「清和源氏」の歴史⑩
「鎌倉殿の13人」で脚光を浴びている「清和源氏」の歴史について書いています。今回から、源頼朝と弟、従兄弟達の活躍が始まります。
伊豆国に流された源頼朝は、1179年頃、地元豪族の北条時政の娘(後の政子)と結婚し、長女の大姫をもうけた。
北条時政は、1028年の平忠常の乱において、追討使を罷免された平直方の五代後の子孫とされる。Part 3で記載した通り、平直方は娘を源頼義に嫁がせて、生まれたのが八幡太郎義家である。源頼朝と北条時政は祖先を同じとしている可能性がある。しかし、時政以外の北条一族の活動記録が乏しく、疑問視する向きもある。
ただ、北条氏は、京との縁を重要視してきており、伊東祐親の娘であった最初の妻が死去した後の後妻として、平家に仕える牧宗親の娘を迎えた。
1180年、以仁王と源頼政が平家打倒を目論見、挙兵するが、直ぐに鎮圧されてしまう。伊豆国の知行国主は平清盛の義弟平時忠となり、北条、土肥氏等地元豪族が逼塞することが予想された。
他方、源義朝の末弟の源行家は、以仁王による平家打倒の令旨を全国の源氏に伝え回り、源頼朝のところにも来ていた。
源頼朝は、この令旨を奉じ、地元豪族の支援を求めて、立ち上がる。まずは、伊豆国目代山木兼隆を襲撃して殺害し、石橋山の合戦に臨むが大敗する。
しかし、箱根山から真鶴半島を経由して海路で安房国に脱出し、体制を立て直した。
房総半島の豪族、安西氏、千葉氏、上総氏等は、源頼朝を担ぎ上げて、平家による支配に対して、反旗を翻した。治承・寿永の乱が本格化する。
別名、源平合戦と呼ばれるが、ことは単純ではなく、まずは清和源氏の中の主導権争いが始まる。
(つづく)