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奥多摩の山々と畠山重忠【山と景色と歴史の話】
いにしえより地域の人々を魅了し、心の拠り所となってきた英雄がいる。
彼らの波乱に満ちた生涯は人々の口から口へ、様々な伝説・伝承に彩られながら語り継がれてきた。
秩父から奥武蔵、そして奥多摩にかけての山々を歩くと、鎌倉時代初期の武将・畠山重忠にまつわる伝説によく出会う。
今回は奥多摩を中心に“重忠伝説”を紹介する。
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奥多摩の“奥”は『奥の細道』の“奥”
森林美と渓谷美であふれる秩父多摩甲斐国立公園の東端、東京都西部の山岳地帯を「奥多摩」という。
多摩川水系の上流域で、“東京の奥庭”として親しまれるこの地域を「奥多摩」と呼ぶようになったのは約100年前、地名が定着するまでには地元の人々による観光客誘致のための努力があった。
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大正9年(1920)にJR青梅線の前身・青梅鉄道が立川から二俣尾まで延伸したおり、それより先の自治体が青梅鉄道に対し、さらなる延伸を求めて建議書を提出した。
彼らは「頗ル景勝ニ富ミ都人士遊覧保養ノ地トシテ天下其ノ比ヲ見ザル適地」といい、「仮令一駅ツヽナリトモ漸ヲ逐フテ延長」するのは「地方開発ノ使命」だと主張。大正14年2月に観光地としての魅力向上を図ることなどを目的に保勝会を設立する。
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保勝会とは現在の観光協会のようなもので、彼らは自慢の景勝地を広く知ってもらうための、ブランド名の検討を重ねた。
そして日本初の林学博士で日比谷公園などの設計を手掛けた本多静六(1866~1952)の「『奥の細道』の“奥”をとってはどうか」との提案を採用したという。
「奥多摩川保勝会」は設立後まもなく、青梅鉄道と共同で「奥多摩川探勝案内」を作成。昭和2年(1927)に東京日日新聞と大阪毎日新聞が「日本八景」「日本二十五勝」「日本百景」を選定する過程で「川」の字を取ってキャンペーンをおこない、地名としての「奥多摩」を定着させた。
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武蔵国の名門・秩父氏の嫡流
「奥多摩」を代表する山の1つに「御岳山」(929m)がある。
この山上に鎮座する「武蔵御嶽神社」には、鎌倉時代初期の武将・畠山重忠が奉納したという大鎧「赤絲威鎧」(国宝)が伝わる。
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畠山氏は、桓武平氏の血をひく“坂東八平氏”の1つ、武蔵国秩父郡(現・埼玉県秩父市)に興った秩父氏の嫡流で、重忠の父・重能のときに武蔵国男衾郡畠山荘(現・埼玉県深谷市畠山)に移り、その姓を名乗った。
長寛2年(1164)に畠山荘で生まれた重忠は、のちに菅谷(現・埼玉県比企郡嵐山町)に移ったとされる。
この間、彼は武家政権の創始者・源頼朝の有力な御家人として「治承・寿永の乱」(源平合戦)で活躍し、頼朝上洛おりには先陣を務めるなど草創期の鎌倉幕府を支えた。
『新編武蔵風土記稿』には、建久2年(1191)の秋、重忠は奥州征伐の功によって頼朝から杣保(現・東京都青梅市西部)に領地を賜り、「御岳山」に城を築いたとある。
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しかし頼朝亡き後、重忠の義父で初代執権として幕府の実権を握っていた北条時政は、武蔵国における重忠の名声と実力を警戒するようになった。
そして元久2年(1205)4月、重忠は時政の策略に嵌まり、武蔵国二俣川(現・神奈川県横浜市旭区)で時政の子・北条義時率いる大軍と戦って敗死する。
『新編武蔵風土記稿』は、このとき「御岳山」の城も兵火によって悉く灰燼に帰したと伝えていた。
“坂東武士の鑑”と称された男
重忠は、その存命中から眉目秀麗にして智勇兼備で知られ、その清廉潔白な人柄から“坂東武士の鑑”と称されていたという。
彼の死後20年にして書かれた歴史書『愚管抄』は「重忠ハ武士ノ方ハソノミタリテ第一ニ聞ヘキ」と、武士として第一級の人物だったと評していた。
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こうした重忠の美談は、鎌倉幕府の正史とされる『吾妻鏡』も数多く伝えている。
ただ『吾妻鏡』は、北条氏の一門である金沢氏らが編纂に深く関与していた。彼らは世間における重忠の人物評が高かったため、彼を滅ぼしたのはあくまで時政とその周辺とすることで、その跡を継いだ二代執権・義時を庇っているようにもみえる。
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いずれにせよ、その後も重忠は、鎌倉時代の軍記物語『源平盛衰記』や室町時代の軍記物語『義経記』などで模範的な武士として描かれ、江戸時代の浄瑠璃や歌舞伎などでは超人的な力をもつ、情の深い人物として登場する。
後世の人々が非業の死を遂げた重忠に寄せた哀悼と追憶は、長い年月をかけて彼の生涯にさまざまな伝説を施した。
奥多摩の山々に残る“重忠伝説”
重忠が移ったとされる菅谷には旧鎌倉街道「上道」が通っており、彼が鎌倉に上がるときはこの道を利用したと考えられる。現に関東西部を縦断する旧街道沿いには重忠にまつわる伝説・伝承が多い。
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その一方で、重忠は秩父から奥武蔵、そして奥多摩にかけて山岳地帯にも多くの伝説・伝承を残す。「いざ鎌倉」のおり、ときに重忠はこれらの山々を越えた、とも。
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秩父と奥武蔵を分ける「有間山」(1213m)には、実は重忠は二俣川の戦いで敗死せず、この山中まで生き延びたという“生存説”が残っている。
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さらに奥武蔵と奥多摩の境にある「棒ノ折山(棒ノ嶺)」(969m)の山名は、重忠がこの山を越えるために使っていた石の棒が折れたことに由来するといわれ、「棒ノ折山」と尾根つづきの「黒山」(842m)東方にある「馬乗馬場」は重忠が馬を休ませた場所だという。
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また、「棒ノ折山」の東側の登山口がある上成木の山中には「畠山重忠の切石」と呼ばれる巨石が残り、同じく上成木に登山口がある「高水山」(759m)の山頂付近には「高水山常福院」があり、彼はここの不動明王に深く帰依したと伝えられる。
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そして先にみた「御岳山」の山上にある「武蔵御嶽神社」には、重忠奉納の大鎧「赤絲威鎧」(国宝)が残る。
社伝には、奥州征伐の功によって頼朝から重忠が杣保に地を与えられた建久2年(1191)に、彼から奉納されたとあった。
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現在、大鎧が収められている宝物殿前に「畠山重忠の騎馬像」が立っている。
また、晴れた日には同社の境内から遠く南に江ノ島を望むことができるという。
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「奥多摩」の山々に残る重忠の足跡を辿りつつ、その先につづく鎌倉までの道のりを追ってみてはいかがか。(了)
【画像】国会図書館デジタルコレクション
※「奥武蔵」の由来などはコチラをどうぞ。
以上
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