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『石中先生行状記 青春無銭旅行』(1954年・中川信夫)

 昭和20年代から30年代にかけて、映画界は、石坂洋次郎作品が「花ざかり」だった。戦後日本映画がここから始まった、と言っていい、今井正監督『青い山脈』(1949年)のインパクトは、今の感覚では想像できないほど強烈だった。石坂洋次郎イズムは、戦後民主主義を体現するものとして、リベラル派だけでなく十代の若者たち、そして映画を通して幅広い世代の支持を受けていた。

 同時に、青森県弘前市で教員生活をスタートした石坂文学の舞台である東北の牧歌的なムード、ローカリズムも魅力的だった。昭和25(1950)年、成瀬巳喜男の『石中先生行状記』(新東宝)は、石坂洋次郎のホームグラウンドである弘前を舞台に、地元の有名人である小説家の「石中先生」と周囲の人々のユーモラスな関係を、様々なエピソードで綴った微苦笑の喜劇だった。

 NHKラジオの人気番組「二十の扉」のレギュラーで、洋画家で医師の宮田重雄が演じた石中先生は、良い意味での「素人っぽさ」が、現実の石坂洋次郎を観客にイメージさせて大好評。続く『戦後派お化け大会』(1951年・新東宝・佐伯清)でも、宮田重雄が石中先生を続演した。

 石坂文学の映画化は、『青い山脈』の製作者・藤本真澄が一手に担っていたが、松竹でも『美しい暦』(1951年・原研吉)、『天明太郎』(同・池田忠雄)を製作、新東宝も「草を刈る娘」の映画化『思春の泉』(1953年・中川信夫)を製作していた。

 この『思春の泉』は、俳優座とのユニット作品で、キャストも充実している。中川信夫監督の巧みな演出による左幸子と宇津井健のフレッシュな演技も楽しく、青春映画としても大成功を収めた。新人プロデューサーだった山崎喜暉は、新東宝での映画化実績も踏まえて、石坂洋次郎にアプローチ。「石中先生行状記」第3作の映画化を企画した。

 それがシリーズ番外編ともいうべき『石中先生行状記 青春無銭旅行』(1954年8月24日)だった。脚本・舘岡謙之助、音楽・齋藤一郎、録音・中井喜八郎、照明・谷口明、そして中川信夫監督と、『思春の泉』のスタッフがそのままスライドしている。

 三たび、宮田重雄が石中先生に扮して、(おそらく)青森県弘前市の石中先生のもとに、女学生たちが「何かためになる、面白い話」をしてもらおうと、やってくるところから話が始まる。何を話そうかと、石中先生が考えているところに、やってきたのは、幼なじみの丸山義雄(小倉繁)。今は農家の親父になっている丸山は、その昔、数学の天才だったというところで、若き日のエピソードが回想される。

 石中先生が語り部となって、旧制中学時代の夏に敢行した「無銭旅行」の思い出が描かれる。ノスタルジーたっぷりの構成。現在の丸山を演じた小倉繁が、少しの出番だが実に良い。小倉繁は戦前、松竹蒲田のコメディ俳優で、「喜劇の神様」齋藤寅次郎監督作品の常連で、現存する数少ない傑作『子宝騒動』(1935年・松竹蒲田)などで「和製チャップリン」として活躍した。戦後も、新東宝の齋藤寅次郎映画の常連となるが、成瀬巳喜男『銀座化粧』(1951年)や、五所平之助『煙突の見える場所』(1953年)などで印象的な役を演じていた。

 その中学生時代を演じたのが小高まさる。戦前、東宝映画の名子役として山本嘉次郎『綴方教室』(1938年)でスクリーンに登場。『ロッパのおとうちゃん』(1938年・齋藤寅次郎)などロッパ映画で息子役を続演。そのまま成長してコンスタントにプログラムピクチャーに出演。中川信夫作品では『エノケンのとび助冒険旅行』(1949年・新東宝)でガキ大将を演じている。ともあれ、齋藤寅次郎映画ではお馴染みの小高まさるが、小倉繁になるというのは、喜劇映画ファンとしては納得のキャスティング。

 そして回想シーンが本編となる。旧制中学五年生の石中君(和田孝)と丸山義雄君(小高まさる)が、仲間たちで流行している夏休みの「無銭旅行」に出発する。ルールはシンプル。1日6里歩いて、宿泊は見ず知らずの人の家に泊まること。決して知人は頼らない。制服、制帽に白ズックのカバン、ゲートルを巻いて、意気揚々と出発。と、その時に、剣術の教師で「自分は日本で二番目の剣術の達人」と豪語する、体罰教師・佐々木先生(東野英治郎)に、呼び止められ、喝を入れられ、檄を飛ばされる。

 俳優座の東野英次郎の佐々木先生は、小心者なのに、生徒たちには威張り散らす。戦前の軍国主義の象徴でもあるが、山本薩夫の『真空地帯』の軍人のような非人間的な暴力装置ではなく、あまりにも人間的ゆえに「小山の大将」でいようとする悲しき中年男性である。嫌なこともたくさんあったが懐かしい。という、中川信夫監督の世代のノスタルジーが微笑ましい。

 そして鼻持ちならない、スネ夫タイプの旧友も登場する。知事の息子の威を借りて、何かにつけて「パッパー(パパ)」に言いつけるが口癖のドラ息子・小林謙一(井上大助)である。小林も取り巻きと一緒に、自転車で「無銭旅行」をすると宣言。戦前でいうと「大学の若旦那」には「与太者」、昭和30年代でいうと「若大将」には「青大将」、僕らの世代では「のび太」には「ジャイアン・スネ夫」という図式である。

 演じる井上大助は、藤本真澄お気に入りの名子役で、藤本プロの『えり子とともに』(1951年・新東宝)でヒロインの弟・井上大助役のオーディションに合格して映画界入り。

 石中先生の前作『戦後派お化け大会』(1951年)では、大助君と芸名そのままの役名で出演。「三等重役」シリーズでは、河村黎吉演じる社長の息子・大助を演じた。というか、ほとんどの作品で役名が大助で、映画界に愛された子役でもある。余談だが、寄席通いが趣味で、立川談志師匠とは大の仲良しだった。「あいつは、早く死んじゃって」と、師匠から42歳の若さで亡くなった井上大助さんとの思い出話を伺ったことがある。

 さらに余談だが、ジャッキー吉川とブルーコメッツの井上忠夫さんは、井上という苗字なので若い頃から「大助」のあだ名で仲間から呼ばれていたという。それがいつしか通名となり、1981年に「井上大輔」に改名した。

 さて、石中君と丸山君。あまりの暑さに川で泳いでいると、女学校に通うマドンナ的存在のクレオパトラこと桃井園子(筑紫あけみ)たちが通りかかる。男女交際には厳しかった時代だが、そこは石坂洋次郎の世界。石中君とクレオパトラたちは健康的な関係として描かれている。筑紫あけみは、新東宝のアイドル的な若手女優で、実に可愛い。この後、和田孝とは『たん子たん吉珍道中』(毛利正樹)三部作でも共演することになる。

 こうして大正末期から昭和にかけての石中先生の青春時代の冒険が微笑ましく展開される。クレオパトラとの話に夢中で、制服と荷物をそっくりそのまま、怪しげな山伏スタイルの村井一心斎(千秋実)に盗まれてしまったり。その一心斎の片棒を担いで、インチキ祈祷に加担したり、様々なエピソードが綴られていく。

 とあるお堂に泊まった時には、夫と睦みあうことを姑・タメ子婆さん(高橋とよ)に咎められ、その悩みを神様に告げにきた嫁・モヨ子(城実穂)に、神様の声としてアドバイスしたり。セックスについても開けっぴろげな、おおらかな世界が繰り広げられる。

 空腹に耐えかねて「無銭旅行」のルールを破って、クレオパトラの実家の旅館に泊まった時には、剣術大会できていた佐々木先生が宴会で怪気炎を上げている。普段、意味もなく殴られている石中君と丸山君は、なんとかギャフンと言わせようと一計を案じる。夜、佐々木先生が芸者と同衾しているところに乗り込んで「奥さんに報告する」と脅かして、先生は平身低頭、このことを不問にする代わりに、以後一切体罰はしないと約束を取り付ける。

 戦前エノケン喜劇の傑作『エノケンの頑張り戦術』(1939年・東宝)など、コメディ演出には定評のある中川信夫らしく、緩急自在にテンポ良く、大人の社会の矛盾を微苦笑の中に描いていく。特に東野英治郎の佐々木先生、千秋実のインチキ祈祷師・村井一心斎は、子供の世界にはない狡猾さ。でもそれを糾弾するわけでなく、どこか憎めない感じにしているのがいい。

 クライマックス、目的地の日本海に到着すると、なぜか知事の息子・小林謙一たちに間違えられたのを幸い、高利貸しもやっている悪徳村長・田辺金右衛門(十朱久雄)に、借金のカタで手籠にされんとしている村娘・トセ子(左幸子)の貞操を救うため、ニセの知事息子一行にばけることに。

 まるでニセの水戸黄門みたいに、世直しのために立ち上がる石中君と丸山君。その顛末がなかなか面白い。大人たちの右往左往ぶりと、中学生たちの機転の利いた行動。さらに本物の小林たちが現れて、石中君たちは絶体絶命となる。

 テンポも良く、俳優たちの演技も実に良い。石坂洋次郎ものの魅力と、中川信夫映画の面白さが見事に融合して、傑作の一つとなった。

 プロデューサーの山崎喜暉は、この後、東宝傍系の東京映画へ移籍。戦前から「エンタツ・アチャコ映画」や「エノケン映画」を東宝で製作していた瀧村和男のもとで、森繁久彌作品などを手がけていくこととなる。
 

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佐藤利明(娯楽映画研究家・オトナの歌謡曲プロデューサー)の娯楽映画研究所
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