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私説・アイドル映画論〜山口百恵映画への遥かなる道


                                  浦山珠夫

♪あ〜なたが のぞむなら ワタシなにを されてもいいわ〜

 当時、小学生だった浦山少年は、山口百恵の放つ不思議なフェロモンにクラクラしていた。表向きは桜田淳子ファンで、実際ファンクラブにも入っていたが、第二次性徴に入った浦山少年にとって、本当のところ百恵ちゃんは特別な存在。

 『伊豆の踊り子』が公開されたのは、1974年11才のとき。盆暮れには、日比谷にあった東宝直営の千代田劇場にいつも出かけて百恵映画を見ていた。けど、熱狂的なファンというわけでもなく、性的興味の対象というのでもない。

 うまく説明できないが、そのフェロモンにはクラクラしつつ、なんというか、適度な距離感を持って、見つめているという感じだった。それは今でも同じ。「好き?」と言われれば、そうとも言えるけど。同時に「別に」とも答えてしまうというか・・・

 山口百恵。1973年のホリプロ総出演の松竹映画『としごろ』(4月、市村泰一)でスクリーンに初登場。1974年12月の『伊豆の踊子』から1980年の引退記念映画『古都』(12月、市川崑)まで6年間に16本の映画に主演。人気女性歌手がこれだけの作品、しかも文芸映画ばかりに出演したケースは、美空ひばりをのぞいて他にない。ひばりの場合は映画全盛時代ということもあるが、百恵の場合は映画に斜陽に歯止めが利かなくなって久しい時代。大映は倒産し、日活はロマンポルノ路線に変更し、東宝は大作路線を邁進していた。大雑把にいえばこの時代、プログラムピクチャーといえば、一に東映やくざ映画、二に松竹の寅さん、といずれもアウトローが主流。その中で、日本テレビの「スター誕生」をきっかけにデビューを果たした山口百恵主演の映画は、ひときわ光彩を放っていた。同工異曲のアイドルは多かれど、これほど映画に主演しつづけたのは、山口百恵だけ。

 しかも『伊豆の踊子』『潮騒』(1975年)『絶唱』(75年・いずれも西河克巳)と、何度もリメイクされてきた文芸作品が主流。メイン監督は、日活で吉永小百合映画を連打してきた西河克巳。小百合版の『伊豆の踊り子』の監督である西河に白羽の矢を立てたのは、製作のホリプロサイドに、百恵をかつての吉永小百合のような映画女優に育てたいという意向があったからだろう。

 でも、それはアイドル映画として正しい選択だったのかもしれない。アイドル映画の定義は難しいが、菊池桃子の『アイドルを探せ』(1987年)もアイドル映画だし、園まりの『夢は夜ひらく』(1967年)は歌謡映画だろう。前者はタレントのパーソナリティで成立し、後者はヒット曲をフィーチャーしたかたち。

 さてアイドルという言葉は、いつごろからが使われたのだろうか? 実は意外と新しい。昭和38年にフレンチポップスのシルビー・バルタンが映画と歌でヒットさせた「アイドルを探せ」がその語源と言われている。だから吉永小百合を元祖アイドルとするのは少し無理がある。

 でも、バルタン星人の語源とも言われる(諸説あり)シルビーがアイドルの元祖というわけではなくて、当時はカヴァーポップス全盛時代。コニー・フランシスが日本語で唄った「可愛いベビー」のカヴァーでデビューした中尾ミエや、伊東ゆかり、園まりといった(主に)渡辺プロの若手タレントたちのレパートリーが、カヴァーポップスだったわけ。

 なぜかと言うと、渡辺プロ草創期のヒット番組「ザ・ヒットパレード」や、専属タレントのザ・ピーナッツたちもカヴァー曲を唄っていたから。なんでカヴァーなのかというと、渡辺プロを創業したのは、戦後の進駐軍キャンプ回りをしていたジャズマンだった渡辺晋。昭和30年に発足した当時は、ジャズブームも下火になりつつあって、カントリー系の歌手たちがジャズ喫茶で活躍していた。そこに1957年の「ロック・アランド・ザ・クロック」ショックとプレスリーショックがあって、時代は一気にロカビリーブームとなる。

 余談だが、ビル・ヘイリーと彼のコメッツの「ロック・アランド〜」をいち早くカヴァーしたのは、なんと江利チエミ。『大暴れチャチャ娘』という映画で、エノケンを前に唄っている。これが、ほとんど「テネシーワルツ」と同じ感覚で扱われているというのが、日本映画を象徴していてイイですね。

 もともとカントリーの人が、新しいレパートリーとして取り入れたロックなんだけど、渡辺プロは昭和33年「日劇ウエスタンカーニバル」で大当たりをとって、翌年に開局間もないフジテレビで、海外ポップスのチャートを自社タレントが唄うという「ザ・ヒットパレード」を制作。有名な曲を、無名な新人に唄わせることで、新人をたちまち有名人にしてしまう、という戦略が見事にあたって、ザ・ピーナッツや、ミエ・まり・ゆかりの三人娘たちが、どんどんカヴァーポップスを流行させた。

 同時に、それらのタレントを、斜陽とは云われていたけど、まだまだ黄金時代だった映画界に送り込んだのが渡辺プロのすごいところ。だから、ザ・ピーナッツは東宝映画に、歌を唄うためだけに出てきたり、『モスラ』(1961年)の小美人として登場。これは人気があったからというだけでなく、もっと人気をという、プロダクション側の意向と、怪獣映画に人気タレントを出すという映画会社側の利害が一致して成功したケース。

 昭和30年代後半になってくると、映画会社も自前のスターだけでは持たなくなってきて、テレビに出演している流行歌手(!)をどんどん映画に招くようになってくる。

 そして、渡辺プロが本格的に映画進出を果たせたのが、クレイジーキャッツの『ニッポン無責任時代』(1962年)となる。クレイジーは、渡辺プロのトップグループ。植木等のヒット曲「スーダラ節」をフィーチャーして作った映画のおかげで、またまたクレイジーソングがヒット。ウハウハの東宝と渡辺プロは、本格的に手を組んで映画製作を開始。東宝のノウハウと渡辺プロのタレントの組み合わせは強力で、クレイジー映画には中尾ミエ、園まり、ザ・ピーナッツたちがゲスト出演し、華を添えていた。

 さて長くなってしまったが、そこでようやく「アイドル」という言葉が登場するわけである。テレビで人気が出て、レコードも売れて、さらに映画に出る。映画に出ることによってテレビやレコードもさらに・・・という相乗効果が昭和30年代後半という時代には有効だったのである。「流行歌手」という言葉は古くさい、「スター」という言葉は映画界のもの、もっと身近に感じる言葉はないだろうか? そういう気分のなかで、つけられたのが「アイドル」という言葉。最初に使ったのが芸能記者だとか。

 「アイドル」はもともと「偶像」という意味だが、昭和38年という時代には「アイドル(を探せ)」というニュアンスで使われている。この(を探せ)という感覚には、それまでの手が届かない「映画スター」、ヒット曲でリッチな生活をしている「流行歌手」とも違う、身近にいる「フツーの子」を、見つけだすというイメージがある。百恵が出た「スター誕生」も、視聴者が「フツーの子」を発見して、彼女がアイドルになる過程をライブ感覚で見守る、という図式だった。

 そのあたり、渡辺プロの戦略は実に巧妙だった。クレイジーの番組でコントもこなしたり、キャラクターを全面に押し出したり、およそ今のモーニング娘、AKB48まで連なるアイドルのイメージは、この時代に完成されたものなのである。

 美空ひばり、雪村いづみ、江利チエミの「三人娘」を元祖アイドルと呼ぶことがあるが、あくまでも「祖」ということで、アイドルという呼称は中尾ミエの時代に始まったことは間違いない。

 昭和37~39年にかけて、とにかく渡辺プロの「アイドル映画」が量産されている。『キングコング対ゴジラ』と併映の『私と私』(1962年8月、杉江敏男)は、あくまでもフィクションとしてのザ・ピーナッツの誕生物語。

 さらに渡辺プロをモデルにした良いプロダクションが、悪徳プロの横暴から中尾ミエを守るというプロットの『夢で逢いましょ』(1962年9月、佐伯幸三)は、田舎育ちのミエちゃんがデビューするまでのいきさつをフィクションで展開。池内淳子扮するロカビリーマダム(モデルはもちろん渡辺美佐副社長)が、ザ・ピーナッツや梓みちよ、木の実ナナを自宅に住わせて、レッスンや仕事だけでなく、学校の勉強もおろそかにさせない、というシーンがある。当時の無邪気な観客は、映画と現実の区別がつかずに、ミエちゃんやザ・ピーナッツのエミちゃんやユミちゃんに親しみを覚えたことだろう。

 まずは、タレントそのものの私生活をフィクションとして描く。そこで、彼女たちを知らない大人の世代にも、キャラクターを強く印象づけ、さらに知名度を上げてゆく。これはしたたかな戦略だろう。

 そして、翌年、テレビの「森永スパークショー」で人気爆発したミエ、ゆかり、まりの「スパーク三人娘」をフィーチャーした『ハイハイ3人娘』(1963年1月、佐伯幸三)が作られる。この映画で初めて、中尾ミエは自身じゃなくて、フツーの女子高生を演じている。この映画は明らかに、ひばり・チエミ・いづみの「三人娘映画」を意識したもの。

 この映画の登場によって、それまでの「三人娘」は「初代」として殿堂入り。ここでようやく、彼女たち「スパーク三人娘」は本物のアイドルになったのである。そして続く『若い仲間たち うちら祇園の舞妓はん』(1963年6月、佐伯幸三)は、ザ・ピーナッツと三人娘のダブル主役。プロデューサーには渡辺美佐が抜てきされた。この頃、渡辺晋もクレイジー映画のプロデューサーに迎えられている。プロダクションの社長夫妻を外部プロデューサーにするというのは、東宝が渡辺プロのタレントを確保したいという戦略でもあった。

 このパターンは後の山口百恵映画のホリプロ提携、たのきん映画のジャニーズ提携へと発展していくことになる。

 とはいっても、東宝は映画会社。原節子、司葉子、星由里子など清楚な美人スターを排出してきた伝統がある。渡辺プロアイドル映画が落ち着きを見せはじめた昭和40年代、東宝に自前のアイドルが二人誕生する。内藤洋子と酒井和歌子である。

 内藤洋子は、黒澤明の『赤ひげ』(1965年)で抜てきされた新人。デビュー三作目で主演した『あこがれ』(1966年・恩地日出夫)は、木下プロ設立を巡って松竹を出た、巨匠・木下恵介のテレビドラマを、秘蔵っ子の新人脚本家・山田太一が脚色した、東宝らしくない青春映画。飲んだくれの父親に振り回されている、施設出身の内藤洋子と、金持ちの養子となった同じ施設出身の田村亮が、偏見や貧しさを乗り越えて頑張る。と、プロットを書いただけでも東宝らしさのかけらもない、松竹的でウエットなメロドラマなのだが、内藤の持つ清楚な育ちの良さが幸いして、後口の良い青春ドラマになっている。

 前作『女体』(1963年)で東宝撮影所で本物の牛を解体するシーンを撮って、ホサれていた恩地監督だったが、木下惠介監督の声がけで復帰、この映画で高い評価を得て、内藤洋子主演映画を引き続き撮ることになる。

 それが『伊豆の踊り子』(1966年)だった。これまで、田中絹代(松竹)、美空ひばり(松竹)、鰐淵晴子(松竹)、そして吉永小百合(日活)とたびたび映画化されてきた、若手女優の登竜門みたいな作品。本来、東宝はあまり文豪の原作には手を出さない会社で、文芸映画といっても成瀬巳喜男や豊田四郎といった監督の作家性を重視してきた会社でもある。

 谷口千吉の『潮騒』(1954年、主演:久保明、青山京子)だって、三島由紀夫が「木下恵介が松竹で撮ったらどんな風になるかわかるが、谷口ならどうなるんだろう?」という理由で、谷口に原作を譲ったという。すると、クライマックスのスペクタクルのシーンがダイナミックな男性アクションと化し、特別出演の三船敏郎の船長のキャラクターが最大限に活かされて、原作の描写をビジュアルで軽々と超えてしまう。そこが東宝の良いところ。

 黒澤門下の森谷司郎による1971年のリメイクでは、朝比奈逸人と小野里みどり、という無名の新人をキャスティングして、ドキュメンタリー・タッチの『潮騒』にしている。ただじゃ転ばない、のである。

 さて、内藤版『伊豆の踊り子』だが、彼女のキュートなキャラを最大限に押し出しつつ、しっかりと「苦界に身を落とした哀れな女の末路」を描いている。

 この重たいテーマと、アイドル映画らしいさわやかさの同居。作家性とアイドルの魅力の蜜月が、この時期の東宝青春映画にはあった。

 内藤版『伊豆の踊り子』のラスト、男に捨てられ、東京に売り飛ばされる哀れな少女を演じていたのが酒井和歌子。彼女もまた、恩地監督の『めぐりあい』(1968年)で黒沢年男を相手にフレッシュな魅力をふりまき、たちまち東宝アイドルとなった。ワコちゃんといえば、若大将シリーズの二代目マドンナというイメージが強いが、東宝青春映画のセオリーどおり、その清純さを際立たせるために、各監督が切磋琢磨をしてクオリティの高い作品を残している。

 特に出目昌伸のデビュー作である『俺たちの荒野』は、沖縄から集団就職で出てきた黒沢年男と東山敬司の若者二人が、米軍基地で働いている。精神的ホモセクシャルな二人の前に、米兵のオンリーをしながらたくましく生きてきた姉の美容院を手伝うヒロイン酒井和歌子が現れ、男たちの友情がゆらぐ。

 重く切ない青春映画の傑作で、ワコちゃんの清純な魅力と基地問題、そしてあからさまではないがホモセクシャルという裏テーマの共存。この時代、恩地日出夫、森谷司郎、出目昌伸たちが作っていた内藤洋子、酒井和歌子の東宝青春映画のレベルの高さは、もう少し評価されてもいいのでは? 

 作家性とアイドルの蜜月だった東宝青春映画は、栗田ひろみ(!)をフィーチャーした1973年の『放課後』(森谷司郎)で、その役割を終える。森谷司郎は、次作『日本沈没』で東宝大作路線に飲み込まれて行くことになる。

 その間に、クレイジー映画を中心とする渡辺プロ映画も、映画の斜陽と共に、1970年代初頭には終焉の時代を迎える。ブラウン管をにぎわすアイドルも、渡辺プロ一色だった時代から、日本テレビの「スター誕生」出身のアイドルが主流となってきたのだ。この「スター誕生」には渡辺プロは参加していていない。そのいきさつは、井原高忠氏の「元祖テレビ屋大奮戦」(文藝春秋)に詳しい。「スター誕生」は、渡辺プロ中心の芸能地図を一気に塗り替えた番組ということでも、アイドル史にとっても重要な番組。

 そこから誕生した山口百恵、桜田淳子、森昌子は「花の中3トリオ」と呼ばれ、70年代を席巻したのはご存じの通り。この三人が主演した『花の高2トリオ 初恋時代』(75年大森健次郎)は、渡辺プロ三人娘の『ハイハイ三人娘』同様、ひばり・チエミ・いづみの『ジャンケン娘』の系譜に連なる映画になっている。その他愛のなさも含めて。

 ホリプロ=東宝による山口百恵映画は、かつて隆盛を誇った渡辺プロ=東宝のアイドル映画の作り方を踏襲しつつ、日活の吉永小百合映画の再生を目指したものだろう。

 山口百恵はテレビでスカートをヒラヒラさせているただのカワイ子ちゃんじゃない、映画女優でもあるんだ、というイメージの確立。それが百恵映画のコンセプトであり、プロデュースする側のスタンスだった、と思う。今、どの作品を見直しても、どれもアベレージをキープしている。傑作はない変わりに、いずれも原作の味を中学生や小学生の観客に分かりやすく咀嚼して、映画にしている。かつて、吉永小百合、青山京子、浅丘ルリ子が演じたヒロインを百恵ちゃんが一生懸命演じている。突出していないけど、クオリティが高い。しかしホリプロとして、山口百恵=映画女優という特別な位置づけをさせる戦略は見事に成功。だから今でも、映画としてどれがどうということはなく「山口百恵映画大全集」という括りで落ち着いている。

 それが、浦山少年が感じた百恵映画への距離感なのかもしれない。嫌いじゃないけど。それは、それでイイんだけど、もしも恩地日出夫が百恵版『伊豆の踊り子』を撮っていたら? 森谷司郎が『放課後』に続いて、百恵映画を撮っていたら? という夢想も湧いてくる。

 私の百恵映画のベスト? やっぱり轟天号見たさに飛び込んだ、77年末の『惑星大戦争』(福田純)の同時上映作『霧の旗』(西河克巳)でしょう。老獪な三國連太郎を手玉にとるクラブのホステス! なんて、絶対アイドルにはやらせないでしょう。でも、この百恵のイメージは「ひと夏の経験」などのヒット曲で培ってきた、アダルトなフェロモンの延長にある。オヤジの夢であり童貞少年の夢でもある。お客さんのタバコに火をつけるぎこちない仕草は、オリジナルの倍賞千恵子のしたたかさよりも、『惑星大戦争』の浅野ゆう子の健康的なお色気よりも、数段エロチックでした。

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佐藤利明(娯楽映画研究家・オトナの歌謡曲プロデューサー)の娯楽映画研究所
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