
「収玄寺」【鎌倉ぐらし/社寺参詣】
きっかけは 「コロナ断捨離」中に出てきた1冊のノート。
上京前、21歳のときに書いた人生の設計図。
その日は苦笑いしながら「捨てるモノ」箱に放り投げたけれど、ずっと心に引っかかっていた。
“鎌倉ぐらし”
あれから4年。
全然、20代の頃に思い描いた自分ではなかったけれど、ある日、ふと思いついた。
(今じゃないか?)
これまで、どうしても迷ったときは「やらぬ後悔より、やって後悔」で「やる」ことを心がけてきた。
(迷ったときは一歩前へ)
“思いつきと思いきり”
令和6年(2024)7月、東京から鎌倉へ引っ越した。
“鎌倉ぐらし”の記録として、お参りした【社寺】をnoteに残していく。
鎌倉ぐらし/社寺参詣
「収玄寺」

稲瀬川右岸、鎌倉「長谷寺」の南に佇む。
日蓮宗、四条山「収玄寺」は、もと近くの「光則寺」の末寺。本尊は日蓮と四条金吾夫妻で、金吾夫妻像は天保元年(1830)の像立とされる。
「金吾」は四条頼基という、鎌倉時代後期、北条氏一族の名越光時(北条光時、江馬光時とも)に仕えた武士の通称で、寺地は彼の宅地跡なのだとか。
江戸時代の文政年間(1818~1830)、この地に妙詣尼なる人物が「収玄庵」という堂を建てたといい、明治維新を経て、大正12年(1923)に「光則寺」第31世の日慈によって本堂が再建され、第二次世界大戦後に寺としての体裁が整えられたという。境内には東郷平八郎筆の「四条金吾邸址」の石碑が建てられている。
なお、「金吾」こと四条頼基は、日蓮に深く帰依し、文永8年(1271)の竜の口の法難のおり、日蓮に随行して共に殉じようとしたと伝えられる人物。
頼基は日蓮宗における四大檀越(富木常忍〈下総〉・四条頼基〈鎌倉〉池上宗仲・宗長兄弟〈武蔵〉、南条時光〈駿河〉)に数えられ、日蓮が流刑地・佐渡で著した『開目抄』は、佐渡から鎌倉の頼基の許へ届けられ、頼基を通じて門下に広く示されたという。


【撮影日】
令和7年(2025)2月24日
以上
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