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『坊つちゃん』(一九三五年三月一四日・P.C.L.映画製作所・山本嘉次郎)

 夏目漱石の「坊つちゃん」の初めての映画化作品。P.C.L.でエノケン映画を初め、モダンな作風の娯楽作を次々と手がけていた山本嘉次郎がメガホンを執り、脚色は小林勝が手がけた。八二分で、原作の印象的なエピソードを巧みに盛り込んで、漱石のユーモア、江戸っ子気質を、フィルム収めることができた。のちの映画化作品は、おそらく、この初作のシナリオや演出の影響が大きいと思われる。私見ではあるが、漱石文学の読後感と、映画を見終わった感覚が極めて近い。

坊つちゃん 宇留木浩
マドンナ 夏目初子

 P.C.L.では映画化にあたり、鳴物入りでオーディションを実施して、製作前からの話題作りをしていた。そのオーディションに応募したのが、大正時代から、山本嘉次郎の盟友だった宇留木浩(本名・横田豊秋)。撮影助手、撮影技師、助監督、監督、脚本家からP.C.L.のスターとなった。二歳下の妹は、新劇俳優から映画女優となった細川ちか子。横田は大正十(一九二一)年、十七歳で日活向島撮影所に入社して撮影助手となり、大活撮影所を借りて撮影した『真夏の夜の夢』で、俳優としてデビューしたばかりの平田延介(山本嘉次郎)と知り合い、平田が京都の早川プロダクション製作『熱火の十字架』(一九二四年)で監督になってからは、監督助手を務め、その後、脚本も執筆するようになった。

 やがて横田は、二十二歳でマキノ・プロダクション製作『男児一諾』(一九二六年)で山本嘉次郎と共同演出、監督デビューを果たした。当時所属していた、現在の墨田区京島にあった高松豊次郎プロダクションでは、監督と役者の兼任は日常的で、『楠公の唄』(一九二六年)に主演して、俳優デビューを果たした。

 昭和五(一九三〇)年、日活大将軍で宇留木浩名義でシナリオを執筆、やがて撮影所長・池永浩久の命令で、俳優業に専念、山本嘉次郎作品に多数出演。その後日活多摩川撮影所で現代劇俳優として出演。昭和九(一九三四)年、P.C.L.に移籍した山本嘉次郎を追うような形で、新作『坊ちゃん』の主役オーディションを受けたのだ。

 映画のトップ、スタッフクレジットの前に、「最高点当選者」として宇留木と夏目初子の名前がクレジットされ、審査員として作家・菊池寛、医学者・眞鍋嘉一郎、漱石の門下生で作家・森田草平、やはり漱石門人の作家・松岡譲、漱石の妻・夏目鏡子、作家で歌人・岡本かの子、舞台演出家・園池公功、P.C.L.社長・上村泰二の名前がずらり。

 宇留木が主演合格したのは、審査の結果もあるだろうが、多分に、山本嘉次郎の盟友であり、坊ちゃんのイメージにピッタリだったからと思われる。

山嵐 丸山定夫
赤シャツ 森野鍛治哉
うらなり 藤原釜足
校長狸 徳川夢声

 配役も見事。山嵐は丸山定夫、校長の狸は徳川夢声、うらなりは藤原釜足、のだいこは東屋三郎、そしてムーラン・ルージュの森野鍛治哉が赤シャツ。それぞれベストキャスティングである。

 まずファーストシーン。坊つちゃんが松山の学校を辞めて、久しぶりに東京に帰ってくるところから始まる。乳母・おきよ(英百合子)が突然の帰宅にびっくりするも、大喜び。「あったかいものが出来てますよ」と早速もてなす。「P.C.L.映画の母」英百合子が、原作のイメージのまま、きよを演じている。ちなみに、昭和三十三(一九五八)年、番匠義彰による三度目の映画化、南原宏治版『坊っちゃん』(松竹)でも英百合子が、おきよを演じている。番匠のイメージは、おそらく本作だったのだろう。クライマックスなど、この初作の構成をかなり意識している。

 「親譲りの無鉄砲で子供の頃から損ばかりしている」坊つちゃんは、四国の(旧制)中学に数学教師として赴任。連絡船を降りたところで聞いた宿屋に入るも、赴任地から遠く離れていることを知り、慌てて松山へ。そこで老獪な校長の狸(徳川夢声)、鼻持ちならないキザな教頭の赤シャツ(森野鍛治哉)、自称・江戸っ子の美術教師・野だいこ(東屋三郎)、数学主任の山嵐(丸山定夫)、気弱な英語教師・うらなり(藤原釜足)と出会い、密かに前述のあだ名をつける。

 生徒たちは、素直というにはほど遠く、大人の狡さ、悪さをそのまま真似している。坊つちゃんがうどん屋で、東京式の蕎麦と断っている天ぷら蕎麦を四杯頼んだことや、茶店で団子をふた皿食べたこと、温泉で遊泳していたこと、などの行状を生徒に冷やかされ、怒り心頭の坊ちゃん。さらに初めての宿直で、寄宿生たちから寝床に「バッタ」を仕込まれて激怒。

 寄宿生の処分を訴えるも、職員会議で、赤シャツたちの事なかれ主義でうやむやにされた挙句に、坊ちゃんの責任となってしまう。そんな坊つちゃんの最大の理解者は山嵐だったが、赤シャツに吹き込まれた噂がもとで、坊ちゃんは山嵐と仲違い中。

 といったおなじみのエピソードがきっちり描かれている。やがて、赤シャツがうらなりの婚約者・マドンナ(夏目初子)への横恋慕から、うらなりを九州の延岡へ栄転という名の左遷したことを知った坊つちゃんと山嵐は、仲直り。赤シャツと野だいこへ天誅を下すことにするが、山嵐は赤シャツの奸計で、辞職に追い込まれる。

 覚悟を決めた坊つちゃんは、山嵐とともに、藝者・小鈴(竹久千恵子)との決定的瞬間に襲うことを計画するが…

 八二分の長さなので、それぞれのシーンは短いが、原作に馴染んでいる観客には、的確な描写が続く。脇役が素晴らしく、野だいこを演じた東屋三郎が、うらなりの送別会で演じる幇間芸は見事! 東屋三郎は新劇出身、所属していた舞台協会が大正十一(一九二三)年、日活向島撮影所とユニット契約を結んだため、映画に進出。小山内薫が演出したミナトーキー作品『黎明』(一九二七年)からはトーキー専門に。昭和一〇年、本作でP.C.L.へ。続いて『三色旗ビルディング』(七月十二日・木村荘十二)で酔っ払いの牧師を好演するが、公開直前の七月三日、四十三歳の若さで亡くなった。

 また、坊つちゃんの下宿の荻野のお婆さんを演じた伊藤智子も絶妙。築地小劇場から新協劇団などを経て、舞台美術家で後年、映画美術家となる伊藤熹朔と結婚。この年、P.C.L.と契約、本作が初めての出演となった。次作、成瀬巳喜男の『妻よ薔薇のやうに』(八月十五日)で演じた、ヒロイン・千葉早智子の母役で高い評価を得て、戦時中にかけてP.C.L.から東宝映画で活躍することとなる。

 宇留木浩も本作での演技が好評で、この年だけで七本もの作品に出演。翌、昭和十一(一九三六)年八月二十一日公開の『大洋の寵児』(矢倉茂雄)に出演。公開同日、浅草「花月劇場」で舞台版「坊つちゃん」がスタート。二十七日の千秋楽、終演後、妻と浅草六区の天ぷら屋での食事後、狭心症で倒れ、二十八日未明に亡くなってしまう。親友の突然の死に、山本嘉次郎監督はショックを隠しきれず、呆然の日々を過ごしたという。
 

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佐藤利明(娯楽映画研究家・オトナの歌謡曲プロデューサー)の娯楽映画研究所
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