見出し画像

相模小田原「曽我山」と曾我兄弟【山と景色と歴史の話】

いにしえより地域の人々を魅了してきた英雄がいる。
彼らの波乱に満ちた生涯は人々の口から口へ、様々な伝説・伝承に彩られながら語り継がれてきた。

鎌倉時代初期、実父の仇討ちの果てに若くして散った曾我十郎祐成と五郎時致の兄弟は、神奈川県西部や静岡県東部・伊豆地方における“悲劇の英雄”といえる。

今回は曾我兄弟にまつわる史跡が連なる、神奈川小田原市の「曽我山」を紹介したい。


「曽我」という地名の由来

平安時代中期に相模国府の外港が置かれた、国府津から北方約4kmに連なる丘を「曽我山」という。

この山名は独立峰の名称ではなく、北から「浅間山」(317m)、「不動山」(327m)、「高山」(246m)などの総称(曽我丘陵とも)で、山裾から平野部にかけて広がる「別所」「中川原」「原」の3つの梅林を「曽我梅林」といい、約35,000本の梅が栽培されている。

「曽我」という地名の由来には、古代ヤマト王権の有力豪族・蘇我氏が各地においた部民(蘇我部)とする説や、鎌倉幕府の正史とされる『吾妻鏡』に登場する相模国「曾我荘」の領主・曾我氏とする説がある。

さきの山名は、この曾我氏の居城があったことに由来するという。

この地が全国的に大きな注目を集めたのは、鎌倉幕府を開いた源頼朝が征夷大将軍となった翌年、建久4年(1193)のこと。

この年の5月、頼朝が富士の裾野で行った大規模な巻狩(富士の巻狩り)の野営地で、「曾我荘」の領主・曾我祐信の養子である十郎祐成と五郎時致の兄弟が実父の仇・工藤祐経を討ち果たしたことによる。

曾我兄弟の仇討ち

この仇討ち事件の発端は、十郎・五郎兄弟の祖父で伊豆国「河津荘」の領主・伊東祐親が甥の工藤祐経が上洛しているあいだに、彼の所領である「伊東荘」を奪ったことに始まる。

『吾妻鏡』によれば、安元2年(1176)10月、伊豆国奥野で祐親が主宰して狩倉(狩猟や騎射)を行なった帰途、祐親の子、つまり兄弟の実父・河津祐通(祐泰・祐重とも)が工藤祐経の従者によって暗殺された。

ときに十郎5歳、五郎3歳。

その後、母・満江が相模国「曾我荘」の領主・曽我祐信に再嫁したため「曾我」姓となり、まだ幼かった彼らはこの地で静かに闘志を燃やしながら成長した。

そして源頼朝が富士の裾野の巻狩を催した建久4年(1193)5月28日夜半、雷雨の中、曾我兄弟は野営地に忍び込んで、実父の仇・祐経を討ち取り、本懐を遂げる。

このとき兄・十郎はその場で討ち取られ、弟・五郎は捕縛されて鎌倉へ護送される途中に鷹ヶ岡で首を刎ねられた。十郎の享年は22、五郎は20だった。

やがて曾我兄弟にゆかりのある相模国西部や駿河国東部などでは、本懐を果たしながらも悲運の死を遂げた霊魂を鎮めるため、巫女や瞽女たちが彼らの物語を語り広めた。

そして鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて、曾我兄弟の悲劇を描いた『曾我物語』が成立する。

曾我氏ゆかりの地

『曾我物語』は人々の同情と共感を呼び、芸能の素材として持て囃された。南北朝時代から室町・戦国時代をにかけて能や幸若舞、浄瑠璃として上演され、江戸時代には歌舞伎化されて「曾我物」として定着し、“日本三大仇討ち”の1つに数えられる。

この間、物語は口承に口承を重ねながら全国各地へ広まった。そのため、曾我兄弟にまつわる伝承は北は東北から南は九州に及ぶ。

『曾我物語』の舞台の1つでもある「曽我山」(当時は「山彦山」)の山中や山麓にも、曾我氏にまつわる伝承が残っていた。

「不動山」と「高山」のあいだにある「六本松跡」は、その昔「鎌倉道」と「大山道」と「箱根道」が交わる重要な峠で、『曾我物語』では仇討ち前夜、兄・十郎が恋人の虎御前に別れを告げた場所として描かれている。

また「不動山」にある不動明王の石祠は、文治3年(1187)に養父・曾我祐信が寄進したものといい、彼は南麓に鎮座する「宗我神社」の再興にも手を尽くしたと伝えられている。

「宗我神社」は平安時代中期の長元元年(1028)に宗我播磨守保慶が建立し、宗我氏の祖先を祀った神社で、江戸時代には「小沢明神」と呼ばれ、明治時代に曽我郷六ヶ村(上曽我・曽我大沢・曽我谷津・曽我岸・曽我原・曽我別所)の鎮守を合祀し、曽我の里の総鎮守となった。

「曽我の傘焼きまつり」と「小田原梅まつり」

曾我兄弟の菩提寺である「城禅寺」は、彼らの遺骨を叔父の宇佐美禅師が持ち帰り、庵を結んだのが始まりとされ、本堂の裏庭に曾我兄弟、養父・祐信と実母・満江の墓と伝えられる2対4基の五輪塔が祀られていた。

また「城前寺」では、毎年、曾我兄弟が本懐を遂げた5月28日に「傘焼きまつり」が行なわれている。

この伝統行事は、彼らが仇討ちを決行した夜は雷と大雨の降る暗夜だったため、唐傘を松明の代わりに燃やしたという故事にちなんだもので、「かながわのまつり50選」に選ばれている。 

ちなみに冒頭で触れた「曽我梅林」は、戦国時代、小田原城を本拠に関東一円を支配した戦国大名・北条氏(後北条氏とも)が兵糧用に梅の実を植えたことが始まり。

近年、国府津から「曽我山」の尾根伝いにウォーキングコースとして道標が整備されている。

訪れるなら、やはり富士山や箱根の山々を背景に梅が咲き誇る「小田原梅まつり」の期間中がおすすめだ。(了)

【画像】
国立国会図書館デジタルコレクション

いいなと思ったら応援しよう!

水谷俊樹
皆様からいただいたサポートは、取材や資料・史料購入など、執筆活動の費用として使わせていただきます。