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15. この物種は

慶応二年二月七日の夜遅くに、教祖は既にお寝みになっていたが、
「神床の下に納めてある壷を、取り出せ。」と、仰せになって、
壷を取り出させ、それから山中忠七をお呼びになった。

そして、お聞かせ下されたのに、
「これまで、おまえに、いろいろ許しを渡した。なれど、口で言うただけでは分かろうまい。
神の道について来るのに、物に不自由になると思い、心配するであろう。
何んにも心配する事は要らん。
不自由したいと思うても不自由しない、確かな確かな証拠を渡そう。」と
仰せになって、その壷を下された。

そして更に「この物種は、一粒万倍になりてふえて来る程に。
これは、大豆越村の忠七の屋敷に伏せ込むのやで。」と、 
お言葉を下された。 

そして、その翌日、このお礼を申し上げると「これは家の宝や。道の宝やで。結構やったなあ。」
と、お喜び下された。 

これは、永代の物種として、麦六升、米一斗二升、小遣銭六十貫、酒六升の目録と共に、四つの物種をお授け下されたのであった。

それは、縦横とも二寸の白い紙包みであって、縦横に数条の白糸を通して綴じてあり、その表にそれぞれ、 
「麦種」「米種」「いやく代」「酒代 油種」というように、
教祖御手ずからの筆でお誌し下されてある。

教祖が、この紙包みに糸をお通しになる時には、 
なむてんりわうのみこと なむてんりわうのみことと、唱えながらお通しになった。

お唱えにならぬと、糸が通らなかった、という。
これは、お道を通って不自由するということは決してない、という証拠をお授け下されたのである。

 註 六十貫は、当時の米二石七斗、昭和五十年現在の貨幣九四五〇〇円にあたる。

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山中忠七先生は、この当時最も熱心にお通り下された先生の一人で、
本部の祖霊殿の歴代の真柱様や、本席様と同じ、
真中のお社に祀られています。

その目録に書かれたものとは、当時の農村の人にとって途方もなく価値の高いものだったそうです。

この逸話は、信仰を続ける上で、経済的に不自由になるという人間思案を捨てて、一心に信仰し、御用をつとめていれば、必要な分は与えられ、心配することはないという意味です。

それには、確かな証拠として与えられた「種」を目録通りに育てるには、
神一条の精神が何より大切なことだということです。

この道が確かなものであるということを、いかに信じるかが重要だということを遺して下さったお話なのですね。


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