追悼、西尾幹二 自画像を描き続けた人
西尾幹二(1935-2024)が亡くなった。このごろ出された『日本と西欧の五〇〇年史』(2024年)のあとがきで、本書は私の遺言であると言ったが、そのとおりになった。
寂しくてならない。何が寂しいって、小林秀雄、三島由紀夫、澁澤龍彦といった、最高の日本人たちと親しく交わった、最後の人だったろうと思われるから。特に三島由紀夫との交遊は素敵だ。ゴーゴー(今で言うディスコ)に誘われて、一心不乱に踊る三島を、生理的に受け付けられないと感じた話などは。
三島は西尾の思索人生の、ほんの序盤しか見ていないはずだけれど、西尾の処女作『ヨーロッパ像の転換』(1969年)に寄せた書評で、すべてを予告していた。「これは日本人によってはじめて書かれた、『ペルシア人の手紙』(1712年)である」と。
『ペルシア人の手紙』は、フランスの思想家モンテスキューによって書かれ、主人公に中東人二人を選び、ヨーロッパの外部からヨーロッパを観察したとき、どれほどの違和感があるかを描いた風刺小説である。いわば、ヨーロッパ人によるヨーロッパの自己客観視、言い換えれば「自画像を描く試み」である。
西尾の生涯の仕事は、ひたすら『ペルシア人の手紙』を書き続けることだった、と言って良い。初期ニーチェの研究からヨーロッパ文明批評へ、ヨーロッパ文明批評から日本史へと対象こそ移しはしたが、ニーチェであれヨーロッパであれ日本であれ、結局の所すべて『ペルシア人の手紙』の変奏曲なのである。
西尾は常に、自画像を描く困難を知りながら描き続けた。対象の内面にまで踏み込まなければ真の理解ではないことを熟知していたから、ニーチェやヨーロッパといった他者を描くにしても、いったんそれを内面化してからでないと何事も語らなかった。むろん、最後は外面化して、突き放すことも怠らなかった。
対象が日本史に移っても、することは変わらない。西尾にとって、日本はすでに内面化しているから、それを外面化する作業に比重が置かれるのは当然のことで、西尾の晩年の口癖を借りればそれは、「世界史の中に日本を置く」作業に他ならなかった。
『ヨーロッパ像の転換』(1969年)から『日本と西欧の五〇〇年史』(2024年)まで、何と55年。その生涯を一貫して流れていた、対象を真に理解することへの情熱。対象の内面化と外面化を往復して、自画像を描こうとする困難な歩み。これを引き継ぐことが、故人を悼む最良の方法であろう。
今、再び世界像が揺らぎつつあるのに、学者たちは専門の殻に閉じこもり、俯瞰した立場で文明を語る者がきわめて少ない。残念なことだが、学者たちに全責任を負わすことは出来ない。現代文明の自画像を描くことは人類共通の課題だからだ。西尾の問題意識を各々が内面化してみることから始めよう。
拙い絵筆でも構わぬ。私は私なりの自画像を描いてみるしかあるまい。訃報に接して、そんなことを思った。
2024年11月9日