「愛」について
今回は、タイトル通り「愛」について書こうと思います。
なぜ急に、こんな壮大なテーマで書こうと思ったかというと、
最近読んだ本が「愛するということ(エーリッヒ・フロム著)」という本だったからです。
この本を読んで、かなり感銘を受けたので、「これは発信せずにはいられない」と思い、書くことにしました。
この本を読む前と読んだ後では、「愛」の概念が全く違うものになりました
。
自分の生活(人生)への取り組み方も変わりました。
そのくらい影響を受けた本です。
さわりだけでも、紹介したいと思います。
「愛」って…
「愛」という言葉については、人それぞれ色々なイメージがあると思います。男女の恋愛や、家族愛など。
僕はこれまで、「愛」というものについて深く考えたことがありませんでした。
ちょっと気恥ずかしいというのもありますし、「綺麗ごと」があんまり好きじゃないタチなので、そういう理由から「愛」について考えることはありませんでした。
しかし、子どもができて、子育てをする中で「愛」について考えることが増えてきました。
「今の𠮟り方には、愛があったか?感情的に怒っただけではないか?子供の精神面にどんな影響があるだろうか?」と。
また、僕は地元のスケートパークの運営に携わっており、マナー違反などを注意する立場にいるため、「この注意の仕方は、愛が無かったのではないか?」と考えることもしばしばありました。
ポイ捨てを平気でする子たちを見て、「もしかしたら、愛情のある家庭環境で育たなかったせいもあるのかもしれない…」なんて思うこともあります。
そんなこともあり、「愛」について考えるようになりました。
この本「愛するということ(エーリッヒ・フロム著)」を手に取るきっけになったのは、ひとつのマンガがきっかけでした。
そのマンガは、「血の轍(ちのわだち)」です。
これは、いわゆる毒親が、主人公である息子の精神を蝕んでいき、様々な不幸に見舞われていく物語です。
(最後は、希望がゼロではない終わり方をしますが。)
このストーリー、恐ろしく解像度の高い描写の数々で圧倒されます。
読んでいるこちらまで精神的に参ってしまいそうなくらいなので、精神的に安定していない時は読まない方がいいかもしれません。笑
この「血の轍」を読んだ後、YouTubeでこのマンガを解説している精神科医の人の動画を発見しました。
さすが精神科医だけあり、着眼点も解説も素晴らしかったです。
まぁ、その内容については割愛するとして、
その精神科医の方が動画内で紹介していた本が、「愛するということ」でした。
それがきっかけとなり、購入して読むことにしました。
愛の価値観の変化
イギリスでは、ヴィクトリア時代(1837年~1901年)には、結婚相手は自分で決めるものではなく双方の家族やしきたりによって決まるものだったので、「愛は結婚した後に生まれるもの」という考え方が一般的だったようです。
また別の例を紹介すると、僕が以前テレビか何かで見た外国の村でも同じような風習がありました。
そこでは、「男性は女性からの求婚を断ることができない」という決まりがあるそうです。
男性には拒否権は無く、女性から男性に求婚したらそれで結婚が成立してしまうそうです。
しかしさらに驚いたのは、男性側の不満もほぼ無く、どの家庭も仲良く愛し合って暮らしているそうなんです。
男性側に選択肢が無いからこそ覚悟が決まって、「この女性といかに仲良くやっていくか」にだけ注力できるのかなぁ、なんて思いました。
イギリスの話に戻すと、ヴィクトリア時代から数世紀が経ち、「自由な恋愛」ができるようになったおかげで、人々は「愛する能力」よりも「対象」を重要視するようになりました。
「いかに愛していくか」ではなくて、「いかに愛するに値する相手を見つけるか」という価値観に変わっていったということでしょうね。
これはイギリスに限らず、世界中に広まった価値観だと思います。
男は魅力的な女に気に入られるため、
女は魅力的な男に気に入られるため、
自分という商品の価値を高く見せるようになったわけです。
そして、相手の商品価値と自分の商品価値を見定めて、
「自分はこのくらいの相手となら釣り合うはずだ」
という考え方で相手を選ぶようになっていったのでしょう。
(もちろんすべての人ではありませんが。)
愛の価値観はこうして変わっていったのだと、著者のエーリッヒ・フロム(以下 フロム)は言っています。
愛は技術である
フロムは、「愛は技術である」と言い切っています。
ここがすごいな、と思いました。
仕事や芸術やスポーツと同じく、「理論を学び、修練を積むことで能力を上げていくのが『愛』だ」という主張です。
自然発生的に生まれるものではなく、能動的でいる必要がある、ということですね。
またフロムは、愛には「配慮・責任・尊重・知」の性質があり、これらは成熟した人間にしか持てないものだ、と言っています。
それぞれについて説明すると長くなるので、割愛します。
たしかにイメージしてみると、愛情深い人ほど人間的に成熟していて、逆もまた然り、のような気がしますね。
愛は「与える」ものである
「愛は見返りを求めないものだ」なんてセリフをどこかで聞いたことがありますが、
これまでの僕は「そんなもん綺麗事だろ…」と思っていました。
しかし著者のフロムによると、
とのことです。
「愛を与えること」について間違った解釈をしている人は、
「与えるのは、見返りがあるからだ。」とか
「与えるというのは犠牲を払うことだから美徳なのだ」とか考えてしまうようです。
たしかに自分の行動を振り返ってみれば、子どもや後輩に技術や知識などを「教えたい!」と思って与える時、それは優越感を抜きにしても喜びを感じる行為だよなぁ、と感じました。
この「喜び」は何なのか?
「自分は役に立てる存在なのだ」という自己肯定感なのか、
「相手の成長が嬉しい」という共感なのか…。
じゃあ、見返りが何もなかった場合はどうだろう?
相手に変化も見られず、感謝もされなかったら?
それでも「与える」ことを止めずに続けられるだろうか。
フロムの言葉に立ち返ると、
「与えるという行為を通じて、自分の持てる力と豊かさを実感する。」
とのことなので、相手の反応に関わらず、与える行為自体が自分の喜びだということなのでしょう。
ここは、理屈というよりはすごく感覚的なものなのかな、と思いました。
「愛」とは
僕が一番感銘を受けたのは、次の言葉でした。
これを読んだときに、
「ああ、これまでの自分は間違っていたんだな。」
と反省しました。
同時に、自分が持つべき「愛」を発見した喜びを感じました。
大切なのは「隣人愛」だったんだ、と。
「隣人愛」「友愛」「人間愛」「人類愛」など、色々な表現の仕方がありますが。
(この本の中では「友愛」と書かれています。)
僕は今まで、
「この人とは合わないから壁を作ろう」
「この人は好きだから仲良くしよう」
という感じで、はっきり線引きをしてしまっていた気がします。
「優しくするべき人には優しくするし、そうでない人には優しくしない。」
というくらい、極端でした。
(さすがに攻撃するようなことはありませんが。)
「この生き方は間違っている!」とまで言うつもりは無いのですが、
「自分はどうなりたいか?」と自問してみると、フロムの唱えている「愛」、つまり「友愛」を大切にできる自分になりたいと強く思いました。
資本主義の原理と、愛の原理
フロムによると、現代は「資本主義の原理」に蝕まれており、人々は「愛」にまで資本主義の原理を用いようとしている、というようなことを言っています。
資本主義は「価値の交換」「競争」「利益の最大化」を原理原則としていますが、これは愛の原理原則とは全く違います。
愛の原理原則は前述の通りで、
「配慮・責任・尊重・知」を持って「与えること」であり、交換や取引とは別物です。
だからこそ、「愛」について誤解したまま間違った愛を求める人々が多いのだということです。
まとめ
今まで「『愛』について学ぼう」なんて思ったこともなかったのですが、
今回この本、「愛するということ(エーリッヒ・フロム著)」を読んでみて本当に良かったです。
何より、自分の中の「愛」の概念がガラッと変わり、日常生活での過ごし方、他者へ関わる際の姿勢も変わりましたし、「気分が晴れた」という感覚です。
ただ、まだ少し、「愛」についての疑問も残っています。
極端な例で言えば、
「凶悪な犯罪者が居たとして、その人に愛を向けられるか?」
「自分の家族を傷つけるような人が居たとして、その人に愛を向けられるか?」
というものです。
今のところ僕の中の答えでは、
大切なのは、許せるか許せないか、愛せるか愛せないか、という問題ではなく、
「その人に対して、自分が『配慮・責任・尊重・知』を持っていかに向き合えるか」
だろうと思っています。
最低限の友愛を向けられればいいのですが、簡単な問題ではないでしょうね…。
これについては、今後のテーマとして頭の片隅に置いておこうと思います。
こういう文章を書いていると、「真面目すぎ」とか「固く考えすぎ」という意見もたまにもらうのですが、正直そんなことはないと思っています。
むしろ僕自身はすごく楽しんでいて、「今回こんな発見があったから、自分の人生はもっと良くなる(精神的に豊かになる)はずだ。」とワクワクしているくらいです。
こういう発見があるから読書は楽しいですね。
全人類にオススメしたいくらいの本でした。
ぜひ読んでみてください。
「愛するということ(エーリッヒ・フロム著)」
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