『まごころ』(1939年8月10日・東宝・成瀬巳喜男)
成瀬巳喜男監督研究。山梨県甲府市を舞台にした、二人の少女の一夏を描いた『まごころ』(1939年8月10日・東宝・成瀬巳喜男)。原作は石坂洋次郎がこの年、むらさき出版部から上梓した「まごころ・伝説」所収の少女小説。『女人哀愁』(1937年)でコンビを組んだ入江たか子と、東宝のメロドラマには欠かせない二枚目・高田稔主演だが、本当の主役は二人の娘、加藤照子と悦ちゃん。
1939(昭和14)年夏の甲府でのロケーションが効果的で、夏の日差しが眩しい。おっとりとした大人しい女の子・加藤照子は、戦前から戦時中にかけての東宝映画ではお馴染みの子役。『愛の設計』(1939年10月20日・東宝・藤田潤一)では、好奇心旺盛な女の子・圭子を演じ、長谷川一夫と原節子の『蛇姫様・正続篇』(1940年・東宝・衣笠貞之助)では「ひのきや」の娘・おつるを演じている。斎藤寅次郎の喜劇『子寶夫婦』(1941年)では、徳川夢声と英百合子夫婦の五女・菊子を演じていた。彼女が東宝で活躍していたのは、1939年から1944(昭和19)年にかけての5年間。山本嘉次郎の『ハワイマレー沖海戦』(1942年)では、原節子の妹・宇女子(うめこ)を演じ、黒澤明の『一番美しく』(1944年)での佐藤照子役では、すっかり大人になっている。
この『まごころ』は、加藤照子という少女の愛らしさ、ひたむきさ、可愛さを、成瀬巳喜男が見事な演出でフィルムに刻んでいる。その親友で快活な女の子・悦ちゃんは、高峰秀子に続く少女スターとして、東宝が力を入れていた。獅子文六のユーモア小説「悦ちゃん」を、1937(昭和12)年に映画化した時にタイトルロールの”悦ちゃん”を演じることになり、芸名もそのままつけられた。
ちなみに日活で作られた「悦ちゃん」シリーズ、獅子文六原作は1作目『悦ちゃん』(1937年2月28日・日活多摩川・倉田文人)のみで、2作目『悦ちゃん乗り出す』(6月17日・同)はサトウハチロー原作、以後、倉田文人演出で『悦ちゃんの涙』(7月29日・同)、『悦ちゃんの千人針』(11月25日・同)、『まごころ万才』(1938年1月7日・日活多摩川・千葉泰樹)、『悦ちゃん部隊』(同年5月26日・伊賀山正徳)、『悦ちゃん万才』(7月31日)まで7本作られた。ヒロインのキャラクターはいずれも”悦ちゃん”。和製シャーリー・テンプルとして日活多摩川のアイドルだった。
その人気に着目した東宝は昭和14年、悦ちゃんを引き抜いて『エノケンの鞍馬天狗』(5月21日・東宝・近藤勝彦)、『ロッパの子守唄』(6月15日・東宝・齋藤寅次郎)で、二大喜劇王と共演させ「東宝の悦ちゃん」のイメージを決定づける。そして成瀬巳喜男作品に出演ということになった。
この『まごころ』の最大の魅力は、活発で物おじしない信子(悦ちゃん)と、おっとりして大人しい富子(加藤照子)のタイプの違う親友同士のやりとり、揺れ動く心。例えていうなら「ちびまる子ちゃん」の”まるこ”と”たまちゃん”のような感じである。
浅田信子(悦ちゃん)のお母さん(村瀬幸子)は、愛国婦人会の世話人として地域の奥さん方から絶大な信頼を得ている。今日も、出征兵士を甲府駅まで見送りに。割烹着姿の和装の奥さんたちが、軍人に続いて行進をする姿は、なんとも勇ましい。日中戦争が激化をして、在郷軍人や、30代の男たちにも召集令状が届いていた。
いわゆる時局迎合の描写だが、信子のお母さんは、愛国婦人会の活動に熱心すぎて、娘のことをあまり構っていない様子。戦後のドラマや映画でのPTAに熱心のあまり子供を顧みない母親と同じ。信子のお父さん、浅田敬吉(高田稔)は資産家の妻の実家から学費を出してもらって、入婿のようなかたちなので、妻が家庭の中心になっている。
この村瀬幸子が典型的な「ざます」(山梨なのでそういう言い方ではないが)タイプの奥さん。信子の一学期の通信簿が10位に下がっているのは、新しい担任の先生(清川荘司)の責任だと、ヒステリー気味に学校に乗り込む。
一位を取ったのは、信子の親友・長谷山富子(加藤照子)。早くに父親を亡くして母子家庭で、暮らし向きも貧しい長谷山家だが、母・蔦子(入江たか子)が仕立物を請け負いながら、つましくも楽しく暮らしている。
信子の母は、かつて夫・敬吉と蔦子が相思相愛の仲だったことに、いまだにヤキモチを焼いている。学校の先生にクレームをつけにいった晩、蔦子の娘が一位なのがよほど悔しいのか、夫と蔦子の仲を疑うような言葉で罵る。それを寝床で聞いていた信子。登校日の”草むしり”の時に、自分のお父さんと富子のお母さんが、自分たちが生まれる前に結婚するかも知れなかったと話す。
信子は「過去のことだから」と何も気にしていないのだが、富子はショックを受けて泣き出してしまう。困ってしまう信子。少女の微妙な心の綾の描き方が見事。戦前の映画であることを忘れてしまうほど、二人の演技は自然で、観客は富子の気持ちに共感することに。
そのシーンの直前、登校日、校庭に雑草が生えないように、草の根をみんなで刈っている。信子はサクサクと大胆に刈ってゆくが、富子はじっくりゆっくり、根こそぎ丁寧に刈っている。それを見た先生、二人のタイプの違いについて的確に話す。信子の大胆と、富子の丁寧、二人の資質をそれぞれ見習うように、と。
成瀬巳喜男によるシナリオは、こうした二人の性格を、年少の観客にもわかりやすく伝えてくれる。富子は、母が亡父以外の男性と結婚前とはいえ、心を通わせていたことがショックで、帰宅して、母・蔦子に問いただす。蔦子は「正直に話すわ」と、敬吉は親戚であること、自分が結婚する前に、信子の母と結婚したこと。自分は亡くなった夫を一番愛しているという気持ちを話す。
しかし、それを聴いていたお祖母さんは、それは違うと、本当のことを富子に話す日が来たと、富子に「ここにお座り」と。富子の父は解消なしの酒乱で、蔦子を困らせていたこと、シリアスな話をする。懸命に否定する蔦子。このあたり、児童映画にしては踏みこんだシナリオである。蔦子と亡夫、幼い富子の日々は、戦後、成瀬が繰り返し描いていく「妻の苦労」のドラマを思わせる。
入江たか子と成瀬が初めて組んだ『女人哀愁』(1937年)は、こうした「結婚の失敗」と「女性の自立」を描いていた。
しばらく経って、暑い昼下がり。富子は近くの河原に、泳ぎに出かける。甲府市を流れる荒川でロケーション。沢山の子どもたちが、荒川で泳いでいる。泳ぎ疲れて、河原で富子が甲羅干しをしていると、信子が馬乗りになってくる。気まずいまま、久しぶりに会ったふたりに、屈託はもうない。信子は父・敬吉と一緒に来ていて、敬吉は釣り糸を垂れていた。はじめて信子の父を見る富子、複雑な思いがよぎる。
川に入った途端、信子が足を切って出血してしまう。「家から、おくすりと包帯を持ってくるわ」。急いで家に戻る富子。事情を聞いた蔦子も急行する。そこで、敬吉と富子は、別れて以来、久々の再会となる。かつて、結婚を意識した男と女。それぞれの子どもたちの前で挨拶をする。メロドラマとしてのクライマックスである。
このときの、富子と信子の微妙な心理まで、成瀬は丁寧に描いていく。信子を背負って帰途につく敬吉。久しぶりに娘を背負い、その成長を噛み締める敬吉。少し恥ずかしい信子。父親におぶってもらった記憶のない富子は、少し羨ましい。そんな気持ちを、観客に抱かせてくれる。去り際に、信子が「富子さんのお母さんに」と敬吉に手を振らせる。信子のその気持ち。富子も母・蔦子にねだっておぶってもらう。父と娘、母と娘が心を通わせる。本当に素晴らしいシーンである。
しばらくして、旧友たちが信子の見舞いに行くからと、富子を誘うが、なんとなく気後れした富子は行かない。帰宅すると、玩具店から大きなフランス人形がとどいている。敬吉から、先日のお礼にと送ってきたものである。富子はそれが欲しいが、蔦子の気持ちを慮って、それを信子の家に返しに行くことにする。
その手紙を呼んだ敬吉は、自分の軽率を反省する。高田稔が演じた敬吉は、父親としても男性としても立派な人である。前半、信子の通知表をみて、成績が10番に下がったことを嘆く妻・村瀬幸子に対して、信子の身体の成長ぶりを評価して、子供の成長は成績だけではないと、妻を諫めるリベラルな父親でもある。
信子の母の蔦子への嫉妬、母を想う富子の気持ち。かつての想い人と邂逅したことを妻に隠していた敬吉。それぞれの想いが交錯するクライマックス! やがて敬吉が応召される。出征の日、甲府の駅のホーム。汽車の人となった軍服姿の敬吉。見送る、敬吉の妻、信子、そしてフランス人形を抱いた富子、蔦子の四人。勇ましいラストは、時局を物語る。同時に、信子もまた戦争で父を喪うかもしれない。当時はそんな風に受け取る観客はいなかっただろうが、今の目線になるとどうしても、これから少女たちを待ち受けている苛烈な運命を思うと辛い気持ちになる。
しかし、映画はその時の現在のみを記録している。とにかく加藤照子と悦ちゃんが素晴らしい。昭和14年の自局迎合、国威発揚映画でありながら、隅々まで行き届いた成瀬巳喜男の児童映画の傑作である。
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