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写真へとつながる色々なこと

最近スキーネタが多いのですが、振り返ってみるとこれまでの人生で取り組んできたあらゆる経験が「写真家」という今の仕事に結びついているんだということに気づきます。というわけで今日は僕がこれまでに真剣に取り組んできたことを振り返ってみたいと思います。

音楽

小学生のころ。CMで流れてきたワム!の「フリーダム」に心奪われた僕は近所のレコード店へ母を連れていき、無理を言ってアルバムを買ってもらったのを覚えています。「Make It Big」というタイトルでした。なんともマセた小学生ですね。そこからは日本の音楽には目もくれず、洋楽一筋。振り返ってみると80年代は洋楽全盛期で、華やかな音楽がどんどん日本で紹介されている時代でした。

中学生になってもその熱は冷めず、周りの友達がアイドルに熱中している中でも僕は「ベストヒットUSA」を楽しんでいるような、ちょっと変わった子でした。そんな僕に当時色々な情報をくれていたのが、中学校の英語の先生。新人として着任したばかりのA先生は大の洋楽ファン。まだ聞いたこともないアーティストの音源をよく貸してくれていました(今ならダメなやつですね)。

そのA先生、実は僕が中学校を卒業と同時にカナダへと引っ越してしまったのです。僕にスティングの良さを教えてくれたA先生は永遠の思い出となった、、、はずだったのです。

時はたち社会人になって数年後のこと。その時は既に写真を始めておりブログやWebサイトも運営していたのですが、それを見たという海外の方からメールが届いたのです。

文面はこうでした「娘がネットで日本の写真を検索していてあなたのサイトにたどり着きました。ひょっとして◯◯中学だった中西くんですか?間違いならごめんなさい」。

驚きました。10年近く音信不通だったA先生からメールが届いたのです。しかもきっかけは僕がWebにあげていた北海道の写真。娘さんが授業の課題で日本を調べていてたどり着いた、というのです。こんな奇跡ってあるんですね。写真をやっていなかったら、きっとA先生とは再会していなかったはず。間違いなく写真が繋いでくれた縁でした。

ちなみに中学卒業後高校に進学した僕は音楽へと傾倒し、バンドを結成。高校3年はずっとバンド活動に明け暮れていました。そのメンバーとは大学に入っても活動は続け、将来は「武道館」なんて夢を追いかけていたのです。ただ、その頃から次第に写真の存在が大きくなり始めるわけですが。

ちなみに当時どんな音楽をやっていたかというと、こんな感じ。

スキー

初めてスキーをしたのは小学生の頃だったでしょうか。地域のスキー教室に無理やり入れられ、妙高高原まで行ったのを覚えています。その後スキー熱に再び火がついたのが大学の頃。運転免許を持ったことでスキー場へ自分の足で行けるようになったことが大きかったのです。とはいえまだまだ年に数回行く程度の初心者でした。

社会人になり、スキー好きな先輩に連れられて行ったのが、前回少し書いた小樽天狗山。年末年始の休暇を利用し、6日間の地獄の特訓というレッスンに入るというものでした。世の中には上手い人がたくさんいるもんだな、と思った僕は凝り性な性格もあってすぐに熱中。毎週のようにスキー場に通うようになって行きました。

調べてみると、まだありましたよ。地獄。。。

その後は前回も書いた通り、戸隠スキー場をベースとして大阪府スキー技術選などにも出場。1種目だけでしたが8位に入るくらいまで上達することができました。

このスキー場通いの中で見てきた冬山の美しさや厳しさは未だに脳裏に焼き付いていて、山頂で見た霧氷やダイヤモンドダストは忘れられません。それが現在のモチーフへと結びついているわけですね。そして、戸隠で出会った人々は、田舎で生きる楽しさを教えてくれました。自然の近くに住み、自然を感じながら生きていくことの大切さは、スキーをやっていなければ知ることは出来ませんでしたね。美瑛に土地を探し始めたのもこの頃です。

料理

あまり口外していませんが、実は料理も好きで辻調理師専門学校の通信教育部に入学していたことがあります。なぜ料理?と思われるかもしれませんが、実はここでも戸隠との関わりがあるのです。戸隠で知り合った友人がカフェを経営していました。そこに寝泊まりをしていた僕らは、スキーに行かない日はお店の手伝いをしていたのです。そんな経験から、料理の組み立て方が写真と似ていると思うようになり、本格的に習いたいと考えたというわけ。相変わらず凝り性な性格なので、料理教室ではなく辻調を選ぶというあたりが自分でも笑えます。

そして写真

写真との出会いは高校3年生のころなので、かれこれ30年以上も続けていることになりますね。大学生になり、写真へ傾倒して行った僕はバンド活動から徐々に距離を置いていくように。写真中心の生活へとシフトしていきました。当時のメンバーとは今でも繋がっていますが、会うたびに「お前のせいで。。。」と笑い話のように言われます。

スキーは写真と並行して続けていましたが、プロを目指すにはもっと集中しないとダメだと思うようになり、大会で8位という結果を残したのをきっかけにスキーはお休みすることに。そこからは全集中で写真に向き合うことになっていくのです。

振り返ってみると、全てが今のスタイルと関係していますよね。当時はそこまで深くは考えていなかったとは思いますが、どこか片隅で、いつか北海道に移住したら、というイメージはあったように思います。だからこそ、どれも真剣に遊ぶ。楽しんで、経験して、今の自分の骨格が形成されて行ったのでしょう。


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中西敏貴
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