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「英勝寺」【鎌倉ぐらし/社寺参詣】

きっかけは 「コロナ断捨離」中に出てきた1冊のノート。
上京前、21歳のときに書いた人生の設計図。

その日は苦笑いしながら「捨てるモノ」箱に放り投げたけれど、ずっと心に引っかかっていた。

“40代で鎌倉ぐらし”

あれから4年。
全然、20代の頃に思い描いた自分ではなかったけれど、ある日、ふと思いついた。
(今じゃないか?)

これまで、どうしても迷ったときは「やらぬ後悔より、やって後悔」で「やる」ことを心がけてきた。
(迷ったときは一歩前へ)

“思いつきと思いきり”

令和6年(2024)7月、諸々の態勢を立て直すべく、東京から鎌倉へ引っ越した。

“鎌倉ぐらし”の記録として、SNSに投稿した【社寺参詣】をnoteに残していく。

鎌倉ぐらし/社寺参詣

東光山「英勝寺」

鎌倉・扇ヶ谷、鎌倉五山第三位・寿福寺の北隣に佇む。
この地は、室町時代、扇谷上杉家の家宰だった太田道灌邸の跡地とされる。

浄土宗、東光山「英勝寺」は、現在、鎌倉唯一の尼寺で、開基は英勝院、開山は玉峰清因。
本尊は阿弥陀三尊立像。

開基の英勝院の出自には諸説あるものの、太田道灌の4代の孫・康資の娘といわれ、徳川家康の側室となった人物。幼名を「おはち」といい、家康の命により「おかち」に改め、のちに「於梶」「於勝」と称したという。

「於勝」と呼ばれていた頃か、慶長12年(1607)に家康との間に「市姫」をもうけたが夭折。不憫に思った家康の計らいにより、同じく側室だった「お万」(蔭山殿)の子・鶴千代(家康の11男、のちの徳川頼房)の養母となった。

元和2年(1616)家康没後に剃髪して「英勝院」と称し、江戸城内田安門内の「比丘尼屋敷」で暮らしたのち、寛永11年(1634)に第3代将軍・徳川家光より相模国鎌倉扇谷の地を得て、2年後に「英勝寺」を創建。このとき、かつて養母として養育にあたった徳川御三家の一・水戸徳川家(藩)初代・徳川頼房の娘・小良姫を迎えて得度させ、「玉峯清因」として開山とした。

このような縁から「英勝寺」の住持には、水戸徳川家の姫を迎えることになる。代々の住持は、いつも書院にいて、法要は江戸の芝「増上寺」や鎌倉の「光明寺」などの僧が勤めたといい、彼らは法要が終わると書院に出向き、御簾越しに報告して帰途についたのだとか。

江戸時代を通じて、水戸徳川家から厚い庇護を受けた「英勝寺」は「水戸御殿」や「水戸様の尼寺」などと称されていたという。

現在は「彼岸花(曼珠沙華)」の名所としても知られる。

令和6年(2024)10月24日のFacebookより

【撮影日】
令和6年(2024)10月7日

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以上

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