長旅をしてきた人には・・・ 第12作『男はつらいよ 私の寅さん』(1973年・山田洋次)
文・佐藤利明(娯楽映画研究家) イラスト:近藤こうじ
『私の寅さん』は、これまでのパターンを崩しています。寅さんが帰郷→ちょっとしたことで茶の間で大げんか→旅 といういつもの展開ではなく、さくらと博が、普段からお世話になっている、おいちゃんとおばちゃん孝行をしようと相談して、九州旅行を計画します。
その前日から物語が始まります。さくらが、三越の袋を山ほど抱えて帰ってきます。デパートで旅行用品を買う。という感覚は、今はないのかもしれませんが、ぼくが子供の頃は、ホームセンターも巨大スーパーもそれほどなくて、専門店は敷居が高い、ということもあり、なんでも百貨店でした。さくらは、おそらく、京成柴又駅から、都営地下鉄浅草線に乗り換えて、日本橋まで出たのでしょう。ハレの日の買物を、ウキウキした気分でしたことは、寅さんが「お前、よそ行き着てるね」と言ったことでもわかります。
昭和四十年代後半、東京から一家五人で、三泊四日の九州旅行に出かけるというのは、相当な出費です。皆が楽しみにしている九州旅行。しかし、おいちゃんの顔色は冴えません。このあたりから、観客にも、そろそろ寅さんが帰ってくることがわかるのです。寅さんが帰ってきたらどうしよう。どう説明したらいいんだろう。家族は気を使います。その理由は、皆さんご存知の通り。なるべく寅さんを傷つけたくない、なるべく無用な争いはしたくない。そういう配慮に端を発しているのです。
そこへ、何も知らない寅さんが帰ってきます。寅さんは「俺が帰ってきたからって気を使わなくていいよ」「夜汽車ってのは疲れるね」「せいぜい長くても三、四日の滞在だから」「やっぱり一番家がいいや」と、家族がドギマギするセリフを連発します。ここで映画館は爆笑の連続です。「禁句の笑い」同様、「来た、来た、来た」という感じです。とにかくお客さん、もちろん少年だったぼくも含めてですが、寅さんの一挙手一投足に、笑いっぱなしです。
夜、寅さんは機嫌良く風呂に入っています。「あ〜ら、パンツが逆さまだ」なんて、わけのわからない歌声が風呂場から聞こえてきます。しかし茶の間には思い空気が流れています。誰が寅さんに旅行のことを告げるのか?
こういう時、二代目おいちゃん、松村達雄さんが抜群の演技を見せてくれます。「とにかくさくら、こういうのはお前の役目だから、お前から話せよ」と極めて無責任な発言をします。松村達雄さんのおいちゃん、この不謹慎な感じが実にいいのです。
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