『続・忍びの者』(1963年8月10日・大映京都・山本薩夫)
今宵のカツライス「ライス」は、市川雷蔵のシリーズ第二作、村山知義原作、山本薩夫監督『続・忍びの者』(1963年8月10日・大映京都)を娯楽映画研究所シアターのスクリーンで堪能! この映画が封切られたのは、個人的なことで恐縮だが、ぼくが生まれた日の翌日。つまり製作されて58年もの歳月が経っているのだ。
「天正九年九月、織田信長は、大軍を率いて、伊賀を奇襲した。伊賀忍者の組織は壊滅し、信長の天下制圧の野望は成ったかに見えた。だが果たして忍者そのものを絶滅できたであろうか」とアバンタイトルにスーパーが出る。
前作のラストで、自分を裏切った百地三太夫(伊藤雄之助)を斬って、抜け忍となり、堺の遊女・マキ(藤村志保)との間に息子が生まれて平和な暮らしを始めた石川五右衛門(市川雷蔵)。赤ん坊ができてマイホーム・パパとなった五右衛門の柔和な笑顔。市川雷蔵の優しい微笑みが印象的。しかし、織田信長(城健三朗、のちの若山富三郎)の執拗な忍者狩りにより、息子が殺されてしまう。赤ん坊ができてマイホーム・パパとなった五右衛門の柔和な笑顔。
前作に続いて城健三朗の織田信長、エネルギッシュで狡猾、そして自分の利害しか考えていない身勝手な男として描かれている。その織田信長に、四十歳にして拾われ、その片腕として、わがまま放題を聞いてきたのが、明智光秀(山村聰)。あまりの主君の横暴に、明智家の筆頭家老・斎藤内蔵助(須賀不二男)は懸念し、意見具申をするも光秀は頑として受け付けない。山本薩夫監督は、この光秀を中間管理職の悲哀として描いている。内蔵助を演じた須賀不二男が、いつもの悪役とは一味違う、主君想いの理性派を演じていて、なかなかいい。
信長の次男・織田信雄には、テレビ時代劇「琴姫七変化」(1960年・よみうりテレビ)、「噂の錦四郎」(1963年・同)でお茶の間で人気者となった松本錦四郎。元は日活第三期ニューフェース・穂高渓介として小林旭、二谷英明と同期だったが、昭和33(1958)年に歌舞伎役者を志して、八代目・松本幸四郎(初代・松本白鸚)門下となる。松竹に入社して時代劇映画で活躍、「琴姫七変化」に抜擢された。
愛する幼な子を殺され、復讐の鬼となった五右衛門は、マキの故郷である紀州・雑賀に移り住み、一向一揆の雑賀党に参加し、郷士・鈴木孫一(石黒達也)のもとで、庶民のために、再び忍者となる。歴史上では、鈴木孫一の名は、雑賀衆の頭領が代々継承する名前。この映画の孫一は、石山合戦(1573年)で、雑賀衆を率いて石山本願寺に入り、織田信長勢を苦しめた。
さて雑賀衆に加わった石川五右衛門は、織田信長に復讐を果たすため、徳川家康(永井智雄)の配下の服部半蔵(伊達三郎!)の協力で、明智光秀(山村聰)と織田信長を仲違いさせる。その上で、光秀に横暴な信長を本能寺で討たせるべく、暗躍する。この本能寺のシーンがかなり面白い。五右衛門が本能寺に忍び込んで、火を放ち、信長を追い詰めていく。市川雷蔵と城健三朗の対峙は、シリーズ最高のシーンの一つ。信長の右腕を斬り、左脚を斬り落とす。かなりのバイオレンス描写だが、五右衛門の怒りに観客が共感しているので「これが本能寺の真相だ!」的なカタルシスもある。
こうして家康、信長、光秀、そして羽柴秀吉(東野英治郎)たちの天下統一の野望が生々しく描かれる。まるで政治家や会社内の派閥抗争のようでもある。血気盛んな信長が、光秀の恨みを買って自滅し、家康は全てが潰えていくのをじっと待っている。時代劇ではほとんど見ることがなかった、俳優座のベテラン永井智雄の家康の老獪ぶりがいい。そして、やはり俳優座の東野英治郎が演じる羽柴秀吉の狡猾さ。この映画の翌年、植木等がのちの秀吉、木下藤吉郎を演じた『ホラ吹き太閤記』(1964年・東宝・古澤憲吾)では、蜂須賀小六を演じる東野英治郎だが、ここでの秀吉もなかなか秀逸である。ちなみに、ポスターには天知茂の名前もあるが、本作には未出演。
これらの老練たちに、次々と復讐を果たしていく石川五右衛門。『陸軍中野学校』シリーズに受け継がれる「歴史の局面のキーマンとなる市川雷蔵」のストイックなヒーローは、観ていて惚れ惚れする。藤村志保さんも最高に美しく、さらに坪内ミキ子が、森蘭丸(山本圭)に近づいて、明智光秀と信長の仲違いをさせていく、半蔵の配下の”くの一”タマメを好演。本能寺でのクライマックスを盛り上げる。
さらに、秀吉は雑賀衆を殲滅すべく、石田三成(南條新太郎)を使って、雑賀党を包囲して兵糧攻めに合わせる。信長を倒した五右衛門は、仲間を救うために、根来忍者を連れ帰るも、時すでに遅し。頭領の鈴木孫一はじめ、仲間たちは惨殺され、マキも生命を落としてしまう。史実ではこの「秀吉の雑賀攻め」は天正14(1586)年のこと。
老獪な家康は、石川五右衛門の怒りを利用して、秀吉を討たせようとする。半蔵に「聚楽第」の絵図面を託して、五右衛門に渡す。聚楽第は、関白となった秀吉が「内野(京都市上京区)」に、天正14(1586)年2月に着工、天正15(1594)年9月に完成した邸宅であり、政庁であり、城郭でもあった。そこへ忍びこむ五右衛門。しかし本能寺のようにはうまくいかない。ウグイス貼りの廊下で、敵に囲まれ、囚われの身となってしまう。
京都・鴨川の河原に設られた釜で、釜茹でにされてしまうのか? 河原の石川五右衛門が「石川や 浜の真砂は 尽くるとも 世に盗人の 種は尽くまじ」と時世の句を詠んだのは、文禄3(1594)年8月24日(もしくは12月12日)とされるが、「忍びの者」シリーズの石川五右衛門の運命やいかに? 一番良いところで「完」のスーパーが出る。
ともあれ、市川雷蔵の石川五右衛門が、信長、そして秀吉を倒すために暗躍していく姿。フィクションなのだけど、兎にも角にもカッコいい! 史実とフィクションを絡めての展開は、子供たちにも受けて、空前の忍者ブームの拍車をかけた。ラストの「河原の石川五右衛門」になるまで、息もつかせぬスピーディな作劇。山本薩夫監督の娯楽映画テクニックが堪能できる。歴史の必然に抗いながら、息子の、そして妻の復讐のために、命をかける五右衛門! こういう娯楽映画がフツーに作られていた1963年、いいなあ!
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