甘えられる環境があること|#696S
毎日投稿696日目。昨日は自分が今ダウナーモードに入っているよといった内容を投稿した。
よーするにメンタル不調だ。布団から出られませんというほどではないのだけど、朝起きた瞬間から落ち込んでいる。普段やる気満々で1日をスタートすることが多い私にとってこの状態はめずらしく、これは半年以上ぶりのことだ。しかし年に1度くらいは起こるような不調でもあり、まあ心の風邪みたいなもんだろうと思っている。
心の風邪みたいなものとは書いたがそれなりにつらい。現在は、自分自身の取り扱い方法に長けてきていること、自分の調子を整えるための各種の習慣が身についていることによって日常生活は送れているけれど、昔の自分であれば動けなくなり長い下り坂に入っているところだ。
そんな状況を上記の記事に書いたところ、みなさまからのエールを感じる「スキ」や記事へのコメント、直メッセなどをいただいて、気持ちがほっと救われた。
そうして思ったことは、もうこの毎日noteは私が自己変革を目指しているだけの孤独な場所ではなく、自分の生存報告の場所でもあり、健やかな精神を保つために助けてくれる1つの"場"になっているのだ。
場とは自分1人では成り立たないものだ。だから嬉しくありがたい。読んでくれている方々、反応をくれる方々に、また別の次元からの感謝が生まれた。
あーーなんか毎日書いてきてよかったなあという思いも浮かぶ。
それとは別に、直接「しんどい」と言える相手(それをきちんと受けとめてくれる相手)がいることもそうだし、さらに別に、自分の調子を明かすことなく気楽な雑談ができる相手やそのような場があるということも(私にとっては毎晩やってるふりかえり会や最近はmixi2などもそう)、心の安定、安心になる。
自分が甘えられる相手がいるか。甘えられる環境があるか。そんな相手や環境がいくつあるか。これが「ない」のはかなりキツいが、少ないと特定の相手にばかり負担をかけてしまうので、ある程度いくつもの場所がほしい。これは重要な心のライフラインだ。
「自立とは複数の依存先を持つことだ」とよく言われるが、それをこれまでの理解とはちょっと違う角度で実感することができた出来事だった。やっぱりたまに落ち込んでみるのも悪くない。
そのようにしてありたがさを感じるからこそ、そんな相手や場をもっと大切に、「メンテ」という言葉を使うとなんだか機械的な気もするが、ようは関わってくれる人たちがすこやかであれるように、私ができる何かをまた返していきたいと思う。
ということで今日もまだ復活はならずではあるけど、人の有り難みを感じられてよき1日だった。
p.s.
以下は昨日の記事にいただいたコメントの返信として書いた内容だが、自分の変化として残しておきたいなと思ったためこちらに詳細を書き残す。
私はこれまで「行動は存在の価値を左右しない」といった考え方を、「自分発の行動に対してだけ」使っていた。
よーするに、自分のとった行動がどんな結果になったとしても、自分の存在としての価値は変わらないのだと。だから、結果を恐れずこだわらず、やっていけばいいと。失敗したからダメではないし、成功したから特別でもない。
しかし今回のダウナーモードに入って得た発見として、「(相手の)行動は(自分の)存在の価値を左右しない」というように、他人が私をどう評価しても、他人が私に何をしても、同じように私の存在価値は変わらない、という解釈に進化した。
こういうものは、「それが腑に落ちるか」がとても重要だ。言葉としてだけ聞いても、知識として頭にあっても、しっくりくるまでは何も力を及ぼさない。
腑に落ちるためには多様な人生経験が必要で、快楽も苦悩もそのための栄養になる。どんなことでも自分が前に進むための材料にできるが、今回このようなことが一段深く「腑に落ちた」のは、とてもよいことだったなと思う。
こうしてまとめるきっかけとなったコメントをくれたsugamariさん、ミトさんも、ありがとうございました。