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旧暦にもとづいた「伝統的七夕」の日~2つの星を1つにして戯れる~【歴史にみる年中行事の過ごし方】

「伝統的七夕」とは太陰太陽暦、いわゆる旧暦に基づく「七夕」のことで、平成13年(2001)から国立天文台が公表している。

月の朔望を基準としているため、日付は毎年変わるものの、この日は月が夜半前に沈むため「天の川」がよく見えるという。

中国からもたらされた「天の川」にまつわる伝説と行事がどのようにして現在の日本の「七夕」になったのか。その歴史を振り返りながら、夜空を眺めたい。


「七夕伝説」と「乞巧奠」

晴れ渡った夜空に浮かぶ、淡く白い雲のような光芒を古代中国の人々は天上を流れる川に見立てた。

中国を起源とする「七夕伝説」は「天の川」を隔てた鷲座の1等星・アルタイルと、琴座の1等星・ベガを擬人化して生まれたとされる。アルタイルの中国名は「牽牛」、ベガは「織女」。中国最古の詩集『詩経』に2人の名前を織り込んだ詩があった。

今日思い浮かべる一般的な「七夕伝説」――働き者だった牽牛と織女が夫婦になった途端に怠け者になり、怒った天帝が2人を引き離し、1年に1度、7月7日にだけ逢うことを許した――は6世紀半ばには梁の宗懍によって『荊楚歳時記』に記されている。

また、同書は「乞巧奠」――織女にあやかって7月7日に女性が裁縫の上達を祈願する――という年中行事にも触れていた。「乞巧」は巧みなることを乞う、「奠」は祭りを意味する。

大陸文化の国風化

「牽牛」と「織女」の「七夕伝説」と、それから発展した「乞巧奠」が奈良時代にもたらされ、日本古来の「棚機」――祖霊を迎えるために機を織る――という仏教の盆行事と結びついたものが、日本における「七夕」の起源といわれている。

日本では「牽牛」を「彦星」、「織女」を「織姫」と呼んだ。
平安時代の貴族たちは、その日、宮中行事として旬の果物や野菜を供え、香を焚き、楽を奏で、詩歌を詠みながら二星会合を祈ったという。また、このおり里芋の葉に貯まった朝露を集めて墨を摺り、梶の葉に詩歌や技芸上達などの願いごとを書いて手向けたとも。

ちなみに中国の「七夕伝説」では「織女」(女性)が「天の川」を渡ったが、日本では「彦星」(男性)が「織姫」(女性)に逢いに行く。これは古代日本が「妻問婚」――男性が女性の家に通う婚姻形態――だったことの影響だろう。

ただ、このような大陸文化の国風化は見られるものの、平安時代に今日のような願いごとを書いた短冊を笹に飾りつけるという風習は見られなかった。

江戸時代に五節供の一つに

宮中行事だった「七夕」が一般に知られるようになったのは江戸時代のこと。幕府が五節供の1つに定めたことで、やがて庶民のあいだでも親しまれるようになった。

江戸時代前期、貞享4年(1687)に刊行された『江戸鹿子』に「江戸中の子供短冊を七夕に奉る」とあるという。

7月6日の夜、江戸の町には願いごとを書いた五色の短冊や紙製の筆・硯・算盤・瓢箪などを飾りつけた笹が天高く掲げられた。
笹は神様や先祖の霊が宿る依り代とされ、屋上に立てたのは天の神様を迎えるための目印の意味合いがあったとか。

当時、手習いが普及したため書の上達を願う短冊が多かったが、次第に富貴や長寿なども願うようになった。そして現在では技芸や手習いの上達のほかにも様々な願いごとが短冊に書かれている。

2つの星を1つに

中国からもたらされた「天の川」にまつわる「七夕伝説」と「乞巧奠」が宮中行事として取り入れられ、やがて民間に普及して日本独自の風習となり、現在の「七夕」へと発展した。

しかし、この間、明治5年(1872)の改暦によって「七夕」は約1か月早くなり、梅雨どきの行事になってしまった。現在の「七夕」の夜に「天の川」を見ることは難しい。

そんななか、国立天文台が公表しているのが「伝統的七夕」で、この日は晴天率が高く、月も夜半前に沈むため「天の川」がよく見えるという。

その夜、江戸時代の人々は、とても趣きのある時を過ごしていた。

彼らは庭先に出した盥(たらい)に水を張って「彦星」と「織姫」を映し、2つの星が1つになるよう、水面に波紋を作って戯れた。

灯りを消して真似してみるのも一興か。(了)

【画像】国会図書館デジタルコレクション

【主な参考文献】
・高橋千劔破著『花鳥風月の日本史』(河出書房新社)
・吉海直人著『古典歳時記』(KADOKAWA)

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水谷俊樹
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