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ザッツ・エンタテインメント! MGMミュージカルを支えた人々 アーサー・フリードとその時代 PART3

佐藤利明(娯楽映画研究家)

*1995年レーザーディスク「ザッツ・エンタテインメント !スペシャル・コレクターズセット」のブックレット解説に加筆修正しました。

チャールズ・ウォルターズとジーン・ケリー

 アーサー・フリードが育てた人材で忘れてはならないのが、チャールズ・ウォルターズだろう。ブロードウェイではスタンリー・ドネンともども、ジーン・ケリーと踊っていた人で、フリード作品では『デュバリエは貴婦人』(1943年)や『ガール・クレイジー』(1943年)の振付も担当している。
 当初はダンサーとして数本の映画に出演していたが、その卓抜したダンス・テクニック、センスが買われて、舞踊場面がさほど得意ではなかったヴィンセント・ミネリ監督のサポートとして、ジュディ・ガーランドのダンス振付をしていた。


   1947年、フリードはこのコーラス・ダンサー出身のコレオグラファーを『グッド・ニューズ』(1947年・未公開)の監督に抜擢する。フリードは、ブロードウェイのヒット・ミュージカルの1930年に続く、二度目のリメイクを、ジュディ・ガーランド&ミッキー・ルーニーの「裏庭ミュージカル」を作るように、気軽にプロデュースした。
 脚色は、これが初参加のべティ・コムデンとアドルフ・グリーン。1944年にレナード・バーンスタインと組んで大ヒットとなったブロードウェイ・ミュージカル「オン・ザ・タウン」の作詞と脚本が、フリードの目に止まって、MGMに招聘された。大きかったのは「作詞ができる脚本家」だったから。
 このコンビにより、いささか古臭いカレッジ・コメディに現代的なテイストが加わり『グッド・ニューズ』は、主演にジューン・アリスンとピーター・ローフォードの若手コンビでクランクイン。チャールズ・ウォルターズの演出は、これがデビュー作とは思えないほど、テンポが良く、ブロードウェイ出身のジョアン・マクラケンとレイ・マクドナルドのアクロバティックな“Pass That Peace Pipe”(TE3),”The Varsity Drag”(TE1)が圧巻でショウ・ストッパーとなり、大ヒットとなった。

   フリードのプロデュース作品『デュバリイは貴婦人』(1943年)に助演したジーン・ケリーは、ジョー・パステルナック製作の慰問映画『万雷の歓呼』(1943年・米)などの主演も務めていたが、ダンスシーンのクオリティの高さはともかく、スターとしてあまりパッとしなかった。本人も、スタジオもその才能を持て余しているようだった。1944年、コロムビアの社長ハリー・コーンの招きでコロムビア・スタジオに貸し出されたケリーは、リタ・ヘイワースとの『カバー・ガール』(1944年)に主演。同行した親友のスタンリー・ドネンとダンス・シークエンスの構成も担当する。


    他社へのゲスト出演ということで、自由な権限も与えられたケリーとドネンは『雨に唄えば』(1952年)などに繋がる映像的実験を試みている。『カバー・ガール』のケリーのダンスは、のちの野心的なMGMミュージカルのプロトタイプとして楽しめる。
 第二次世界大戦も終結し、ケリーはフランク・シナトラと共演したジョー・パステルナック製作の『錨を上げて』(1945年)で、漫画の「トムとジェリー」と踊り、さらなる人気を得てトップスターの仲間入りを果たした。そしてフリード・ユニットの『ジークフェルド・フォーリーズ』(1946年)の“The Babbit And The Bromide”(TE1)でフレッド・アステアと共演するという栄誉を得た。


 続いて、ジーン・ケリーは、ジュディ・ガーランドと共演のヴィンセント・ミネリ監督作品『踊る海賊』(1948年)で好評を博し、引き続きジュディ・ガーランドとのコンビ作品で、アーヴィング・バーリンの楽曲をちりばめた『イースター・パレード』(1948年)への出演が決定するが、自宅でタッチ・フットボールの練習中にケガをしてしまい、出演できなくなってしまう。

メイキング・オブ『イースター・パレード』
 
 MGMミュージカルの代表作『イースター・パレード』完成までには、様々なドラマがあった。話は1946年にさかのぼる。アービング・バーリンは、自分の音楽で構成されたソング・ブック・ミュージカル『世紀の楽団』(1938年)で大当たりをした20世紀フォックスに『イースター・パレード』の企画を持ち込むが、フォックスが検討している間に、MGMのアーサー・フリードが、その企画に興味を持って、バーリンとコンタクトを取った。
 フリードはバーリンとのミーティングを重ね、内容を煮詰め、MGMミュージカル、フリード・ユニットにふさわしい企画にブラッシュアップ。スタジオのボス、ルイス・B・メイヤーにお伺いを立てた。メイヤーは一言「その企画を買え」と答えた。こうして60万ドルでMGMは『イースター・パレード』の映画化権を獲得した。

 1947年になって、ジュディ・ガーランド、ジーン・ケリー、フランク・シナトラ、キャサリン・グレイスン、レッド・スケルトン、とキャストが発表され、フリードはアソシエイト・プロデューサーとして陣頭指揮を執ることに。
 監督は当然ながら『踊る海賊』(1948年)撮影中のヴィンセント・ミネリ。バーリンがほとんどの歌曲を書き終えた1947年9月18日・フリードは、ミネリの監督降板を決定する。ジュディ・ガーランドとの夫婦仲が険悪となり、『踊る海賊』の仕上げで消耗していたからである。
 そこで『グッド・ニューズ』(1947年・未公開)を撮り終えたばかりの、新鋭チャールズ・ウォルターズを抜擢、ケリーとは旧知のウォルターズは前述の通り、『リリイ・マーズご登場』などでジュディ・ガーランドのダンスパートナーでもあり、彼女の振付も担当していたこともあって、監督二作目ながら、最適な人材といえた。
 シナリオは、ケーリー・グラントとシャーリー・テンプルの『独身者と女学生』(1947年)でアカデミー脚本賞を受賞することになる、シドニー・シェルダンによる脚本も既に完成していた。
 当初、予定されていたフランク・シナトラとキャサリン・グレイスンの役は、『グッド・ニューズ』のピーター・ローフォードと、百万ドルの美脚と謳われることになるシド・チャリースに変更されることになった。レッド・スケルトンの役は、シナリオからオミットされていた。
 これでクランクインに漕ぎ着ける筈だったが、エスター・ウイリアムズ主演の南海映画『君とともに島で』(1948年・未公開)の撮影中に、シド・チャリースが脚の靭帯を切って入院。『イースター・パレード』に出演することは、物理的に不可能となった。
 さらに、アクシデントは続いた。ジーン・ケリーがリハーサルを開始した一ヶ月後、1947年10月12日。ケリーが自宅の庭で、タッチ・フットボール(バレーボール、野球、ソフトボールなど諸説あり)の練習をしている途中に、右足をケガしてしまったのである。
 まずは報告をと、パニックに陥っていたケリーが、スタジオのボス、ルイス・B・メイヤーに電話。とっさに「僕の替わりに、ミスター・アステアはどうですか?」と提案してみた。
 フリードとメイヤーは、しばらく悩んだが、ケリーの足が回復するには時間がかかり過ぎることもあって、フレッド・アステアに代役を依頼することにした。
 アステアは、1946年、パラマウントの『ブルー・スカイ』(やはり、バーリンの映画だったが)を最後に、映画界を引退していた。最初は、あまり気乗りがしなかったが、フリードはバーリンとともに、アステアを説得。ようやく快諾を得た。
 さて、シド・チャリースの替わりに抜擢されたのが、やはり映画界を引退していたアン・ミラー。彼女は14歳のとき、18歳と偽ってデビュー後、R K Oやコロムビアのシネ・ミュージカルに出演していたが、作品に恵まれず、結婚引退をしていた。ちなみに、アン・ミラーは1937年にR K Oの『踊る騎士』でアステアと踊るチャンスが巡ってくるが、土壇場でジョーン・フォーンテーンにその座を奪われ、それから11年後に、ようやくアステアと共演する機会を得た。
 紆余曲折があった『イースター・パレード』だが、アーサー・フリードはジュディ・ガーランドの代表作として、アステアの第二期黄金時代の幕開けとして、MGMミュージカルの記念碑として、作品を大成功に導くこととなる。







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佐藤利明(娯楽映画研究家・オトナの歌謡曲プロデューサー)の娯楽映画研究所
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