クレイジーキャッツの音楽史 第1回「初心者のためのクレイジーキャッツ入門」
講師:佐藤利明(娯楽映画研究家・オトナの歌謡曲プロデューサー)
NHK文化センター「クレイジーキャッツの音楽史」第1回(4月15日(金)19:00~20:30)「初心者のためのクレイジーキャッツ入門」での講義内容をカルチャーラジオ(8月7日(日)20:00〜21:00)でオンエアしたものを再録(放送ではカットされている部分もそのままテキスト化してます)したものです。
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●第1回「初心者のためのクレイジーキャッツ入門」
リアルタイムでクレイジー音楽を聴いたことがない世代が大半になった現在。講座の初回ではわかりやすくその功績を紹介します。1955年(昭和30年)に結成され、その後テレビの黎明期に伝説の番組「シャボン玉ホリデー」などに出演、テレビ黄金時代を笑いと音楽で駆け抜けたのがクレイジーキャッツでした。現在にまで続くテレビ・バラエティのスタイルを作り、コメディ・グループとしても、テレビタレントとしても、後世に多大なる影響を与えました。戦後の日本のエンタテインメントの「核」を作ったといっても過言ではないその功績と、クレイジーキャッツがもつ、後継のタレントやスターにはない魅力である「音楽」の要素を検証していきます。
「クレイジーキャッツ入門」オープニング
娯楽映画研究家、オトナの歌謡曲プロデューサー、佐藤利明です。
僕は1963(昭和38)年生まれです。
物心ついたときには、テレビで植木等さん、谷啓さん、ハナ肇さんたちクレイジーキャッツの面々が、連日、テレビのバラエティに出演していました。
まだ幼児の僕にとっては、クレイジーキャッツは「面白い大人」でした。
日曜夜の茶の間は、夕方6時から「てなもんや三度笠」、6時30分からは「シャボン玉ホリデー」、夜7時からは「ウルトラマン」と、夢のような時間でした。
なかでも、「シャボン玉ホリデー」はおさなごころにも楽しく、植木等さんの「お呼びでない」やハナ肇さんの「おかゆコント」など、ルーティーンのギャグに、家族全員で大笑いをしていました。
特にテレビで時折放映される、東宝のクレージー映画で、植木等さんがスーパーサラリーマンとして活躍して、あらゆるトラブルを「いいからいいから」「気にしない気にしない」と笑いながら「あれよあれよ」と解決してしまう姿に爽快さを感じました。
M1 ♪東京五輪音頭 植木等
作詞:宮田隆 作曲:古賀政男 東宝映画『日本一のホラ吹き男』(1964年6月11日・古澤憲吾)
そこで、必ず植木等さんが歌うシーンがあり、その歌声と、歌詞の面白さ、奇想天外なサウンドに魅了されました。植木等さんは「笑いながら唄う」のです。
数あるクレイジーキャッツのヒットソングのなかで、最もインパクトのある曲といえば、これです。1964(昭和39)年11月、東京オリンピック閉会直後に公開された東宝映画『ホラ吹き太閤記』(古澤憲吾監督)の主題歌「だまって俺について来い」。作詞は青島幸男さん、作曲は萩原哲晶さん。唄はもちろん、植木等さんです。
M2 ♪だまって俺について来い 植木等
作詞・青島幸男 作曲・編曲・萩原哲晶 東芝音工・TP-1021・11月15日発売
この曲のタイトルは、東京オリンピックで「東洋の魔女」と呼ばれた全日本女子バレーチームを金メダルに導いた、大松博文監督の名言「おれについてこい!」にインスパイアされたものです。映画『ホラ吹き太閤記』は、植木さんが「極めて無責任な木下藤吉郎」を演じた時代劇コメディです。この翌年にNHK大河ドラマ「太閤記」が放送されることもあって、いち早くパロディ映画が作られました。
この植木さんの歌声、聴いているだけでも「幸せな気分」になれます。大阪朝日放送のテレビコメディ「ごろんぼ波止場」の主題歌として、オリンピック直前の昭和39年9月に初めてオンエアされました。
「みろよ青い空 白い雲 そのうちなんとかなるだろう」の歌詞は、「この人についていったら、何かいいことがありそう」と思わせてくれる、究極のポピュリズムでもあります。
この講座では「クレイジーキャッツの音楽史」をテーマに、昭和30年代から40年代にかけて日本中を席巻した「ハナ肇とクレイジーキャッツ」のインパクトがもたらしたもの、後世に与えた多大な影響を、4週に渡って、さまざまな角度から検証していきます。
さあ、ご一緒に、1960年代、クレイジーキャッツの黄金時代へ、タイムスリップしていきましょう。
結成6年目のデビュー曲「スーダラ節」
「ハナ肇とクレイジーキャッツは日本のビートルズである」
僕は、そうずっと考えてきました。
「ハナ肇とクレイジーキャッツ」と植木等さんがデビュー・シングル「スーダラ節」をリリースしたのは、昭和36(1961)年8月20日。この年の4月にNHKのバラエティ・ドラマ「若い季節」がスタート。そして6月4日には、N T V系で「シャボン玉ホリデー」が始まったばかりでした。
昭和30(1955)年にクレイジーキャッツが結成されて6年。ミュージシャンとして活躍してきた彼らのレコード・デビューが「コミック・ソング」だったのは、今の感覚では意外かもしれませんが、彼らはテレビで人気の「コミック・グループ」だったからです。
作詞・青島幸男さん、作・編曲・萩原哲晶さん。植木等さんが唄う「スーダラ節」は、高度経済成長を邁進するニッポン中に鳴り響き、「クレイジーキャッツの黄金時代」が本格的に幕開けをします。
M3 スーダラ節 植木等
作詞・青島幸男 作曲・編曲・萩原哲晶 東芝音工/JP-1300/ 1961.8.20
この時、植木等さんはすでに35歳。クレイジーキャッツ結成6年目のことでした。クレイジーがお茶の間の人気者になったのは、昭和34(1959)年、フジテレビ開局の翌日にスタートした風刺コント番組「おとなの漫画」でした。朝刊に掲載されたその日のニュースを、放送作家・青島幸男さんたちがコント台本に仕立て、クレイジーが演じるという10分間のミニ番組で、月曜日から土曜までウィークディの昼間にオンエアされていました。
ここでクレイジーキャッツのメンバーをご紹介しましょう。
ハナ肇(ドラム)
植木等(ギター・ヴォーカル)
谷啓(トロンボーン)
犬塚弘(ベース)
安田伸(サックス)
石橋エータロー(ピアノ)
桜井センリ(ピアノ)
昭和30年代のテレビ黄金時代、お茶の間は「音楽もできるコメディ・グループ」として認知されていましたが、彼らは生粋のジャズマン。昭和20年代、空前のジャズブームのなか、それぞれがジャズ・ミュージシャンとして活動を初めて、才能を開花させていきました。
「上を向いて歩こう」と「スーダラ節」
「スーダラ節」が生まれた昭和36年夏には、戦後芸能史的にはさまざまなエポックが誕生しました。映画界では7月8日、加山雄三さんの『大学の若大将』(東宝・杉江敏男)が封切られました。「若大将シリーズ」の誕生です。その主題歌「夜の太陽」(作詞・三田恭次)の作曲は。やはりジャズ・ブームでピアニストとして活躍した中村八大さんです。
余談ですが、この加山さんの「夜の太陽」は、昭和36年7月21日にサンケイホールで開催された「第3回中村八大リサイタル」で大々的に披露されました。このリサイタルのために、中村八大さんが作曲、永六輔さんが作詞をした「上を向いて歩こう」を、当日になって急遽歌うことになったのが坂本九さんです。
坂本九さんの「上を向いて歩こう」は、8月19日、NHKでこの年に始まったばかりのバラエティ番組「夢であいましょう」で初披露されました。レコード発売が10月ですから、日本中の人々は、この日にお茶の間で、坂本九さんの「上を向いて歩こう」と出会ったのです。
その翌日、植木等さんの「スーダラ節」がリリースされたのです。発売に併せて、日本テレビ「シャボン玉ホリデー」では、クレイジーキャッツのデビュー曲「スーダラ節」が披露されました。
つまり、昭和36年8月、戦後を象徴する大ヒット曲となった「スーダラ節」と「上を向いて歩こう」は、日本中のお茶の間に流れたのです。僕はこれまで娯楽映画研究家として、加山雄三さんの若大将、クレイジーキャッツ、坂本九さんについてご紹介してきましたが、全てが1961年夏に誕生したことは、重要な意味があると思います。
では、坂本九さんと植木等さんが共演した東宝映画『若い季節』(1962年・古澤憲吾)から、植木等さんで「上を向いて歩こう」です。歌い出しは坂本九さんです。
M4 上を向いて歩こう 坂本九・植木等
作詞・永六輔 作曲・中村八大『若い季節』1962.10.20/東宝
「クレイジーキャッツの誕生」
クレイジーキャッツが結成されたのは昭和30年4月1日。ジャズ・ドラマーのハナ肇さんが、萩原哲晶とデューク・セプテットのベーシスト・犬塚弘さんに「ワンちゃん、コミックバンド作らねえか?」の一言がきっかけでした。
サンフランシスコ講和条約締結後、米軍キャンプ中心に活動をしていたジャズマンたちは、基地の撤退により仕事の場が激減。そんなジャズマンたちのために、マネージメントが必要と考えたのが、「渡辺晋とシックジョーズ」のベーシスト、渡辺晋さん。そこで発足したのが渡辺プロダクションです。その所属バンド第一号となったのが、ハナ肇さんが犬塚弘さんに「コミックバンド作らねえか?」と持ちかけて結成した「ハナ肇とキューバンキャッツ」でした。
その頃、植木等さん、谷啓さん、桜井センリさんは、フランキー堺とシティスリッカーズに在籍中でした。
シティスリッカーズ時代の植木等の姿は、フランキー堺さん主演の映画『初恋カナリヤ娘』(55年・東宝)で観ることができます。ナイトクラブでの演奏シーンで、マラカス片手の植木が踊り、シティスリッカーズに在籍していた桜井センリがピアノを弾く姿が確認できます。
さて、コミカルな“冗談音楽”で劇場を沸かしていた“フランキー堺とシティスリッカーズ”だったが、リーダーのフランキー堺が俳優として引っ張りだことなり、リーダーは不在がちとなり、玄人受けしていたコミック・バンドから、次第に大衆向けのダンス・バンドとなってきていったのです。
そこにハナ肇さんからの誘い。植木さんも谷さんも、二つ返事で移籍を快諾した。ところがマネージャーがそれを認めません。辞めると申し出たものの、言下に否定された谷啓さんは、マネージャーに顔を合わせるのがこわくて、そのままキューバンキャッツに移籍してしまったのです。ところが律儀な植木さんは、二人いっぺんに辞めるわけにもいかないとシティスリッカーズに残ります。
当時はラテンブーム。ラテン音楽をレパートリーにしたコミカルなバンド「ハナ肇とキューバンキャッツ」は何度かのメンバーチェンジを経て、トロンボーンの谷啓さん、ピアノの石橋エータローさん、ギターの植木等さん、サックスの安田伸さんが加わり「ハナ肇とクレイジーキャッツ」となります。
メンバー全員が揃ったのは、昭和32(1957)年秋のこと。クレイジーキャッツと改名したのは、諸説ありますが、犬塚弘さんの記憶では、昭和31(1956)年2月に谷啓が入って、3月に石橋エータローが入ってきた頃だったという。また、谷は昭和32(1957)年2月、植木が入ってきてからクレイジーになったと認識していました。
そのきっかけには、こんなエピソードがあります。
ある日、米軍将校がステージでの「キューバン・キャッツ」を観て大喜び。谷がハナの頭を洗面器で叩き、犬塚がハナの首を締めて、ハナが寄り目になってダウン。まるでハリウッド製のカートゥーン(漫画映画)のようなギャグに、客席が沸きに沸いたのです。
「ヘイ、クレイジー!」とその将校。
「クレイジーてなんだ?」
「おもしろいなぁ」
「バンド名を変えちゃおうか?」
というわけで「キューバン・キャッツ」は「クレイジーキャッツ」になったのです。
昭和31(1956)年2月、キューバンキャッツが在日米軍キャンプを廻っていた時のこと。ステージが最高潮に達した時に、犬塚弘のベース演奏が止まらなくなる、というネタがありました。後ろで右往左往している谷啓が洗面器で犬塚の頭を叩いたのが受けた。ある時米軍クラブのお客が喜んで「ヘイ、クレイジー!」と声をかけたのです。これがきっかけとなり、コミック・バンドとして、こうしたギャグが受ける寄りになった頃、バンド名は“ハナ肇とクレイジーキャッツ”と改名されました。
やがて、谷啓さんに遅れること一年1ヶ月後、昭和32(1957)年2月、ようやく植木等さんがクレイジーキャッツに加わったのです。
ドラムス ハナ肇
「一言で言うと『庶民的な親分』タイプ。猪突猛進なキャラクターを生かしたのが、山田洋次監督。『馬鹿シリーズ』で、後の『寅さん』に通じる『時代に取り残された男』の悲哀をパワフルに演じた。69年末には『ゲバゲバ90分』(日本テレビ系)の『アッと驚く為五郎』が一世を風びした」
ギター 植木等
デビュー曲『スーダラ節』(61年)の大ヒットと、『ニッポン無責任時代』(62年)で演じた『無責任男』は日本の芸能史においては、戦前のエノケンこと榎本健一に匹敵するインパクトがありました。方向性は違いますが、石原裕次郎、長嶋茂雄らと並ぶ、戦後を象徴するスターです」
トロンボーン 谷啓
「子供たちに絶大な人気。『ガチョーン』『ビローン』『ムヒョー』など意味不明の擬音が流行語に。ハリウッド映画のコメディアン、ダニー・ケイを敬愛して芸名を付け、譜面にギャグを書いて音楽コントのレベルアップに貢献」
ベース 犬塚弘
戦後まもなく、IBMに入社するも『アメリカ人上司と大ゲンカ』して会社を辞めてジャズマンに。ハナから誘われて前身バンドに参加。結成時からのメンバーにして、今も健在。俳優としても山田洋次監督作品の常連で、井上ひさしのこまつ座の舞台にも参加」
テナーサックス 安田伸
「映画『嵐を呼ぶ男』(57年)に出演。『シャボン玉ホリデー』では、なべおさみとの『キントト映画』コントで、なべの暴君的映画監督に『ヤスダ〜』と怒鳴られながらも、忠実に仕事に取り組む助監督役で大受け。晩年は大林宣彦監督作品の常連となり、森繁久彌の『屋根の上のバイオリン弾き』にも出演」
ピアノ 石橋エータロー
「昭和20年代、伝説のジャズピアニストとして渡米計画もあったほど。父は『笛吹童子』の作曲家・福田蘭堂。クレイジー参加直後から『女形』で笑いを取っていた。70年に引退して料理研究家になったが、しばしば舞台やテレビで『元クレイジー』として共演」
ピアノ 桜井センリ
「石橋エータローの病気休養で急きょメンバーに。『女形』を楽しそうに演じ、洗面器で頭を叩かれてもニコニコ。『センリばあさん』のキャラクターで出演した『キンチョール』CMが大ヒット。山田洋次監督は脇役として起用」
クレイジーキャッツはジャズマンですが、残念ながらジャズ演奏の音源はほとんど残っていません。映画やテレビ、舞台公演ではジャズ演奏をする場面がありましたが、それを残しておくという発想が、当時はありませんでした。
ジャズミュージシャンとしての彼らの演奏が、2曲だけ奇跡的に残されていました。1960(昭和35)年、日活映画『竜巻小僧』(西河克己監督)にゲスト出演。神戸のナイトクラブでリハーサル演奏するシーンの音源が、10数年前、日活撮影所の倉庫で発見されたのです。通常、映画の音楽シーンは、事前に演奏を録音して、撮影現場でプレイバックをしながら演技をします。この時の事前録音=プレスコ音源が残されていました。
それではお聞きいただきましょう。日活映画『竜巻小僧』(1960年10月11日)より、ハナ肇とクレイジーキャッツで「C R A Z Y D R U M S」。
M4 CRAZY DRUMS ハナ肇とクレイジーキャッツ
『竜巻小僧』1960.11.11/日活・西河克己
*ラジオ放送ではカット
コメディグループとしてのクレイジーキャッツ
昭和30年代前半、クレイジーキャッツは、活動の場が米軍キャンプのクラブから、銀座や新宿のジャス喫茶が多くなってきました。それまでの米軍クラブでは、言葉が通じない分、パントマイムで笑わせていました。しかしジャズ喫茶では、もう少しわかりやすい笑いが求められました。
この頃の十八番に「枯葉」ネタがあります。「枯葉」は1945年にジョセフ・コズマが作曲。フランス映画『夜の門』(1946年)でイブ・モンタンが歌ったシャンソンの名曲です。
クレイジーキャッツのステージでは、植木さんが「♪枯葉」を甘い声で歌っていると、トロンボーン持った谷啓さんがカッコよく吹こうとするも、勢い余ってスライダーが抜けてしまいます。シラけた植木さん、気を取り直して、歌い出す。
そこで石橋エータローさんがピアノ・ソロを美しい旋律を奏でていると、ハナ肇さんのモノローグが始まります。
「一枚の枯葉が二枚の枯葉になりました。やがて、二枚が四枚、四枚が八枚・・・」と語っているうちに、いつしかガマの油売りの口上になってしまう。
どんどんエスカレートしていくハナさん。そこへ植木さんが現れて、ハナさんの肩を思い切り叩いて「おしまい!」となる。
東京や大阪のジャズ喫茶で、ギャグを交えながら、コミカルなステージを展開、本格的なジャズ演奏も相まって「新しいもの好き」の学生やサラリーマンたちの「知る人ぞ知る」人気グループとなります。
ジャズ喫茶のステージを観に、時代の花形であるテレビマンや映画人たちも通っていました。
日劇初出演!
昭和32(1957)年9月に、安田伸さんが加わり、メンバーが揃いました。その2ヶ月後、11月27日から12月11日にかけて、クレイジーにとって初めての有楽町・日本劇場への出演を果たします。
「ジャズ・デ・ラックス」全十景です。「ジョージ・川口とオールスター」「ハナ肇とクレイジーキャッツ」、歌手は旗照夫さん、中島潤さん、沢たまきさんらがクレジットされています。
構成・演出は山本紫朗さん、音楽は広瀬健次郎さんと中村八大さん、振付は県洋二さん。当時のショービジネスを代表する豪華な顔ぶれです。
さて「ジャズ・デ・ラックス」でのクレイジーは、どんなステージを展開したのだろうか?
プログラムには、こう書かれています。
第六景 クレージィ・キャッツの宇宙旅行
演奏・・・ハナ肇とクレージィ・キャッツ
この年の10月4日、ソ連が人類史上初の人工衛星「スプートニクス」を打ち上げ「世は宇宙開発時代」、そのブームを反映しての「クレイジー・キャッツの宇宙旅行」でした。売出し中のクレイジーにとって、大きな舞台の一景を任されるのは、大変名誉なことでした。ところが、打ち合わせの席で、演出家の山本紫朗さんから台本を渡された植木さんは驚きました。「クレイジーの宇宙旅行」。クレイジーキャッツ登場、中身7分、爆笑のうちに幕閉じる」とあるだけ。
楽天家のハナ肇さんは「これは谷啓だな」。谷啓さん、満更でもない表情で「うん、宇宙旅行だね。スケッチたって、結局は演奏するわけだから、普段、ジャズ喫茶でやってるようなことでいいんだね」。
作家が台本を書く、なんて発想は毛頭なく、アイデアマン谷啓さんに「クレイジーの宇宙旅行」が舞台の構成を考えることになりました。しかも谷啓さん「毎日やっていると、同じことを2回続けてやると虚しくなる。だから何か変わったことがないかなと」毎日違うことをやろうとしたそうです。
ワンダー・オブ・谷啓
クレイジーキャッツのアイデアマンにして、独特の感性の持ち主・谷啓さんは、誰にも愛されるキャラクターで、子供たちにも人気でした。昭和30年代後半、植木等さんが「スーダラ節」でブレイクし、映画『ニッポン無責任時代』(1962年・古澤憲吾)でクレイジーが本格的に映画に進出すると、谷啓さんの個性を生かした映画やレコードが次々と企画されます。
パワフルな無責任男の植木さんに対して、谷啓さんはホンワカした魅力で女性や子供たちに大人気でした。「ビローン」「ムヒョー」「ガチョーン」と次々と流行語を生み出しました。
ではここで谷啓さんの歌声を聴きましょう。家に帰っきたら、家族から「あんた誰?」と言われたら? という不条理な不安を、のほほんと歌ったコミックソングをお聞きいただきます。作詞・塚田茂さん、作曲・編曲・山本直純さん、唄・谷啓さんで「あんた誰?」をお聞きください。
M5 あんた誰? 谷啓 作詞・塚田茂 作曲・編曲・山本直純
ディキシーランドスタイルの賑やかな演奏と、谷啓のコミカルなヴォーカル。しかも、かなり不条理な状況で、これこそ谷啓の個性である。このシチュエーションは、坪島孝監督により、谷啓主演のシュールなコメディ『奇々怪々俺は誰だ?!』(69年)へと発展していく。
クレイジーキャッツとテレビの黄金時代
クレイジーキャッツ結成ほどなく、テレビ界では民放開局ラッシュでした。
最初はレギュラー番組が少なかったクレイジーですが、次第にお茶の間の人気者となっていきます。
1959(昭和34)年3月 CX「おとなの漫画」
1961(昭和36)年4月 NHK「若い季節」
1961(昭和36)年6月 NTV「シャボン玉ホリデー」
クレイジーキャッツのテレビ出演 日本テレビバラエティ番組
日本テレビ バラエテイ番組
「花椿ショウ 光子の窓」(1958年5月11日〜1960年12月25日)演出・井原高忠
「ミュージック・パラダイス」(1958年)演出・秋元近史
「魅惑の宵」(1959年10月2日〜1960年4月7日)演出・秋元近史
テレビ草創期のバラエティ「光子の窓」は、女優の草笛光子さんをホステスに、音楽とコントによるアメリカ式の音楽バラエティでクレイジーも時折ゲスト出演していました。
演出は、学生時代にウエスタンの「チャック・ワゴンボーイズ」を結成して、クレイジー同様米軍キャンプ周りをしていました。
そのフロアディレクターの秋元近史さんもまた学生バンド出身で、ジャズ喫茶のクレイジーのファンでした。「彼らの面白さを、なんとか活かしたい」と秋元さんが企画した「ミュージック・パラダイス」がクレイジー初のレギュラー番組となりました。
こうして「ミュージック・パラダイス」放送第1回から、「ハナ肇とクレイジーキャッツ」が連続出演することとなりました。最初は普段ジャズ喫茶で受けているネタを、テレビ用にアレンジして織り込みつつ、得意のレパートリーの演奏をしていたのです。
だが3週目までは持ちネタでなんとかなったが、4週目になるとレパートリーは出尽くしてしまった。クレイジーとしては、精一杯力を込めて出演していたが、ディレクターの秋元は納得しません。
「もっと、何かできないの?」
そこで、秋元はクレイジーのネタを考える作家を起用することにした。人気が出てくれば、忙しくなる。しかし同じネタの繰り返しではファンに飽きられてしまう。
しかもステージ向けではなく、クレイジーをテレビで活かすためのコントを番組でやっていこう。
「ミュージック・パラダイス」は好評で、この番組が翌年には「魅惑の宵」(1959年10月2日〜1960年4月7日)となり、やがて秋元にとってもクレイジーにとってもエポックとなる「シャボン玉ホリデー」へと結実することになる。
クレイジーキャッツとテレビの黄金時代・おとなの漫画
フジテレビ開局番組 おとなの漫画
・昭和34(1959)年3月2日スタート。
・その日の朝刊記事をもとにした時事風刺コント番組。
・コミックバンドからコメディ・グループへ。
・昭和39(1964)年12月31日まで5年間、1835回放送。
1959(昭和34)3月1日、フジテレビが開局しました。日本テレビ、ラジオ東京テレビ(T B S)に続く、東京地区では三局目の民放でした。その開局翌日の3月2日、ハナ肇とクレイジーキャッツのレギュラー番組「おとなの漫画」がスタートします。
その日の朝刊にあった記事を元に、構成作家が台本を書いて、クレイジーのメンバーがコントを演じるというもの。コミック・バンドとして培ってきた「笑い」をクローズアップしたものとして、プロデューサーでディレクターの椙山浩一が企画。のちの作曲家・すぎやまこういちさんです。
月曜日から土曜日までの昼、12時50分から5分間(59年秋からは10分に)、毎日生放送だったために、ジャズマンとして音楽演奏をする時間がほとんどない。ところが「おとなの漫画」は、番組スタート時には、バンド演奏もありましたが、次第に彼らの演奏を必要としなくなっていきます。
コミック・バンドのクレイジーは、この番組の開始とともに、コメディ・グループとなっていったのです。
クレイジーのメンバーが、打ち合わせのため、完成間もない新宿区河田町のフジテレビに行くと「これから番組を一緒に作ってくれる」作家陣を紹介されました。永六輔さん、キノトールさん、前田武彦さん、三木鮎郎さんといった面々と顔合わせをした。
いずれもテレビ草創期から活躍し、それぞれ黄金時代を築いていく。いまとなっては錚々たる顔ぶれだが、当時は、クレイジー同様“これから”の逸材ばかりでした。
その中で、ひときわ目立つ若者がいました。犬塚弘さんによれば、進駐軍払い下げのような作業ズボンに、オーバーを着ていて、最初はボーヤかと思ったそうです。その場で、ジャズや音楽についてもウンチクをひとくさり。一体、誰なんだ?と思っていたら、彼こそクレイジーキャッツの運命を握る男・青島幸男さんでした。
「おとなの漫画」は、その日の事件や話題をテーマにした「時事ネタ」で勝負の番組でした。現在の「ザ・ニュース・ペーパー」や松元ヒロさんのように舌鋒鋭い、政治風刺コントも日常的に放映されていました。「時事ネタ」は「タブー」ではなく、庶民の溜飲を下げていました。
テレビ局が増えて、放送作家が多忙を極めてきたこともあり、当初からの作家たちがひとり減り、ふたり減りしていました。そこで青島さんがメイン作家として残り、クレイジーの座付き作家となっていきます。
この「おとなの漫画」エンディングで使われているフレーズをコミック・ソング化した「スーダラ節」のカップリング曲をお聞きください。作詞・青島幸男さん、作・編曲・萩原哲晶さん、ハナ肇とクレイジーキャッツで「こりゃシャクだった」。
M6 こりゃシャクだった 植木等、ハナ肇とクレイジーキャッツ
作詞・青島幸男 作曲・編曲・萩原哲晶 東芝音工・JP-1300・8月20日発売
シャボン玉ホリデー テレビの黄金時代の到来
ザ・ピーナッツとクレイジーキャッツがメインのバラエティ番組を渡辺晋と秋元近史が企画。タイトル「ピーナッツ・ホリディ」は、スポンサーの牛乳石鹸の冠番組「シャボン玉ホリデー」に。
日曜夜6時〜6時30分 昭和36年6月4日〜47年10月1日
M7 シャボン玉ホリディ テーマソング ザ・ピーナッツ
作詞・前田武彦 作曲・編曲・宮川泰
クレージー映画の時代
「シャボン玉ホリデー」スタート2ヶ月後、1961(昭和36)年8月に「スーダラ節」が発売されました。テレビ→レコードとクレイジーキャッツは、結成6年にして大ブレイクしたのです。やがて「スーダラ節」空前のヒットにより、1962(昭和37)年、各映画会社がクレイジーキャッツ出演作を企画。
・大映『スーダラ節 わかっちゃいるけどやめられねぇ』(3月15日)
・松竹『クレージーの花嫁と七人の仲間』(4月15日)
・東宝『ニッポン無責任時代』(7月29日)
M8 ハイ、それまでョ 植木等、クレイジーキャッツ
作詞・青島幸男 作曲・萩原哲晶
東宝映画『ニッポン無責任時代』(1962年・古澤憲吾)より
M9 無責任一代男 植木等、クレイジーキャッツ
作詞・青島幸男 作曲・萩原哲晶
東宝映画『ニッポン無責任時代』(1962年・古澤憲吾)より
クレイジーを継ぐ者たち
*1975年9月、大瀧詠一がラジオ「ゴーゴー・ナイアガラ」で「クレイジーキャッツ特集」を放送
*フォロワーによる再評価ブーム 10年周期でブーム
*1990年代「スーダラ伝説」で植木等が再ブレイク!
*奥田民生、ウルフルズ、星野源などクレイジー・チルドレンたちがリスペクト!
・Niagara Triangle Vol.1 大滝詠一・山下達郎・伊藤銀次
・赤盤だぜ!! ウルフルズ
・STOMPIN’&BOUNCIN’ 吾妻光良 & The Swinging Boppers
1986.08.22 クレイジーキャッツ・デラックス(責任編集・大瀧詠一)
♪イエロー・サブマリン音頭 金沢明子
作詞・作曲:ジョン・レノン、ポール・マッカートニー
日本語訳詞:松本隆 編曲:萩原哲晶 プロデュース:大瀧詠一
ビクター/SV-7270/1982.11.01
♪実年行進曲 ハナ肇、谷啓、植木等、クレイジーキャッツ
作詞・青島幸男 作曲・大瀧詠一 原編曲・萩原哲晶 編曲・大瀧詠一
東芝EMI・TP-18000・3月6日発売
♪FUN×4 植木等
作詞・松本隆 作曲・大瀧詠一 編曲・溝淵新一郎
ファンハウス・FHDF-1499・8月21日
♪CRAZY CRAZY 星野源
星野源さんは、小学生の頃からクレイジーキャッツの大ファンで、音楽活動でもリスペクトしている。シングル曲「Crazy Crazy」(2014年)はクレイジーキャッツをイメージして作ったそうです。プロモーションビデオでも、白いスーツに、リボンタイのクレイジーキャッツのユニフォームを着ています。
その星野源さんが、インストゥルメンタルバンド「SAKE ROCK」のアルバム「songs of instrumental」でカバーした「スーダラ節」をお聞きください。クレイジーキャッツ愛に溢れたアコースティックな傑作です。
M10 スーダラ節 SAKE ROCK
作詞・青島幸男 作曲・萩原哲晶
カクバリズム/KAKU-021/2006.11.08
SAKEROCKの2ndアルバム「songs of instrumental」収録。
聴き逃し配信はこちらから!
第2回のテキストは、こちらです!
クレイジーキャッツの音楽史 第2回 戦後ジャズ・ブームと7人の猫たち
第3回のテキストはこちらです!
クレイジーキャッツの音楽史 第3回 スーダラ節の衝撃
第4回のテキストはこちらです!
クレイジーキャッツの音楽史 第4回 コミックソングと高度経済成長
よろしければ、娯楽映画研究への支援、是非ともよろしくお願いします。これからも娯楽映画の素晴らしさを、皆さんにお伝えしていきたいと思います。