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『大怪獣ガメラ』(1965年11月27日・大映東京・湯浅憲明) 妖怪・特撮映画祭で上映

この夏、妖怪・特撮映画祭で、久々にスクリーン上映される『大怪獣ガメラ』(1965年11月27日・大映東京・湯浅憲明)を、深夜の娯楽映画研究所シアターで上映。

国産70ミリ映画『釈迦』(1961年・三隅研次・大映京都)『秦・始皇帝』(1962年・田中重雄)を成功させてきた自負もあり、永田雅一プロデューサーは東宝の円谷英二監督の特撮映画に負けない、大映オリジナルの特撮映画に力を入れていた。

大映東京でも、ディザスター・スペクタクル『風速七十五米』(1963年・田中重雄)の成功を受けて、『大群獣ネズラ』を企画、特撮のテスト撮影を続けるが、現場の混乱で経費がかさみ、製作は暗礁に。一方、東宝では『モスラ対ゴジラ』(1964年・本多猪四郎)、『宇宙大怪獣ドゴラ』(同)、『三大怪獣地球最大の決戦』(同)と怪獣特撮映画を連打。子供たちにとって怪獣映画はデフォルトになっていた。

そこで、永田ラッパが鳴り響き「空飛び、火を吹く」巨大亀の怪獣映画が企画された。プロデューサー・斉藤米二郎さんは、脚本わ高橋ニ三さんに依頼。怪獣映画のノウハウはなくとも「俺に書けないものはない」と高橋さんは引き受けた。高橋さんはネズミ花火から、「手足を引っ込め回転ジェット」を発想し、伝説の火喰い亀から「炎を好む」スペックを思いつく。

ゴジラが古代生物の生き残りという発想に対して、ガメラは子供のような自由な発想で創造された。空を飛び、火を吐く、その脱リアリティが大成功。大映怪獣映画のセオリーがここに成立した。

仮のタイトルは『火喰い亀 東京襲撃』! 監督には、坂本九さんの歌謡喜劇『幸せなら手をたたこう』(1964年)でデビューした新鋭、湯浅憲明さんが抜擢された。

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湯浅監督は当初、怪獣映画を撮ることに困惑を覚えて、助監督時代に師事していた井上梅次監督に相談。効率至上主義の井上監督は「計算できない映画はない」と効率よく撮影プランを立てることをアドバイス。特撮パート、大映東京の特撮を手がけてきた築地米三郎さんが任されることとなった。二班体制であるが、特撮本篇ともに両監督が立ち合い、手探りのなか、大映初の怪獣映画が作られた。

ガメラの命名者は、永田雅一さん。「あっちがゴジラならこっちはガメラや」の号令一下で決定。

この映画にはさまざまな発想の転換があるが、なんといっても、ガメラと心を通わす少年・内田喜郎さんの存在が大きい。北海道襟裳岬、亀を飼うことを、教師や、灯台守父・北原義郎さんに禁じられた俊夫少年が、亀をそっと放すと、ガメラが現れる。「浦島太郎」じゃないけど、年少観客は、ここでぐっと胸を掴まれる。しかもガメラは俊夫のピンチを救い、掌に載せる。もうこれだけで、ガメラに感情移入出来るのだ。

第三作『大怪獣空中戦 ガメラ対ギャオス』(1967年・湯浅憲明)からこの「子供の味方」のヒーロー性がさらに増して、それが「ガメラ」シリーズ最大の魅力となる。

『ゴジラ』(1954年・本多猪四郎)では、なかなかゴジラが現れなかったが、こちらはアバンタイトル、タイトルバックに北極に出現したガメラが惜しげもなく登場。北海道襟裳岬→羊蹄山の地熱発電所→東京と次々と見せ場が用意されている。

とくに西銀座を襲撃するシーン。ニュートーキョーならぬニュートーヨーのビルを壊すが、ここは東宝のお膝元。ミニチュアの都市破壊も、大スクリーンで観るとなかなか楽しい。なかでも、エレキに夢中のゴーゴークラブの若者たちに、警官が退避を命じるが「俺たちを止められるのは何もないんだ!」と踊り続ける。「バカタレ!」と警官が叫ぶ。次の瞬間!ガメラがビルを破壊する。この頃、まだ東宝特撮には、こうしたアイロニックな描写はなく、なかなか衝撃的な場面となった。

あらゆる火器で攻撃しても、全てエネルギーとして吸収してしまうガメラを、人類はどうするのか? クライマックスのZ計画には、何度観ても、仰天する!

この夏、妖怪・特撮映画祭で上映!


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佐藤利明(娯楽映画研究家・オトナの歌謡曲プロデューサー)の娯楽映画研究所
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