奥武蔵「顔振峠」と渋沢平九郎【山と景色と歴史の話】
幕末の戊辰戦争のさなか、現在の埼玉県入間郡越生町黒山で、官軍に追いつめられた1人の賊軍兵士が自決する。
その首は越生の高札場に晒され、胴は黒山の人たちの手で全洞院に葬られた。村人たちはその壮絶な最期を讃え「脱走の勇士」(だっそ様)と崇めたが、やがてこの兵士が渋沢栄一の妻・ちよの弟である平九郎と判明する。
激動の幕末に幕臣・渋沢栄一の見立養子(相続人)となったことで、数奇な運命を辿ることになった男の足跡を追う。
渋沢栄一への手紙
あきらめがにじんだ覚悟の言葉は、いつの時代もはかない。
慶応4年(1868)3月8日、強い焦燥感にかられて、彰義隊第二青隊伍長・渋沢平九郎は筆を執った。
「――すでに御承知のことと存じますが、日増しに大変危急なことになっております。この10日のあいだにも徳川氏は滅亡するやもしれず、この書面をご覧になる頃には御国はどうなっておりますことか。明日の事さえ計り難く、ただただ血涙を絞るだけでございます――云々」
大刀の鯉口に左手をかけたまま、さらに彼はつづける。
「旗下有志の面々は、官軍が迫ったときは死をもって御謝罪申し上げ、お聞き入れくださらぬときは上野寛永寺で慶喜公と共に滅亡と決心いたしております――云々」
ときに平九郎22歳。青年らしい気負いと無念の思いをつづった手紙の宛て先は養父・渋沢栄一。慶応2年に幕臣となった栄一は、このときパリ万博に出席する徳川慶喜の弟・昭武の随員として渡仏していた。
故郷から江戸へ
幕末の弘化4年(1847)11月、平九郎は武蔵国榛沢郡下手計村(現・埼玉県深谷市)の名主・尾高勝五郎保孝の第9子に生まれる。幼少より学問・文芸を修め、10歳で神道無念流を学び、18歳の頃には剣術を教授するなど、名主の末っ子らしく何不自由なく暮らしていたようだ。
そんな彼の人生が一変するのは慶応3年(1867)正月のこと。渡仏する栄一が妻・ちよの弟である平九郎を見立養子に指名したことで、彼は幕府崩壊の動乱に巻き込まれていく。
なにしろ同年夏に故郷を離れた平九郎が江戸の神田本銀町に落ち着いたのも束の間、10月にもたらされたのが大政奉還の一報だ。その後も12月には王政復古の大号令、翌慶応4年正月には鳥羽伏見の敗戦、徳川慶喜追討令など、次々と凶報が飛び込んできた。
「彰義隊」を離脱し、「振武軍」を結成
慶応4年(1868)2月12日、慶喜が恭順の意を表し、上野寛永寺に蟄居すると、これを許容しない旧幕臣や一橋家の家臣らが慶喜の助命と復権を集議。2月23日に浅草本願寺で「彰義隊」が結成され、頭取に慶喜の奥右筆を務めていた渋沢成一郎(喜作)が選ばれる。
成一郎は平九郎の従兄にあたり、平九郎自身も計画段階から参画し、第二青隊伍長に任命されたという。
冒頭の手紙は彰義隊が浅草本願寺にあった頃のもので、その覚悟の言葉どおり彼らは4月3日に拠点を上野寛永寺へ移したが、4月11日には江戸城が無血開城となり、慶喜は水戸へ退去してしまう。
まもなく彰義隊内で内紛が生じ、慶喜が水戸へ移った以上は江戸で抗戦すべきではないとする成一郎と、江戸での抗戦を主張する副頭取・天野八郎との確執が表面化。
やがて彰義隊を離脱した成一郎と平九郎らは、5月初旬に武蔵国西多摩郡田無村(現・東京都西東京市田無町)で「振武軍」を結成し、5月12日には箱根ヶ崎(現・同西多摩郡瑞穂町)に転陣する。
飯能戦争後に向かった先
振武軍約500が武蔵国高麗郡飯能(現・埼玉県飯能市)に入ったのは、上野に留まった彰義隊が壊滅した3日後の慶応4年(1868)5月18日のこと。
彼らが本陣を置いた「能仁寺」は背後に羅漢山(現・天覧山)を控え、前方は市街地を望めるという要害の地にあったが、5月23日に襲来した官軍約3000を前に衆寡敵せず、わずか半日で振武軍は四散する。
笹井河原(現・同入間市)で傷を負った平九郎が飯能に戻ったときには、すでに「能仁寺」は炎に包まれていたといい、成一郎らとはぐれた彼は羅漢山から山伝いに故郷へ戻る途中、顔振峠(現・飯能市と越生町の境にある峠)を黒山へ下ったところで官軍の斥候に見つかり、孤軍奮闘後、路傍の石に座して自決したという。享年22。
22歳の決断
平九郎が自決する約1ヵ月前、慶応4年(1868)閏4月28日、彼は自邸の障子に叩きつけるように「楽人之楽者憂人之憂喰人之食者死人之事 昌忠」と書き残している。当時、流行した漢文で意味は「人の楽しみを楽しむ者は人の憂いを憂う。人の食を喰らう者は人のことに死す」となった。「昌忠」は平九郎の諱だ。
はからずも幕末に徳川家の食禄を食んだ彼は「徳川家に殉じる」と決断し、振武軍に参陣するため江戸を後にする。障子ににじんだ覚悟の言葉が遺書となった。
同年11月に栄一が帰国したとき、すでに新政府によって江戸は「東京」と改称され、「明治」に改元されていた。まもなく彼は従兄の成一郎が榎本武揚の旧幕府海軍と合流したことを知るが、平九郎の行方はわからなかった。
栄一が平九郎の最期を知ったのは、飯能戦争から4~5年経ってからのことだという。遺骸を引き取った彼は寛永寺で法要ののちに上野谷中の渋沢家の墓地に改葬。
後年、黒山の地を訪れ、「なきたまをとふ黒山の墓のうゐに夕栄赤くさくあふひかな」「咲もあへす夜半のあらしに花ちりて香をとゝめぬる梅園の里」と悼亡の詩を2首詠み、墓の上に咲く「葵(あふひ)」の花を通して、激動の幕末に日本を2分した戊辰戦争で、己の代わりに徳川家に殉じた平九郎を偲んでいる。(了)
※この記事は2021年1月に【男の隠れ家デジタル】に寄稿したものを【note】用に加筆・修正したものです。
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