音楽家と歴史・社会 -26: 伊福部昭の音楽(現代音楽家としての原点)
主にクラシック音楽に係る歴史、社会等について、書いています。
今回から複数回にかけて、作曲家の伊福部昭(1914年-2006年)を紹介します。
その前に、令和6年能登半島地震でお亡くなった方々のご冥福をお祈りするとともに、被災者の皆様へのお見舞いを申し上げます。
2024年元旦午後4時過ぎ、スマートフォン等を通じた緊急地震速報は、日本中を驚愕させた。東日本大震災を契機に、不気味なチャイムの音は、日本人の心の奥底に刻まれている。
このチャイム音を発案したのは、工学者の伊福部達(1946年-)(東京大学名誉教授、北海道大学名誉教授)である。音響学、医療工学等で活躍しているが、伊福部昭の甥というのが、わかりやすいだろう。
伊福部教授は、2012 年「音の日」記念講演において、あのチャイムの題材として、叔父の伊福部昭の代表作である交響曲「シンフォニア・タプカーラ」(初版 1955)の第三楽章Vivaceを用いたことを明らかにした。
出典:JAS Journal Vol.53 No.2(3 月号)https://www.jas-audio.or.jp/journal-pdf/2013/03/201303_004-010.pdf
伊福部昭は、1914年、北海道釧路町で生まれた。父の伊福部利三は警察官であったが、十勝の音更村の村長となり、小学校の時に引っ越す。そこで、アイヌの生活・文化に触れる機会を持ち、大きな影響を受けた。上記「シンフォニア・タプカーラ」は、アイヌの人々に対する郷愁から作られた曲である。
1926年、札幌第二中学校に入学し、後に音楽評論家となる三浦淳史と出会う。音楽に関心を持ち、ヴァイオリンを独学で習得する一方、三浦から作曲を勧められる。北海道帝国大学農学部林学実科学校に進学後、「札幌フィルハーモニック弦楽四重奏団」を結成するとともに、「ピアノ組曲」等の作曲に取り組む。
大学卒業後、北海道庁に就職し、厚岸森林事務所に勤務する中で、「日本狂詩曲」を作曲した。そして、当時の日本の若手作曲家を支援するためにアレクサンドル・チェレプニン(1899年-1977年)が設立したチェレプニン賞の一位に入賞し、賞金300円を獲得した。
伊福部は、同賞の審査員名簿にモーリス・ラベルが掲載されていたので応募したのだが、実際にはそうではなかった。私は、このエピソードから、「ゴジラ(メインテーマ)」の某フレーズとモーリス・ラベルのピアノ協奏曲ト長調第3楽章との類似性に関する伝説が生まれたのではないかと想像している。
1938年、上記「ピアノ組曲」がヴェネツィア国際現代音楽祭に入選するなど大活躍するが、公務員を本業としたアマチュア作曲家の青春は、第2次世界大戦の下、暗転していく。
1942年、日本夜光塗料研究所において戦時科学研究に従事していた次兄の伊福部勲(アマチュアギタリスト)が、放射線障害により死去する。1943年、勲に捧げる「交響譚詩」はビクターの作曲コンクールに入賞し、レコード化された。
しかし、伊福部昭自身も宮内省帝室林野局林業試験場において、放射線による航空機用木材強化の研究に携わり、防護服もない中で体調が悪化。血を吐き、長期静養することとなる。
終戦後、定職となった伊福部昭は、東京音楽学校(現東京藝術大学音楽学部)の作曲科講師として招聘され、芥川也寸志、黛敏郎などを教えた。
純粋な現代音楽を志向する伊福部であったが、戦後の復興期において、映画音楽の作曲に携わることとなる。1947年の東宝製作・配給「銀嶺の果て」は、三船敏郎のデビュー作であるとともに、伊福部が最初に音楽を手掛けた作品であった。「社長と女店員」(1948年)、「静かなる決闘」(1949年)など、毎年多くの映画音楽を担当することとなる。
そして、1954年、伊福部昭の音楽人生を変える映画に出会う。それは、「特撮」と呼ばれる特別なジャンルに属し、かつ、因縁ともいえる放射能の恐怖を描いた作品であった。
(続く)
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