『みな殺しの霊歌』(1968年4月13日・松竹大船・加藤泰)PART1
ラピュタ阿佐ヶ谷「蔵出し!松竹レアもの祭」でピカピカのニュープリントで、佐藤允さん主演、加藤泰監督『みな殺しの霊歌』(1968年4月13日・松竹大船)を堪能した。トークイベントには、佐藤允さんの御子息・佐藤闘介さんをお招きして、この映画について、お父様について、タップリと語っていただいた。
今回の「松竹レアもの祭」企画の相談を、ラピュタ阿佐ヶ谷の石井紫支配人から受けたのは、昨年の12月。映画会社の倉庫に眠るボロボロの退色プリントを、フィルムが切れないように祈りつつ上映するのは名画座の宿命。「このプリントしかないから」と一期一会の気分で僕らは座席に座って、じっとスクリーンを見つめてきた。
しかしCSなどでデジタル放送される旧作は、少なくとも10年ぐらい前までは、必ずネガからプリントを焼いて放送素材を作っていた。その美麗プリントで、おそらく一度も名画座の映写機にかかっていない作品が「ある筈」ということで、作品セレクトをした。60本近くのレアものをセレクトして、プリントの有無を確認していく、そのやりとりを経て、今回の37作品が揃った。中には、川頭義郎監督の名作『涙』(1956年)のように16ミリのボロボロプリントしかないものもあったが、作品の重要性ということで上映。
今回の37作品のうちDVD化されているものはわずか2本。松本清張原作『眼の壁』と、この『みな殺しの霊歌』だけ。佐藤允さん、初の他社出演となった加藤泰監督のフィルムノワールの傑作は、10年前のDVD化のときに焼いたプリントがある筈と、確認して頂いたらドンピシャ! 早速、佐藤闘介監督にご連絡して、トークショーが決定したのは、まだ三月のことだった。
ピカピカのプリントがあるなら、どうしてもラピュタ阿佐ヶ谷で上映したいと思っていた。その理由は、今から19年前に遡る。2002年1月14日「岡本喜八映画祭2002」で、佐藤允さんトークショーの聞き手を務めたのが、僕のラピュタでの初トークだった。それがきっかけで、以来19年間、トークショーに呼んでいただいている。この時は、前々日に、大先輩の特撮研究家・池田憲章さんから「佐藤くんにしかできない仕事があるから、断らないで欲しい」と電話があり、有無を言わずに「はい」と答えた。すると「佐藤允さんとトークをして欲しいんだ」。おそらく聞き手の方の都合がつかずに、僕にお鉢が回ってきたのだろうが、佐藤允さんとのトークは充実したものになった。
以来、雑誌のインタビュー、トーク、DVD『100発100中 黄金の眼』(1968年・福田純)のオーディオコメンタリーなどで、佐藤允さんのお話を幾度となく伺うことになった。その仕事の現場で、御子息の佐藤闘介さんと知己を得て、お付き合いが続いている。そういう経緯で、7月25日のトークショーと相なったのである。
さて『みな殺しの霊歌』は、加藤泰監督3本目の松竹系作品となる。最初は、昭和41(1966年)、映画界の斜陽の波をかぶり、どの映画も当たらずに松竹映画は低迷が続いていた。自社だけでなく、他社の監督や俳優を招いて新規軸を打ち出したい。製作サイドは悩んでいた。そんな時に、東映の加藤泰監督を招いたら、と提案したのが山田洋次監督だった。山田監督は、まだ助監督時代に、野村芳太郎監督と温泉場の映画館で、加藤泰脚本・監督、中村錦之助主演『源氏九郎颯爽記 白狐二刀流』(1958年・東映)を観て、その面白さに感激して、加藤泰監督に手紙を出した。以来、文通を続けていた。その直後、結核でしばらく休養を余儀なくされた加藤泰監督は、一面識もない、松竹の助監督・山田洋次さんからの手紙に励まされたと術懐している。
そして昭和39(1964)年、山田監督はハナ肇主演『馬鹿まるだし』を監督するにあたり、藤原審爾さんの原作の脚色を、加藤泰監督に依頼。そうした関係が続くなか、昭和41年、加藤泰監督は、松竹に招かれて、安藤昇主演『男の顔は履歴書』(1966年)を演出。続いて、ゴールデン・プロ製作、安藤昇主演『阿片台地 地獄部隊突撃せよ』(1966年)が松竹系で封切られた。それに続く3本目が『みな殺しの霊歌』だった。
プロデュサーの沢村国男さんから、山本周五郎原作、野村芳太郎監督『五瓣の椿』(1964年)を現代劇でやって欲しいと持ちかけられた加藤泰監督は「一つ間違えば大変な映画になってしまう素材ですが、ひどく興味を持ってしまって、やってみたい、やってやろうという気になった映画なんです」(キネマ旬報社・世界の映画作家14「加藤泰・自伝自作を語る」)と術懐している。
しかし、『五瓣の椿』の復讐される側を女性にして、復讐する側を岩下志麻さんのヒロインから男性スターに置き換えることは「一つ間違えば大変な映画になってしまう」。男性が女性に陵辱されて自害、その復讐をその男性を大切に思っていた男が果たす。というプロットは、トークショーで佐藤闘介監督が仰っていたように、現代では被害者を美少年にしてB Lものとして成立させることができる。しかし1960年代は、ジェンダーもセクシャルマイノリティの概念も、社会通念としてはなかった時代。
この企画を観客が納得したものにするために、加藤泰監督は山田洋次監督にサポートを依頼、二人で映画の骨子である「構成」を考え、それを助監督だった三村晴彦さんがシナリオにまとめていった。「山田さんに頼みましたのは、全く異質のものだからです。山田さんでないと、この素材にブレーキかけますよね。山田さんならブレーキかけないとぼくは思ったんです。映画が抱えている危険なもの、そういう意味でのブレーキですね。ひょっとしたら膨らましてくれるようなブレーキ、それをきっと山田さんならかけてくれるのではないか、そういう期待があったんです」(前掲書)。
そして、『五瓣の椿』の岩下志麻さんのヒロインにあたる、非業の死を遂げた少年の復讐のために凄惨な連続殺人を続ける主人公に、東宝の個性派アクション・スター、佐藤允さんに声がかかった。佐藤允さんは、昭和31(1956)年の『不良少年』(谷口千吉)から東宝と専属契約、依頼、東宝の看板スターの一人として昭和30年代から40年代にかけて活躍してきた。
五社協定の壁で、それまでは他社出演は実現しなかった。しかし、この年2月、日活の石原裕次郎と、東宝の三船敏郎がそれぞれのスタープロで共同製作した『黒部の太陽』(熊井啓)が鳴り物入りで公開されて潮目が変わった。五社協定の壁が、緩やかだが崩れ始めていたのである。そのタイミングで佐藤允さんの松竹出演を東宝が認めて『みな殺しの霊歌』が実現した。
佐藤允さんは、加藤泰監督の『瞼の母』(1962年・東映)を観て、トップシーンから加藤泰演出に感心していたので、このオファーは大変嬉しかったのだと、佐藤闘介さんがトークショーの時に話してくれた。初めての松竹大船撮影所、初めての加藤泰監督作品ということで、かなり緊張したと佐藤允さんが僕に話してくれたことがある。
さて、本作のヒロインは倍賞千恵子さんが演じる、ラーメン屋「万福」の店員・春子。彼女のキャラクター、プロフィールは、のちの作品から類推しても山田洋次監督の手になるものと思われる。倍賞さんに、幾度かお話を伺ってきたが、この作品は「心に残る大好きな映画」といつも話をしてくれた。
陰惨な連続殺人が展開され、その犯人である主人公の「心の拠り所」となる清純なヒロインの存在。佐藤允さんと倍賞千恵子さんの「異色の顔合わせ」により、陰惨な犯罪が展開される『みな殺しの霊歌』の作品の体温が上がり、凶悪犯である主人公の心の中に芽生える「温かいなにか」を観客に感じさせることとなった。
(この項、続く)
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