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音楽家と歴史・社会 -20: パリでのショパンの活躍と「別れのワルツ」

主にクラシック音楽に係る歴史、社会等について、書いています。今回は、私が最も好きな作曲家であるフレデリク・ショパン(1810-1849)のパリ時代の活躍とピアノ曲「別れのワルツ」(ワルツ第9番変イ長調作品69-1)について書きます。本曲は、現在、私自身が挑んでおり、先生から特別な指導を頂いているところです。
「第5回 ショパンの前半生」の続きとして、読んでいただけますと幸いです。

以下、ショパンの本名”Fryderyk Franciszek Chopin”のポーランド語の発音に近い日本語として「フレデリク」と表記します。

5.パリ社交界へのデビュー
1831年9月、パリに到着したフレデリクは、自分がポーランドに二度と帰国することがないとは予想していなかっただろう。ポワソニエール大通り 27番地で暮らし始めたフレデリクは、パリの社交界の中心であるサロンに姿を現すようになる。フランス革命以降の産業の発展で富を得た、ブルジョワ階級の社交の場である。
実は、ショパンの名は、パリでもそれなりに売れていた。1831年12月、ロベルト・シューマンが、彼の作品「ラ・チ・ダレム変奏曲 作品2」を評して、「一般音楽新聞 Allgemeine musikalische Zeitung」に「諸君、脱帽したまえ、天才だ」と絶賛した記事が知られていたと考えられる。
フレデリクは、1832年2月26日、ブレイエルサロンでの最初の演奏会の大成功を皮切りに、ベルリオーズ、リスト、ベッリーニ、ハイネ、ドラクロワ他、多くの芸術家や著名人と出会い、交流を深めた。そして、ヨーロッパ中から集まる多くの弟子にピアノを教えることで、かなりの収入を得た。
また、パリには、ロシアからの迫害を恐れるポーランド人が多く移り住んでおり、ロマン派詩人で政治活動家のアダム・ミツキェーヴィチとも友人となった。フレデリクが生んだ4つのバラードの着想が、ミツキェーヴィチの詩から得られたとのロベルト・シューマンの報告があるが、信ぴょう性は低い。

パリのポーランド図書館のサロン・フレデリック・ショパン

6.フレデリクのピアノ演奏の特徴
既に、ピアノのヴィルトゥオーゾとしての地位を得ていたフランツ・リストなどと比べて、フレデリクのピアノ演奏は難があった。ピアノの音量が小さく、大きな会場ではよく聴こえない。また、演奏にむらがあったため、正式な演目に沿った演奏活動には向いていなかった。
このため、繊細さや精緻な工夫が喜ばれるサロンが、フレデリクの活躍の場となった。
フレデリクの手は、どんな形、大きさだったのだろうか。彼の死後、彫刻家クレサンジュが顔と左手の型を取り、デスマスクとデスハンドを制作してくれたおかげで、細く華奢な手だったことが判明している。手のひらは小さいが、指が長く、特に小指が長かった。おそらく10度の和音を弾くことができただろう。
先生に言わせると、フレデリクは、"タコ"のようにサロンのピアノを弾いていたらしい。

7.マリアとの出会いと別れ
1835年、フレデリクは、ボヘミアに旅行し、カールスバートで両親と再会した。そして、パリへの帰路のドレスデンにおいて、ポーランド人貴族のヴォジンスカ伯爵一家に会い、令嬢のマリア(当時16歳)の魅力と芸術の才能に惹かれ、恋に落ちてしまう。翌年9月、フレデリクは、ヴォジンスカ家とともに休暇を取り、マリアに求婚したところ、それは受け入れられ、伯爵夫人のテレサも一応認めた。しかし、マリアが若年であることに加えて、フレデリクの健康に問題(肺結核)があったことから、結婚は延期され、最終的には、ヴォジンスカ一家側が二人の婚約を破棄する結末を迎えた。

マリア・ヴォジンスカ

フレデリクは、1835年9月、マリアと会った夏の終わりにドレスデンを去る朝、ワルツ第9番変イ長調作品69-1を作曲したらしい。
本曲は、フレデリクの生前には出版されず、1853年、ユリアン・フォンタナにより出版され「別れのワルツ」と呼ばれるようになった。曲はロンド形式であり、心が蕩けるような半音階下降進行と三連符を含んだ旋律が主題で、ヘ短調風に始まって変イ長調(As-Dur)となる。中間部では、マズルカ風のリズムや三度の和声による部分があり、フレデリクの心象を示しているようだ。
ベートーヴェンのピアノソナタなどと比べて、自由(ロマン派風で気ままに?)に弾くことができる。いわゆるルバート奏法なども使える(10年前に沖縄で親しい人に弾いてもらった)。
なお、先生からは、右手の指のどの部分で打鍵するかを教えていただいたが、秘伝なので、ここには書かない。

傷心のフレデリクにとって、転機となったジョルジュ・サンドとの出会いについては、稿を改めたい。

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