母国語があることの素晴らしさ
日本人として、日本語という名の日本の風土と歴史の中で育まれてきた母国語を話し、日本語で教育を受け、就業の機会を得ること。そして、日本語で娯楽を享受できること。これらがどれだけ素晴らしいことかということを、ここ最近痛感する。
ニュージーランドに来てから早くも半年が経とうとしている。半年もすると考えることも多々あるが、言語に関することは絶えず考えを巡らせてきたように思う。
ニュージーランドは言わずもがな、英語が公用語の国である。マオリ語も同様に公用語として認められてはいるが、私は実際にマオリ語で会話をしている人をまだ見たことがないような気がする。とにかく、ここは英語圏であり、誰もが英語を話すことを期待されている。
ところで、英語とはその名の通り英国の言語であり、それは欧州という風土と歴史の中で育まれてきた地域言語の一つでしかない。英語は確かに今日の世界で非常に重要なポジションを占め、客観的に役に立つかどうかという視点で見れば、世界で一番役に立つ言語であることは間違いない。
しかし、ニュージーランドで英語を話すことが果たして理にかなっていることなのかどうか。ニュージーランド人は英語に対してどういった愛着を抱いているのだろうか。そんなことを漠然と考える日が多かった。未だに答えは出ないし、実際に現地の人に聞くのもなんだか憚られる。
英語は、決してニュージーランドという孤島の環境で育まれてきた言語ではない。ニュージーランドで話される英語、それはまるで根の無い花の様なものである。近代以降に成立した「国語」としての言語は、いずれも似たようなところがあるとは思う。とはいえ、ニュージーランドで英語を日常的に使っていると、いつも心のどこかに何かつっかえるものがある。
その点、日本人は極めて幸運であったと言える。自国に日本語という母国語があり、その母国語とともに歩んできた歴史があり、母国語で高等教育を受けることができ、卒業後も就業の機会が溢れている。更に、母国語を通じて世界中で認められた様々な娯楽やエンターテイメントにアクセスすることができる。
母国語で全てが完結する現在の日本は、何て幸せな国なのであろうか。世界中には、高等教育や就業の機会を求めて英語を勉強せざるを得ない人たちが大勢いる。家庭で話されている最も身近な言語と公共の場での言語、そして熾烈な競争を勝ち抜くために必要となる言語、それら全てが全く異なる言語である地域も沢山ある。
ニュージーランドで私が話す英語、それはリンガフランカとしての英語であり、便利なツールとしての英語であり、システマティックな英語である。そこには文化的な矜持もなく、英語が背負ってきた歴史や伝統を感じることもない。ここで話される英語に限れば、私は現時点でそう感じている。
街中の通りの名前も、街自体の名前も、大陸の西の果てから来たよく分からない人の名前や歴史上の出来事にあやかって付けられた名前ばかりである。忌憚なく言えば、この国の名前が正にそうだ。最近はそういった名前にマオリ語での名前が併記される様になってきたようであるが、非常に良いことであると思う。
便利なツールとしての英語を学びたいのであれば、ニュージーランドでもアメリカでもどこでも良いと思う。何なら、日本国内でも事足りるだろう。但し、本当に英語という言語に心から興味があり、英語をその真髄から学びたいのであれば、間違いなくイギリスに行くべきだと思う。言語とその言語が育まれた風土は表裏一体であり、現地の空気感を身に纏うことなしにその言語の真髄に達することは決してないだろう。
私はこれまでの人生、様々な場面で英語に助けられながら生きてきた。世界中を旅できたのも、いい加減なキャリアにも関わらずニュージーランドでしっかり働けているのも、全て英語のおかげである。但し、英語を話している自分が好きかと聞かれると、別にそこまで好きだとは思わない。
逆に、私は中国語を話している時の自分自身が大好きだ。英語を話す時よりも中国語を話している時のほうが、余程自分らしくいられる。それは、間違いなく中国語が英語よりも日本語に近いニュアンスや感性を持った言語だからである。漢字という表意文字を使えること、これに勝ることはないと思う。
話が若干逸れたが、日本人が日本語で全てを完結させられること、これは本当に恵まれたことである。故に、徒に英語学習ばかり声高に叫ぶのではなく、母国語としての日本語があることをしっかりと意識し、そのありがたみを感じること、そのことの方が余程大切な様な気がしてならないのだ。
人生の選択肢を増やすという意味では、英語を身につけて損はない。但し、いくら役に立つ英語を勉強したところで、それによって自らの精神世界がより豊かになることはあまりないだろう。ローカルな日本人として生まれ育ってきた以上、日本語で物事を考えることから逃れることは不可能だ。そして、大陸の西の果ての言語をいくら必死に勉強したところで、極東の日本語ネイティブである我々がその言語の奥深さに到達することは非常に困難だ。
母国語としての日本語があること。日本語で高水準の生活が送れること。世界に名だたる偉大な作家の作品を日本語の原著で読めること。どれも素晴らしいの一言に尽きる。英語学習ももちろん大事ではあるのだが、母国語をより深く知り味わうためにも、歴史的仮名遣いや旧字体も同様に大切に扱われていいのではなかろうか。
そういった観点から、個人的に日本人は台湾で中国語を学ぶのが一番良いと考えている。台湾で繁体字を学ぶことで、戦前の旧字体の日本語の文章への抵抗感もなくなり、中国語という側面から漢字を味わうことで、日本語の中の漢字もより鮮明に浮かび上がってくる様になるだろう。何より、英語よりも断然中国語の方が身につけやすく、自分の感情が表現しやすいと誰もが感じることだろう。外国語として真っ先に英語を勉強しなければならないこと、これが日本人に外国語アレルギーを感じさせている最大の原因である。
TOEICの勉強なんかより、青空文庫で夏目漱石の作品読んでる方が余程いいと思います。