ニッポン怪奇映画の系譜
怪奇映画の世界史
映画の原点は見世物だった。およそ120年前、フランスのリュミエール兄弟を祖とするモーションピクチャーすなわち活動写真は、いわゆる盛り場やカーニバルの見世物小屋の演目の新ジャンルだった。暗がりに座った人々は、スクリーンに映し出される動く人やもの、森羅万象を驚愕のまなざしでみつめた。
19世紀末は、産業革命によるテクノロジーの発展により、急速に近代化が進められた変革の時代でもあったが、それがゆえに人々の心理は不気味な闇を求めた。イギリス、ロンドンでは切り裂きジャックが凶行を重ね、タブロイド新聞がセンセーショナルに被害者の娼婦たちの素性を暴き、エロティシズムとグロテスクが人々の欲望をかき立てていた。
映画が登場した世紀末はエロとグロの時代。フランスでは「グランギニョル」なる怪奇人形劇が流行し、断頭台の首が飛び、鮮血が飛び散るスプラッタ的描写が、見世物としてもてはやされた。欲望と恐怖。それが娯楽として定着していた時代に登場した映画は、やがて物語を紡ぎ出すメディアとして発展。格好の題材となったのが「恐怖=HORROR」だった。ドイツ表現主義の作家F・W・ムルナウが、ブラム・ストーカーの「吸血鬼ドラキュラ」を耽美的な映像で映画化した『吸血鬼ノスフェラトゥ』(1922年・独)や、希代の怪奇役者ロン・チャニーが演じた『ノートルダムのせむし男』(1923年・米)『オペラの怪人』(1925年・米)など、サイレントの時代にすでに恐怖映画は一ジャンルを成していた。恐怖という刺激を求めて、暗がりに身を潜めることが、観客にとって無上の喜びでもあったのだ。
映画の誕生とともにホラーというジャンルが成立し、その歴史を刻み続けて来た。恐怖は人を魅了する。このムックで取り上げられているのはジャパニーズ・ホラー。1937年の『有馬猫』(新興キネマ・木藤茂)から、2004年の最新作まで、およそ70年にわたる日本映画で作られて来た<恐怖><幻想><怪奇>をテーマにした娯楽映画ばかり。『リング』『らせん』にはじまったジャパニーズ・ホラー・ブームは、今やハリウッドやヨーロッパの映画界に少なからぬ影響を与えている。それは、人間が求める<恐怖>の刺激が、普遍的なものであることを証明し、サイレント時代から連綿と作られてきた内外のホラー映画が、国境や時代を越えて影響し合いながら、成熟して来たことも大きい。
恐怖は越境する。エドガー・アラン・ポオが生み出した怪奇譚が、日本の時代劇の題材となったり、ドイツ民話の「ゴーレム」が翻案されて我が『大魔神』として映画化されるような例もある。その折々の映画作家たちは、それぞれの<恐怖映画>体験にこだわり、時にはそうした過去の作品の恐怖を引用し、時には発展させ、同工異曲の作品群を生み出しながら、娯楽映画のジャンルは次第に成熟し、やがて衰退し、さらには勃興してきた。
1990年代、鶴田法男監督ら新しい世代の恐怖映画作家が台頭し、それまで土着色の強い<因縁話>を主題としてきた<怪談映画>以来の伝統である、オーバーラップで表現していた<薄く透明な夢幻の存在である幽霊>という描写を、カット替わりに唐突に存在し、また突然に消えてしまう実体としてショッキングに描いたことは、90年代ホラーという新しい概念を作った。この90年代ホラーから日本映画の恐怖描写が大きく変化した。
その鶴田が敬愛してやまない、山本廸夫監督は、1970年代の低迷する日本映画界で『血を吸う人形』『血を吸う眼』『血を吸う薔薇』の「血を吸うシリーズ」を誕生させた。日本的な土着怪談とは正反対の、洋館を舞台に、吸血鬼がドアを突き破ってくるような直裁的な描写を徹底させた山本監督は、イギリスのハマープロが製作したテレンス・フィッシャー監督の『吸血鬼ドラキュラ』をはじめとする英国怪奇映画に多大な影響を受けている。
1950年代から70年代にかけて連作された、ハマープロの一連の怪奇映画のほとんどが1930年代から40年代に作られた、ハリウッドのユニバーサルスタジオ製作の怪奇映画のリメイクでもある。といっても、ユニバーサルが『魔人ドラキュラ』(1931年・米)『フランケンシュタイン』(1931年・米)『倫敦の人狼』(1935年・米)『ミイラ再生』(1932年・米)といったモンスターをフィーチャーした「怪物映画」とすれば、題材は同じにせよハマー作品は、よりショック演出やエロティシズム趣味を加味させ、さらには残虐性を強くした刺激的でセンセーショナルな作品に仕上がっている。
ハマープロの残虐趣味が、やがてアメリカのハーシェル・ゴードン・ルイス監督による『血の祝祭日』(1963年)へと発展し、いわゆる<ゴア・ムービー=血まみれスプラッタ映画>というジャンルが、B級映画に定着することになる。その<ゴア・ムービー>が日本で爛熟するのがレンタル・ビデオ市場草創期の1980年代。『ギニー・ピッグ』シリーズなどのビデオは、映倫という制約にとらわれず、より刺激的な映像のみをセンセーショナルクロースアップさせ、それがゆえに格好のマスコミ・ネタとなった。余談だが1980年代末の、あの事件の被告の部屋に、山と積まれた大量のビデオテープの中から、このタイトルが出て来たとき、メディアはこぞってこのビデオこそ犯行の動機、ともとれる報道をしていた。同時に、部屋にあった「若奥様のナマ下着」なる雑誌の名前も一人歩きした。これは、19世紀末の「切り裂きジャック」事件でのタブロイド紙の過剰反応とよく似ている。
ともあれ、ことほどさように恐怖映画は越境し、発展し、お互いを補完し合いながら連綿と続いて来ている。ここでは、ジャパニーズ・ホラーの歴史を、その前史も含めて鳥瞰的に看ていくことにしよう。
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