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『口笛が流れる港町』(1960年・齋藤武市)

 昭和35(1960)年。小林旭は十三本もの映画に主演している。前年秋に封切られた『ギターを持った渡り鳥』の成功は、日活アクションが掘り当てた金の鉱脈であり、マイトガイと呼ばれた小林旭のスクリーン・イメージを決定づけた。監督の齋藤武市は、『南国土佐を後にして』(59年8月2日公開)『ギターを持った渡り鳥』(10月11日)『波止場の無法者』(11月15日)と、立て続けにマイトガイの活劇を演出。アクションに叙情、そして小林旭の唄を巧みに織り交ぜ、新たなヒーロー映画の境地を拓いた。


 ギターのバタ臭さと渡り鳥の持つアナクロニズム。西部劇と股旅ものを融合させたアイデアをまとめたのが『夜霧の第二国道』(58年)『女を忘れろ』(59年)でマイトガイの虚構性とヒロイズムを創造した山崎巌。「渡り鳥」というと企画者・児井英生や原作者(とされる)原健三郎がクロースアップされることが多いが、脚本家・山崎巌の存在も大きい。本作はもともと単独作品として企画されたものだが、ファンや興行側の要望もあって急遽「渡り鳥」シリーズ第二作として作られた。シナリオの松浦健郎は『東京の暴れん坊』(60年)などを手掛けるベテランで山崎巌の師匠筋にあたる。


 さて「和製西部劇」「無国籍活劇」といささかの揶揄を込めて評されることの多かった「渡り鳥」シリーズだが、本作のオープニングではまさに西部劇的なビジュアルが展開される。迷い馬に乗って荒涼たる風景の中を行く小林旭。岩の上で不敵な笑みを浮かべている宍戸錠。二人が交わす言葉には不思議な連帯感がある。好敵手同士の出会い。そして奇妙な友情の芽生え。


 『ギターを持った渡り鳥』では、現代活劇らしいスタイルの二人だが、今回は完全に西部の男スタイル。『ヴェラクルス?』(54年)のバート・ランカスターのような黒づくめは宍戸錠のアイデア。タイトルバックが終わり、迷い馬が鉱山にたどり着く。そこに厄介になる渡り鳥・滝伸次は、ギター片手に唄う。


 今回は宮崎県・宮崎市と青島で撮影されている。齋藤武市監督によれば、「渡り鳥」のロケ地を選定する基準として、人口10万人程度の地方都市とその周辺部を選んだという。風光明媚な自然と近くの町。町では渡り鳥が生業であるギターの流しをしなければならないから。本作も町のキャバレー「マラッカ」で、滝伸次が唄っている。そのキャバレーは地元のボスが経営をして、その裏では秘密カジノがある。木浦佑三の鉱山の若旦那は、そこのマダム渡辺美佐子にご執心。若旦那が博打で作った借金がふくれあがり、鉱山の権利が狙われている。それがボス・山内明の付け目でもある。さて、そのカジノで披露される旭と錠のダイス合戦は前半のみものである。


 暗黒街の陰謀がすすむなか、可憐なヒロイン浅丘ルリ子が登場する。こうしてシリーズ映画の定石が気持ちよく配され、おなじみの登場人物たちによるルーティーンの楽しさが画面から溢れ出す。


 「渡り鳥」シリーズの魅力を支えたのが、風光明媚なロケーションと、滝伸次がギターを弾く哀愁の場面に代表される叙情性。小杉太一郎の悠々たる音楽。浅丘ルリ子のヒロインと滝伸次の会話。二人のツーショット場面に漂う親密感。滝伸次がふともらす放浪者の孤独。「人はなんで聞くんだろうな。あなたのお国はどこ? どうしてここへ来たの? 渡り鳥に故郷なんてあるかよ」。ギターをつま弾く滝伸次。それが荒唐無稽な活劇のスパイスとなって情感を漂わせる。


 クライマックス。錠と旭がともに敵に監禁され、これじゃ助けにくるものがいないと錠がクサるおかしさ。ライバル同士の対決のベクトルが巨悪に向けられるカタルシス。狭い空間を巧みに使ったガンアクションのカッコ良さ! そして渡り鳥はルリ子の思慕を断ち切って去ってゆく。ラスト、清水将夫の「あの人はいつでもわし達をみていなさる」という台詞は、渡り鳥のヒーロー性をより高めている。


 全編に流れる主題歌「口笛が流れる港町」(作詞・西沢爽 作・編曲・狛林正一)の豊かな叙情性。数多くのアキラ・ソングを手掛けている狛林による「ギターを持った渡り鳥」と並ぶ佳曲である。

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佐藤利明(娯楽映画研究家・オトナの歌謡曲プロデューサー)の娯楽映画研究所
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