『その壁を砕け』(1959年・日活・中平康) デジタルライナーノーツ
デジタルライナーノーツ 佐藤利明(娯楽映画研究家)
【冤罪の恐怖】
日活映画黄金時代、抜群の映画センスで、娯楽作品の快作を連打していたアルチザン、中平康監督。石原裕次郎の主演デビュー作『狂った果実』(1956年7月12日)で颯爽と登場。一躍、気鋭の監督として注目を集めた。しかし、アルフレッド・ヒッチコック監督に傾倒し、無類のミステリー好きだった中平のデビュー作は、助監督待遇のまま撮った『狙われた男』(1956年9月11日)だった。
ヒッチコックの『裏窓』(1954年)にインスパイアされて、銀座の路地裏のセットを組み、そこで美容院のマダムが殺されるという事件が発生。その路地裏に住む、さまざまな人たちのドラマを絡めながら事件の真相に迫っていくというもの。脚本は新藤兼人のオリジナル。中平のアイデアを新藤兼人がまとめ、日本映画離れしたミステリーの佳作となった。
新藤兼人とは、その後も『殺したのは誰だ』(1957年)や三島由紀夫原作『美徳のよろめき』(1957年)、京都を舞台にしたコメディの傑作『才女気質』(1959年)でコンビを組んできた。この時期、中平康と最も相性の良かったのが新藤兼人の脚本だった。
この『その壁を砕け』(1959年6月23日)は、アルフレッド・ヒッチコック監督の『間違えられた男』(1956年)同様、「冤罪」をテーマにしたサスペンス。正木ひろし弁護士が手がけた昭和30(1955)年の冤罪事件「丸正事件」に材をとった新藤兼人脚本には「冤罪の恐怖」がさまざまな角度からアプローチしている。
警察と検察が功を急ぐあまり、決定的な状況証拠のないまま、曖昧な目撃証言で、無実の人を犯人にしてしまう「冤罪事件」は後を経たなかった。戦後でも、この映画の3ヶ月前に無罪判決となった「松川事件」、正木ひろし弁護士が担当した「八海(やかい)事件」が新聞を賑わせ、長期の裁判でその冤罪が明らかになった事件は多かった。
中平康は本作の演出にあたり、冤罪の犠牲となった主人公とその恋人が「虚偽の分厚い壁に挑戦して真実を究明してゆく情熱を描くものです」と日活宣伝部のプレスシートで述べている。「真実を追求するためには正義感だけでは足らず、非常なエネルギーを必要とするということをこの作品で訴えたい」と続けている。
この作品の前作『才女気質』のような、さまざまな人の立場と、思惑が交錯する群像劇でもあり、『殺したのは誰だ』のような、追い詰められ人間の真理ドラマでもある。「此の作品は社会劇でもあり、人間劇でもあり複雑なもので、私としても一切の技巧を捨てて体当たりでぶつかるものです」。ミステリーでありながら、愛するということ、信じるということの人間ドラマでもあり、一度犯人にしたものをおいそれと無罪にはできない、という警察組織のメンツが全てを滞らせていく組織のドラマでもある。
自動車修理工の渡辺三郎(小高雄二)は、三年間ひたすら働いて貯金をしてきた。新潟で看護師をしている許婚者・道田とし江(芦川いづみ)との新生活を夢見て。酒もタバコもやめて苦労した甲斐あって、念願のワゴンを購入。新潟で独立、結婚する予定だった。とし江も、惜しまれつつ病院を辞め、三郎との新世帯に胸を膨らませていた。
東京から新潟に向けて、三郎のワゴンは夜を徹して走る。冒頭、若いカップルがそれぞれ夢と希望いっぱいに、お互い会うのを心待ちにしているシーン。観ているこちらもウキウキしてくる。
真面目一筋の三郎の人柄の良さ。昭和33(1958)年、大作『陽のあたる坂道』(田坂具隆)で、石原裕次郎の兄役で、日活のスクリーンに初登場した小高雄二は、『四季の愛欲』(1958年)で中平作品に初出演。それ以来となるが、デビュー一年で、本作がすでに15本目となる。日活映画の顔の一人になっていた。
そして日活を代表するトップ女優の芦川いづみは、『誘惑』(1957年)のヒロイン役で中平康とコンビを組み、石原裕次郎の航空アクション『紅の翼』(1958年)に続いての中平作品となる。冒頭の、三郎がワゴン車を飛ばして、自分の元に走ってくる。幸せの絶頂の時のキラキラした表情! その可憐さ、ひたむきさ!
三郎の車が、これから新潟へ一本道。約束の翌朝10時までには、十分間に合うという時に運命の歯車が大きく狂ってしまう。夜11時40分、三国峠を下り、鉢本村に差し掛かった時に、手を振って車を止めた男を便乗させる。幸福感に包まれた三郎は、その男にも、恋人と結婚することを話してしまう。
その男を降ろした直後、警官に呼び止められ、三郎は逮捕されてしまう。近くで起きた郵便局一家惨殺事件の容疑者として・・・
犯行時刻は12時頃、郵便局一家の座敷に侵入した犯人は、寝ていた局長・谷川徳三と妻・民子(岸輝子)を鉈(ナタ)で殴打。徳三は即死、民子は一命を取り留めるが、犯人は金庫を壊して十五万円を奪って逃走。アリバイを証明する手立てもなく、状況は全て三郎にとって不利なものだった。
ここでもう一人の主要人物が登場する。土地の交番の森山竜夫巡査(長門裕之)。血気盛んな森山巡査は、田舎の警官で終わりたくないと新潟署の刑事を目指している。上昇志向の塊のような男。事件発生の時も大張り切りで、敏速に手配し、目撃者に三郎の面通しをするように進言するなど、八面六臂の大活躍を見せる。悪い男ではないのだが、森山巡査が勲功を急ぐあまりに、事態はややこしくなっていく。
幸せの絶頂からどん底へ。三郎の無実を信じるとし江は裁判が行われる長岡に引っ越して、住み込みで働き、弁護士費用を捻出する。とし江が依頼したのは、多くの冤罪事件を解決してきた敏腕の鮫島弁護士(芦田伸介)。とし江が鮫島に弁護を依頼するシーンの、芦川いづみと芦田伸介の芝居が実にいい。正木ひろし弁護士をモデルにした鮫島弁護士は、本作の「正義」の軸でもある。
ここから映画は法廷劇となっていく。初動の活躍により森山巡査は、晴れて本署勤務となる。しかし、状況証拠が不十分で、関係者の証言も曖昧。それが気になり、自ら再調査をはじめて、やがて事件の真相に迫っていく。
新藤兼人の脚本は、圧倒的な筆致で、冤罪となった若者と、その恋人の悲劇。事件をめぐる複雑な人間関係を描いていく。キャメラは名手・姫田真佐久。モノクロで捉えた惨殺現場のショッキングな状況。拘留されている三郎の苦悩。そして、心が折れそうになりながらも懸命に三郎を信じているとし江。それぞれの表情と想いが、観客の感情に訴えてくる。
清水将夫が演じる相生署署長も、捜査の内容もさることながら、とし江が三郎の面会した時の二人の真剣な眼差しを直感で信じる。一方、エリートの刑事部長・西村晃は、容疑者やその恋人の感情などは一切関係ない。犯人は三郎だと決めつけている。「冤罪」を生む、警察組織の温床が垣間見える。
裁判がすすむに連れ、被害者家族の長男の嫁・咲子(渡辺美佐子)の隠されたドラマが浮き彫りになっていく。西村晃の刑事部長が、決め手とするのが、被害者の妻・民子(岸輝子)の証言なのだが、岸輝子の曖昧な演技が実にリアル。彼女は黒澤明監督の『野良犬』(1949年)で、スリのお銀を好演した俳優座のベテラン女優である。
新劇俳優を中心としたキャストも現在の目で見ると豪華。長岡地方裁判所の裁判長・信欣三、主任検事・鈴木瑞穂、裁判官・大滝秀治、相生署の刑事・下條正巳、下元勉、三郎に中古車を売る男・佐野浅夫、そして神山繁が重要な役を演じている。チラリと登場する梅野泰靖のチャラチャラした感じもいい。
塀の中と法廷の往復で、自由を奪われた三郎と、裁判中心の生活を送っているとし江。この二人に対比するように、真実を求めて新潟県内を動き回って再捜査する森山刑事。三人の主人公の「静と動」を、中平演出は巧みに描いていく。
本作に続いて中平康は、不倫の人妻・桂木洋子と学生・伊藤孝雄が密会中に殺人事件を目撃するが真実を話すことができない、心理サスペンスの佳作『密会』(1959年11月11日)の脚本と演出を手がける。
作品クレジット web京都電影電視公司「華麗なる日活映画の世界」