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プロ野球選手になるはずが、いつの間にかトレーナーになって入社1ヵ月で挫折した話
ぼくは元々プロ野球選手になりたかった。
小学校6年生の夏、甲子園では松坂大輔擁する横浜高校が歴史に残る試合を繰り返し春夏連覇を達成した。
その時ぼくは、テレビに釘付けになって『松坂やばい!』と鼻息を荒くしていたことを今でも覚えている。
ぼくは現在38歳。
同い年はダルビッシュ投手や涌井投手。
当然ぼくはプロ野球選手ではない。
どこにでもいるパーソナルトレーナーだ。
2025年改めてこのnoteを更新していくにあたり、まずはぼくが現在のトレーナーという職業についた経緯や出来事を自己紹介がてらまとめたい。
野球で挫折し、仕事も1ヶ月で挫折、入社して半年で会社が倒産するという経験があってもこの仕事を続けている。
少しでも『失敗したって平気じゃん』と思って頂ければ幸いである。
さて『松坂2世に俺はなる!』とワン〇ースの主人公のごとく野球に邁進していた僕は、中学生まではかなり順調に行っていた気がする。
小6ではエースで3番打者、チーム初の地区優勝に大きく貢献した。
試合に出はじめたときは『コールドにならないように』が合言葉だったチームとしては上出来だろう。
この時からだいぶ調子に乗り始めた。
今でいう『イキリ野郎』爆誕である。
調子に乗ったまま中学でも1年の秋から1塁手で3番を打ち、2年の春からはエースとなった。
最後の大会は実に19年ぶりの優勝を達成し有終の美を飾った。
そしてさらに調子に乗ってしまった…
夏休み前あたりから県内複数の高校から声をかけていただき、夏休みの間は様々な高校の練習の見学に行った。
最終的には直接学校まで来ていただき、憧れの先輩がレギュラーになった学校に進学を決めた。
さらにもう1つ、亡くなってしまったが今でも働いて迷ったときに支えになる言葉をたくさんいただいた小枝守先生がいたことも進学を決めたポイントである。
ここまではかなり順調、甲子園からの松坂2世路線。
絶好調!
しかし、実際にはそんなに甘くはなかった。
当時母校の拓大紅陵は部員100名程度。
10年間甲子園から遠ざかっていたのもあり、チーム編成にも力を入れていたように感じる。
さらに自分よりも数段うまい上級生や同級生に萎縮してしまった。
今にして思えばこの時点でぼくの夢は終わっていたのだと思う。
※調子ノリ期間強制終了
かなり早い夢の終わりである。
【特待生として入学した中で唯一ベンチ入りができなかった男】
誰にも言えなかったが実は、この事実がかなり長くぼくを苦しめた。
人生最初の大きな挫折、このときの感情は今でも忘れられない。
それでも進路に一切口出しせず、ただただ応援してくれた両親のため何とか引退まで続けることができた。
在学中は春夏ともに甲子園に出場をはたしたのはいい思い出だ。
甲子園最高!
しかし、最後の夏は姉妹校の志学館にサヨナラであっけなく負けてしまった。
そして高校野球生活を終え、進路を決める時期になり大きな問題がおきた。
『何をしたらいいかわからない』
入学早々夢が消え去り、その後の2年半はただただ人間関係と練習に耐える毎日。
そのすべてが終わり、まっさらになると何をしていいかわからない。
夏休み中は父の仕事を手伝うだけで、友達と遊ぶこともない。
『恩返しのためです』といえば聞こえはいいが実際は誘って断られるのが怖くて誰も誘えなかったのが事実だ…
ただぼんやりと思っていたことがある。
運動には関わっていたい
自分のような挫折した人間を助けたい
そこで急遽トレーナーという職業が目について、東京の専門学校に見学へ。
担任の先生から『石井の学力なら体育系の大学にいくつか行ける』と言われたが、即断る。
理由は『4年間も勉強したくない』という単なるわがままだ。
今思えばすごく失礼だし、気を使ってくれた先生に申し訳ない…
※K先生その節は大変失礼しました
そして以外にも内申が良く、専門学校も推薦枠で入ることができた!
真面目に授業を聞いててよかった!
こうして僕は東京スポーツ・レクリエーション専門学校に入学した。
専門学校で過ごした2年間は人生の中で最も濃い時間を過ごすことができた。
そして、今でも尊敬している大好きな仲間に出会えたのも大きい。
というより勉強以上にこの心友たちと出会い、時間を過ごし、今でも繋がっていられることに感謝したい。
みんなありがとう。
2年生になったとき、いよいよ就職となり企業見学や社員募集を学校内のキャリアセンターなるところに行ってチェックと言いたいが、本当は仲の良い友人が見学に行くところにこそっとついていった。
この時、ただ理由もなくついて見学にいった会社がぼくの就職先になるとは微塵も感じていなかった。
ワウディ―という今はなきフィットネスクラブが僕の最初の就職先である。
当時は非常に勢いがあり、働いている人たちも強者ばかり、今も尊敬している人たちが説明会で熱く語ってくれた。
体育会系かつ熱闘甲子園大好きな僕としては、先輩たちの熱いスピーチに心惹かれ『ここしかない!』と感じてこの日を終えた。
就活担当の先生からは『複数の企業を受けろ』と言われたが、僕は1つしか受けなかった。
今にして思えば、受からなかったらどうすんだよ!言いたいが、学生時代の僕はなぜか独自の考え方で突っ走ることが多かった。
『第1希望が受からなかったら、妥協した就職先になるからいやだ』
先生にこう言い放ってぼくは面接を受けて見事合格した。
※先生大変失礼しました。
こうして心友たちとの熱い熱い時間を過ごした専門学校生活は終わった。
2007年4月大きな希望と熱い思いを胸に僕は晴れて社会人となった。
そして入社早々挫折した。
終わり。
というわけにはいかないので、続きを。
入社早々なにに挫折したか?
それはこれまでの5年間(高1~専門まで)の生活の大きな弊害だった。
『女性と何を話せばいいかわからない』
何を隠そうこれが僕が入社1ヵ月で『仕事を辞めたい』くらいストレスを感じていたことに他ならない。
今思えばくだらないことだし、当時の僕にアドバイスするなら『そのうち慣れるから普通にしてれば大丈夫』という程度の問題だ。
ただ田舎者のぼくは就職するまでフィットネスクラブの存在は知らなかったし、高校は3年間男子クラス、専門時代は男友達と遊んでばかりいたので本当に困ってしまった。
なんせ会員の8割は女性なのである。
トレーナーという職業に少しでも【チャラさ】を感じている女性には、僕みたいな人間もいるということを覚えておいてもらいたい。
世の中には、大小様々な悩みやストレス、問題を抱えながら生活している人の割合の方が多いと思う。
それでも踏ん張って、続けてみると何年か経って『なんだ全然じゃん』と笑えることも同じくらい多いのではないだろうか?
これが成長の証だと信じている。
ぼく自身いまでも悩むこと、ストレスを感じることもある。
ただそれが成長に必要な悩みやストレスなのか?
うまくかわしてさっさと忘れた方がいいモノなのか?
その辺りの判断はおじさんになって、わかりかけてきた気がする。
今成長に必要な悩みやストレスすら自己成長のきっかけにしない人も多い気がするけれど、ここだけはできれば乗り越えてもらいたい。
そんな時、ぼくの若かりし頃のくだらない悩みを思い出してもらいたい。
そこで『バカみたいなことで悩んでたやつがいたな』と気持ちを楽にしてもらえれば幸いである。
今年で39歳。
おじさんの役割は『あの人も失敗してるんだ』と若い人に行動するきっかけを与えることではないかと思っている。
以上。