これが本当に指導するのが難しいんです。
1つだけ明確にわかったのは、対面で教えるとき以上に徹底的に言語化していくことがカギになるのではないかということでした。
そういう意味で自分の手直し後の作品解説をnoteで行いながら、言語化していくということで、幅を広げようということをしています。
それを続ければ、やがてオンラインで海外の人たちにも伝えられると思ったわけです。
一方で、海外の人たちにいけばなを伝えるにしても相手の思想をまず知ることが大切だと感じています。
日本の思想は、中国や台湾などの文化面が近い国々はいいですが、欧米はもとよりアジアではインドといった国の方にはなかなか理解しがたいものがあるのではないかなと思っています。
それらを分かり易く伝えていくためには海外の思想哲学、特にその中でも美に関する美学が適していると考えるに至ったのです。
そこで美学が登場するわけです。

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美学って?

元々、大学時代に美学を専攻していたこともあったからではあるのですが、言語化していく上での思考プロセスを学ぶのに哲学や美学は大変勉強になると勝手に私自身が思い込んでいます。
一見、美の学なので芸術?という声があがりそうですが、美学というのは学問分類では哲学系の学問としてとらえられています。
19世紀くらいまでは芸術と美は一緒ととらえられていましたが、19世紀に”美しくない芸術”というのも登場し始めたことで、美と芸術は分離して考えられるようになり、芸術史と美学にわかれたと聞いています。
さらに20世紀になり芸術の目的は美ではないという考えが次第にひろまりました。
現在では、一般的には美学とは、美と感性を主題とする哲学のことであるともいえると思います。

いつできたのか?

18世紀にドイツのバウムガルテンによってAesthetica(感性学=美学)の発表がなされたことにより、美学という哲学的学科が始まったのです。
成立当時は芸術(詩を主たる考察対象として)の本領が美にあり、その美は感性的に認識されるという考え方を示しました。
この三者の収束する一つの点がその後の近代美学の中心的主題になったわけです。
この芸術と美と感性にかかわる哲学的考察が、今日われわれが日本語で美学と呼んでいる学問の範囲となります。

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美学は誰からの系譜なのか?

ギリシアでは、プラトンの時代は以下のことが成立していました。
・ホメロスが絶対的であり、ギリシヤを教育していた存在であったこと
・ホメロスの詩のうちに哲学および学問が含まれていたこと
・ホメロスの詩はギリシア民族の公共的精神の結晶であったこと
このような時代に詩から学問(哲学)を切り離すのを推し進めたのが、プラトンだったわけです。
詩学はギリシア語では制作の意味をもちます。
そのため、アリストテレスが書いた詩学は、制作者としての専門的芸術家が伝承されてきた理論を参照しつつ、自らの経験を基にして、若手の専門家のために書いた指針書のようなものです。
詩学とは詩の理論であるが、絵画論や建築論、音楽論にも同じ性格がみることができます。
それに対して、美学は作品の鑑賞の面に焦点を合わせます。
鑑賞するのはほとんどが素人なので、美学の成立は芸術論が一部の専門家からすべての人々へと開放されたことを意味するのです。
西洋美学は、バウムガルデンから始まったのですが、そのバックグラウンドを強いものにするために、上にあげたようにギリシア時代までさかのぼり、誰からの系譜か、文脈なのかということを後から作り上げていきました。

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老舗の立ち上げについての考察

ここまで美学の成立についての話に触れましたが、上記のようにある時に急に立ち上がったモノの歴史的なバックグラウンドを確かなものにしていくために、土台作りとして歴史を振り返り、原点を探るということは一般的によくされます。
それがあるからこそ、信頼性が生まれるのであり、そういう意味での過去からの情報の整理というのは大切だと思います。
ただ日本人に限ってのことですが、結構古くから話を盛ったり、改ざんして自分たちの歴史が正当なものだとする傾向があります。
それに対して大衆も何も言わないという”あえて言わない”文化があると思います。


秀吉は氏どころか苗字も持たぬほど下層階級の出身と考えられるが、立身栄達により家系の公称を要するようになると平氏を称した。
引用 Wikipediaより

信長も元は平氏を名乗っていたといわれます。
秀吉に至っては農民の子と歴史の教科書でも出されるほどその出自が有名で、太閤立志伝といわれるように元々は低い身分の出なので、平氏のはずがないわけです。
自分の家柄に箔をつけるために行っている行動だったといえると思います。
いけばなの世界においてもこういった話は昔はよくありました。
室町幕府が無くなってから江戸時代まではいけばな=池坊ということで、お花をする人は皆、池坊に所属していたのです。
それが、江戸時代に床の間の流行と、池坊自体が上方である京都や大阪で強く、江戸ではそこまでの知名度を誇ってなかったことから、多くの流派が江戸でたちあがりました。
これは京都で池坊から花を学んでいた人たちが江戸に流れた結果だといわれています。
余談ですが、この流れに反対して江戸から上方に来て流派をおこしたのは、未生流だけだったといわれています。
未生流はそこから大阪・京都のお寺に入り込み、そこで流派が分かれていったといわれます。
京都の本能寺にある華道本能寺や、大覚寺の嵯峨御流もこの未生流の流れを汲んでいます。
話を戻しますと、その時多くの流派は正当性をつけるために過去に存在した文化人を(おそらく)勝手に流祖とし、立ち上げたばかりにも関わらず、“歴史が100年以上あるんです!!”と言いかなり改ざんしていたのではないかということが、研究である程度明らかにされています。
それらの流派もそれから250年~300年以上経ち、未だに存在し続けているので今では長く続いている流派として、老舗と言えるブランドを保有していますが、立ち上げ当初はそんな感じだったそうです。
また、天皇に起源をもつ流派もありますが、その人たちが花をただ瓶に挿したというレベルのことは文献上で確かではあるのですが、今のような精神性に基づいて”いけばな”として花を生けたという記録は一切ないので、学術レベルでの正当性は担保できないそうです。
こんな感じのことが日本では古くから横行していました。

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老舗のブランドについて考える

今あげてきたようなことを現代ですると、倫理観という意味で袋叩きにあいかねないと思います。
それだけ世の中が変わってきたということですが。
日本という国は、特に中小企業に老舗と呼ばれる事業者さんが多いと思います。
そして、以前は地元でも名前を聞かなかったのにいきなりポッと出てくるポッと出の老舗企業というのも、たまに登場します。
なぜこんなポッと出の老舗企業が登場するのかという話をしますと。。
中小企業というのは、一般的には上場している会社と違い、他に対して自分の会社がどんな資産を持っているのかやどんな方法で会社を動かしていくためのお金を調達しているのか、過去1年間どれだけ商品やサービスを販売して売り上げや利益をあげたかといったことを、見ず知らずの第三者に公開する義務がないのです。
それは至極当然で当たり前だと言われればそれまでですが、ただその当たり前があるがゆえに隠すことができることも多いのは事実だと思います。
会社の資産はお金や土地や建物、未販売の商品などの形のある資産と、ノウハウやブランドといった形がない資産に分けられます。
この中に老舗が大きく持つ資産というものがあります。
それがブランドです。
ブランドがあれば、一般的には長い間、様々な時代の人たちに利用されてきて、今なお会社として存続しているため商品やサービスに対する信用力があがります。
そして、信用力が上がると値段も上げて販売することができます。
これはともすれば、二束三文のものをすごい高付加価値の商品に作りかえることもできる、錬金術のような使い方もできるという意味あいです。
あまり書きすぎると怒られますが、老舗というのは自分たちは老舗ですと言っているだけで、それを証明する資料や内容を提示しないところも多く存在するのも事実です。
また、証明する資料や内容は、お金を出して買うことだってできてしまいます。例えば、200年前にうちが作っていた商品ですといいながら、200年前の骨とう品を買って紹介することだってできるわけです。
個人的に感じるのは、老舗だからいいのではなく、純粋にその商品がどこの産地の原材料を用いて、どこで製造されているか、そこまで確かめることが必要だと思います。
恋は盲目といいますが、意外と身近なところにそれは存在していると思います。

終わりに

美学の成立の話と、日本人特有の自分の家系の歴史を盛る習慣があるという話をさせていただきました。
日本では様々な歴史が塗り替えられたり、都合よく書き換えられたりしてきているので、そもそもそういうことに対して、昔は倫理観がまったくなかったのだと思います。
むしろそのようなところに乗っかることの方が重視されていたのかもしれません。
僕は個人的にですが、こういう行為は哲学や倫理観を無視した”美しくない”行為として見なしているので嫌いです。
今は許される行為ではないとは思いますが、中小企業レベルだとその辺りのことまでは調査しきれないので、同じようなことをやっているところもあるとは思います。
本質を見ること、老舗という言葉よりも、商品やサービスのトレーサビリティ(追跡可能性)を意識することだと思います。
今後、ビットコインで使われているブロックチェーン技術によって、こういった商品・サービスのトレーサビリティも容易に共有できるようになると思います。
※ブロックチェーンは生産者や卸売者、販売者が管理している記録台帳を、全体で共有できるようにする仕組みです。


今後も美学については記事にしていきたいと思っていますので、よろしくお願いします。
今日もご高覧ありがとうございました。


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