#190C|不満を手放すと順算で動ける(かもしれない)
今日はプロジェクトに順算式でアプローチすることに関する曖昧な気付きのメモ。感覚的に書いた。note365日連続投稿チャレンジ190日目。
不満があるから順算ができない
これはnote188日目の日に得た「自己肯定」の関連の話でもあり、昨晩ガッツリ「順算」式のアプローチに関してくみさんと話したことも相まっての気付き。
なぜ私は「逆算」的なやり方を手放せないのか?順算的なやり方とはどうすればいいのかが、なぜわからないのか?
それは「自分に関して不満を持っているから」ではないだろうか?という仮説が浮かんだ。
「自分にだけ」ではない。自分に不満があるということは、潜在的には自分以外にも不満があるということだ(その逆も言える)
順算を邪魔しているのはエゴ
もしかして私は不満が多いのではないか。それは不安が多いと言ってもいい。
その不満が、自分の意識を「逆算」に貼り付けている。「こんな自分」よりも、「もっと別の自分」になりたい。というか、ならなければならないと思い込んでいる、その気持ちが強いために、アタマが逆算から剥がれない。
だから「今」が受け入れられない。それを受け入れていいわけがない、恐れ多い、といったような感じだ。「もっと立派な自分になったら今を受け入れていい」と思っている気がする。今のような自分が今をありのまま受け入れるなんてのは悪いことだ、とか思っている気がする。
しかし、今を受け入れなければ順算は始められない。はじめの一歩目からエラーを吐く。なんの兆しもない今を踏み出すことができないから逆算でしか進められない。しかし逆算はそれが有効に機能する場面ではないと採用してもほぼ進まない。ので、物事が進まない。
けっきょく自分のことが不満で、ないものねだりなのでは。そのくせ、見栄っ張りのかっこつけだから、順算ができないのでは。順算を邪魔しているのはエゴなのではないか。
不満を手放す
もっと不満を手放す。自分は自分以上にはなれないことを許す。自分以上になる必要もないことを受け入れる。
他者や社会への不満も手放す。それらは、すべて「理想」という言葉で綺麗に表現しているのかもしれないが、その成り立ち・スタートは「不満」から生まれているのかもしれない。
それではありのままの今を認められず、なので順算が使えない、ということだ。
社会的に人は「ありのまま」のままではいけないこともたしかだ。しかし「ありのままではない自分」になるにも、まずはありのままの自分を包容しなければならない。そういう意味では、「ありのままでいい」んだよ。
なんだか漫画「バガボンド」の武蔵と沢庵和尚のやり取りのようなイメージが浮かぶ。こうして禅問答的な応答を経て気づいていく。
この発見はまだ感覚的だが、なんか、ちょっとわかった気がする。自分への不満を手放して、今を認めることができるか。実際にそうした行動が取れるか。
「Aをするためには、まず何かを用意しなきゃいけない」と考えるなら、それを用意するための行動(思考)にとりかかろうとする、これが逆算的。
Aを始めるのであれば、用意にとりかかるのでなくA自体にもうとりかかるのが順算的。
それは結果的に同じ行動をするとしても、その実際の進み具合は、逆算と順算では速度もストレスも手間も違うことはわかる。
自分への不満を手放せば、「まだナニカが足りない」と感じる自分も受け入れれば、順算で動けるのではないか。これを試して、また明日のnoteに書く。(追記:他に書きたいネタがあったので書かなかった)
✑60分|1400文字
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?