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柴又の星(スター)〜『男はつらいよ 寅次郎わが道をゆく』(1978年・松竹・山田洋次)

文・佐藤利明(娯楽映画研究家) イラスト・近藤こうじ

2023年8月26日(土)「土曜は寅さん!4Kでらっくす」(BS テレ東)で第21作『男はつらいよ 寅次郎わが道をゆく』放映! 拙著「みんなの寅さん from1969」(アルファベータブックス)から、放映作品を抜粋してご紹介します。(期間限定)

 誰しも子供の頃に「何になりたいのか?」という夢を抱いています。さくらの同級生で、少女の頃から、レビューの踊子を目指して、その夢を叶えている、紅奈々子(木の実ナナ)は、誰もが羨むスターとなっています。

 その奈々子が、さくらに相談事があると、「とらや」にやって来るのですが、例によって寅さんが張り切ってしまい、話もままなりません。ある午後、とらやの茶の間で家族が奈々子を囲む、楽しいひとときの会話も、自然と「子供の頃の夢」の話となります。

 さくらは、奈々子同様「レビューに憧れたり、歌手になりたいと真剣に思ったり」、おいちゃんは「満州で馬賊になるつもり」で、おばちゃんは「日本橋の大きな呉服屋さんのおかみさん」、博は「学者になりたかった」けど「裏の工場の職工留まり」と、皆でどっと笑います。傑作なのはタコ社長。「弁護士になりたかった」と、およそ似つかわしくないことを言います。

「みんなこういうふうに、若かりし頃の夢とはほど遠い現実生活を営んでるわけだ。」寅さんがまとめようとしますが、結局、奈々子と少年時代からテキ屋に憧れていた寅さんだけが、「子供の頃の夢」を実現させている、と大笑いとなります。

 実は、これが第二十一作のテーマでもあります。さくらはレビューに憧れて、学校の成績も良く、誰もが羨む憧れの存在でした。奈々子はそのさくらにコンプレックスを抱きながら、頑張って、SKDのトップとなったのです。一方のさくらは、寅さん曰くの「しがない職工の女房」となりましたが、一粒種の満男と博と、幸せな日々を過ごしています。

 山田監督は、木の実ナナさんをマドンナに迎えるにあたって、高倉健さんの助言を受けたそうです。前年の昭和五十二(一九七七)年に、山田監督は高倉健さんと初めて組み『幸福の黄色ハンカチ』を大ヒットさせ、その演技と演出が高い評価を受けました。一九七七年度の日本アカデミー大賞の席上で、山田監督と高倉健さんが同じテーブルについている時に、ステージのショウ場面に、木の実ナナさんが登場。ナナさんは健さんの映画『大脱獄』(一九七五年・石井輝男監督)で共演した仲でもあります。その席上で山田監督は、レビューガールとしてのナナさんをみて、後日、健さんを通じて、寅さんのマドンナに、という話になっていったそうです。

 あるとき、名古屋の御園座でナナさんが舞台に出演していると、楽屋に健さんから電話があり「近いうちに、山田組から電話があるから、断っちゃ駄目だよ」とのこと。ナナさんはとっさに、健さんの映画の世界のように、ヤクザの「〇〇組の親分」を連想して、内心ドキドキだったそうです。しかし、それは山田監督からの紅奈々子役へのオファーでした。

 このエピソードは、平成二十三(二〇一一)年末に、「みんなの寅さん」でナナさんから伺いました。その頃のナナさんといえば、一九六〇年代のアイドルから脱皮して、一九七〇年代はじめにブロードウェイで本場のエンタテインメントを学んで帰国。劇団四季のミュージカルに出演。PARCO劇場で、細川俊之さんと「ショーガール」シリーズに毎年主演していました。

 ぼくは「寅さん」「日本映画」と同じくらいに、子供の頃から、アメリカのショウビジネス、ミュージカルの大ファンです。それは『男はつらいよ』を上映している、銀座の朝日新聞社の近くにあった丸の内ピカデリーとで『ザッツ・エンタテインメント』(一九七四年)と出会ったことがきっかけです。だから、木の実ナナさんの「ショーガール」シリーズも、やはりエンタテインメントの世界にいた母親と、しばしば観に行ってました。それもあって、この『寅次郎わが道をゆく』には特別な感慨がありました。

 SKDといえば、倍賞千恵子さんと美津子さん姉妹がキャリアのスタートとなったホームグラウンド。ナナさんは、その浅草のほど近く、今は東京スカイツリーで賑わう墨田区寺島町で生まれ育ちました。少女の頃、SKDに真剣にあこがれ、専属の学校を受験しようとしたこともあったそうです。中学を卒業する頃、テレビに出演、渡辺プロダクションの専属タレントというかたちで、ショウビジネスの世界の門を叩くことになります。

 山田監督の作劇が見事なのは、倍賞千恵子さんと木の実ナナさんを同級生役にして「憧れの夢」のその後が展開されていくことです。奈々子は三十代を迎えて、ダンサーとして、レビューのスターとして岐路に立っています。十年付き合った、国際劇場の照明マン・宮田隆(竜雷太)との結婚をとるか、このままステージの世界で生きていくか? それをさくらに相談したかったのです。

 この映画のもう一つの主役は、レビューの殿堂・浅草国際劇場です昭三(一九二八)年に発足の、松竹少女歌劇団の本拠地として昭和十二(一九三七)年に開場され、水の江瀧子さん、オリヱ津坂さんといった男装の麗人が若い女性たちの人気をさらいました。SKDは、戦後、国際劇場で「東京踊り」「夏の踊り」「秋の踊り」の三大レビューを中心に、歌あり、踊りあり、日舞ありと、モダンな宝塚とは対照的に、浅草らしい大衆的なレビューを展開していました。

 この映画が作られた昭和五十三(一九七八年)には、往時の活況は衰えていましたが、ぼくら遅れて来た世代は、浅草でレビューを観るのが楽しみで、しばしば通っていました。

 留吉(武田鉄矢)と、そんなに変わらないレビュー・ファンでした。そういう意味では、この作品には楽屋裏が沢山登場して、老朽化した大劇場への惜別の歌、ともとれます。実際に国際劇場が閉鎖されるのは、昭和五十六(一九八一)年のことです。現在は取り壊されて、浅草ビューホテルとなっています。そうした現在の眼でみると、この作品は感慨深いです。

 ナナさんは撮影のときに、観客でなく、役柄とはいえSKDのスターとしてステージに立つことが本当に嬉しかったそうです。「少女の頃の夢が叶った」と話してくれました。劇中、奈々子は、引退を決意しますが、そこに至るまでのプロセスが実に素晴しいです。これはハリウッドのバックステージものと同じアプローチです。

 劇場の壁や柱を愛おしそうにみつめる奈々子。屋上からの浅草風景。そして本番直前の楽屋の緊張感。そこに、この楽屋でかつて日々を過ごした倍賞千恵子さんがやって来る演出も心憎いです。

 昭和五十三年の「夏の踊り」を最後に、奈々子は引退を決意。「その初日だけは観に行ってやれよ」と寅さんはさくらに言います。初日、さくらは楽屋に奈々子を訪ねます。第十五作『寅次郎相合い傘』で、リリーを立たせてやりたいと、茶の間のアリアで語った国際劇場での奈々子のラストステージが展開されていきます。「男はつらいよ」であることを忘れてしまうほどです。

 そのステージで奈々子が歌う「道」(作詞・作曲・えおりたかし)は、木の実ナナさんがコンサートなどで歌っていた曲です。フランク・シナトラが歌った「マイウェイ」や、アービング・バーリンが作った「ショウほど素敵な商売はない」や、ハワード・デイツとアーサー・シュワルツが作った「ザッツ・エンタテインメント」と同じ、ショウビジネス讃歌です。この歌詞には、木の実ナナさんのエンタティナーとしての葛藤や、芸に生きる人々の哀歓が込められています。 山田監督がこの「道」を気に入って採用したのです。

 寅さんはさくらとの別れ際「あの娘が幸せになりゃそれでいいんだから」と言います。ただ「踊りやめたりしたら後悔するんじゃねえかな、俺だったらそんなことはさせねえ」とポツリと言い残します。やがて「夏の踊り」の初日がやってきます。

 この第二十一作には、今は失われてしまった、浅草の風景がタップリ出てきます。留吉が熊本にも帰らずに働く、とんかつの「河金」は、国際劇場の裏通りにありました。寅さんが浅草でバイをするのは、戦前からの映画とレビューの殿堂だった「東京倶楽部」「常盤座」が連なる建物です。芋虫のようなかたちの屋根が印象的ですが、この建物を設計したのが成松設計事務所、五千人収容の「浅草国際劇場」を手掛けた建築事務所です。

 こうした昭和モダンの名残りが、画面に記録されています。平成三(一九九一)年、この「常盤座」が取り壊され、閉館されることになったとき、渥美清さんがステージに立ちました。その時の模様はNHKスペシャル「さよなら常盤座 浅草芸能グラフィティー」としてオンエアされました。ナレーションは、その頃「男はつらいよ」以外の仕事をほとんど断っていた渥美清さんが担当されました。

 浅草でコメディアンのキャリアをスタートさせた渥美清さん、SKDのステージで活躍した倍賞千恵子さん、そのSKDに憧れた木の実ナナさん、それぞれの想い出の地で展開される第二十一作は、ぼくにとっても特別な作品です。

この続きは「みんなの寅さん from1969」(アルファベータブックス)でお楽しみください。



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