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音楽家と歴史・社会 -34: 大作曲家シューベルトの実像に迫る

主にクラシック音楽に係る歴史、社会等について、書いています。
今回は「歌曲王」として知られるフランツ・シューベルト(1797-1828)(以下「シューベルト」)の生涯を通じて、唄心の意味と音楽家の名声などについて、考察します。

シューベルトを取り上げるのは、以下の2つの出来事がきっかけである。

(1) 2024年7月10日夜、東京芸術劇場にて「小林愛実 ピアノ・リサイタル」を聴いた。反田恭平氏との間のお子様の出産後、本格的な復帰となる演奏会において、最初に弾いたのがシューベルトの即興曲集 D935であった。2021年11月のショパンコンクール第4位になった直後の時事通信社によるインタビューにて、彼女は「ずっとシューベルトの作品を弾いてみたいと思っていました。(中略)シューベルトを中心に、どこかにシューベルト作品を置きながら組み立てていきたいと思います。」と答えていた。(脚注参照)

(2)私自身が受けているレッスンにおいて、先生から「シューベルトのピアノ曲は、歌うように弾く技術が求められるので、とても難しい」と教えられた。確かに「アヴェ・マリア」「セレナーデ」「菩提樹」などのメロディは有名すぎて、余程の技術がないと、聴くものを感動させることは困難である。ショパンの楽曲とは違う意味での唄心が必要なのかもしれないと思った。

そこで、シューベルトについて調べてみたところ、驚きの事実が判明したので、以下に記す。

■シューベルトの師匠は、サリエリだった。

シューベルトはウィーン郊外のリヒテンタールで生まれた。父親のテオドールは、教師を職としており、シューベルトの兄たちも教職についていた。シューベルトは、幼少時からヴァイオリンの演奏などで特異な才能を示し、聖歌隊に入った後、「コンヴィクト」と呼ばれる寄宿制神学校に入学した。その学校の指導者がアントニオ・サリエリであった。
サリエリは、1984年に映画化されたミュージカル「アマデウス」において、モーツァルトの才能を妬み、死に追いやろうとする敵役として描かれているが、全て虚構である。

サリエリは良質な音楽教育をシューベルトに授け、シューベルトが「コンヴィクト」を離れた後も個人的に指導した。シューベルトは、この時期(10代後半)、古典主義と啓蒙主義に基づく理想の音楽を目指しており、サリエリとの間で多くの議論がなされたと推測される。
また、父親のテオドールは、個性的な人物で息子たちに対する強権を振るっていたとの説もあるが、「コンヴィクト」に入れたり、サリエリによる個人教授を受けさせるなど、シューベルトの才能を伸ばすために重要な役割を果たした。

■シューベルトは、早期にベートーヴェンと匹敵する交響曲の大家になっていた。

これは大議論を招くテーマかもしれない。
1828年に31歳で生涯を閉じるまでの最期の数年間に作曲された膨大な歌曲、室内楽などがあまりに名曲揃いであったため、「歌曲王」と称されてしまい、20歳頃までに完成した6つの交響曲に対する知名度が不当に低いようだ。せいぜい第4番「悲劇的」くらいしか、演奏会で取り上げられることはない。

また、有名な第7番「未完成」と第8番「大ハ長調」(日本では「グレート」と呼ばれる)については、傑作であることは論を待たないが、ベートーヴェンやブラームスの交響曲に比肩されるまでの評価はされていないと思う。
「未完成」については、シューベルトが作曲中に急死したと思っている人が多いが、事実は、1822年に第1楽章・第2楽章を作曲した後、なぜか中断してしまった。長く日の目が当たらなかったが、1865年12月17日、ウィーンで初演されてから、有名になった。特に、21世紀のレコード文化の隆盛期に、LP版として「運命」と「未完成」のカップリングが爆発的に売れたことで、シューベルトの代表作の一つとなっている。ちなみに、筆者が初めて購入したクラシック音楽のレコード、このカップング盤であった。

「大ハ長調」の番号は、筆者が大学生の頃は、第9番とされていたが、国際シューベルト協会(Internationale Schubert-Gesellschaft)が1978年のドイチュ目録改訂において、「未完成」を第7番、「大ハ長調」を8番とした。現在の日本での付番はそれにならっている。私自身も、亡くなる間際に作曲していたのであれば、「未完成」が第9番になるはずと思っていたのだが、その疑問は、氷解した。
「大ハ長調」も、シューベルトの生前には演奏されず、1839年1月、ロベルト・シューマンが、シューベルトの兄フェルディナンドを訪問した際に、埃の積もったシューベルトの机から自筆譜を発見した。シューマンは、当時絶頂期のフェリックス・メンデルスゾーンに楽譜を送付し、同年3月21日、メンデルゾーン指揮、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の演奏によって、初演された。

私自身の思い出もある。京都大学交響楽団に入団した年の夏の定期演奏会で、大町陽一郎氏の指揮により「大ハ長調」が演奏された。チェロ・パートの初心者であった私の出番はなかったが、第4楽章の弦楽による天国のような永遠の刻みは忘れることができない。

いずれにせよ、一般人にとっては、「未完成」交響曲を知っていたとしても、あくまで歌曲(リート)の作曲が、シューベルトの本職として認識されているのは事実だろう。

■シューベルトは、生前に十分な名声を得ており、晩年の生活が貧乏であったとは言えない

上記の通り、「未完成」と「大ハ長調」が生前に出版されず、演奏されなかったことから、シューベルトの楽曲は評価されず、経済的にも恵まれなかったと長く考えられてきたが、これはおそらく誤りである。

シューベルトの一生はほぼウィーンで完結したが、ドイツ語圏内では、彼の才能は少年時代から有名であった。最初のオペラ「悪魔の別荘」(D 84)と最初の「ミサ曲第1番 ヘ長調」(D 105)は、ともに1814年、17歳の時に書かれた。
1814年~1815年のウィーン会議においては、ナポレオン戦争終結後のヨーロッパの秩序再建と領土分割が議論されたが、外交の場の緊張を和らげるために音楽のイベントが多数催された。ベートーヴェンの弦楽四重奏曲などが演奏されたらしいが、少年シューベルトの作品が紹介されていた可能性もある。

シューベルトは弱冠25歳の時、グラーツの音楽協会から「名誉ディプロマ」を授与され、返礼として「未完成」交響曲の第1楽章・第2楽章を送ったのだが(これにより第3楽章以降が作られなかったとの説あり)、世間から見て最も嘱望された作曲家であったことは間違いない。

極めつきは、1827年3月26日にベートーヴェンが死去した時の棺を背負う大役である。ウィーン市民は、2万人の大葬列をなしてベートーヴェンを弔うとともに、シューベルトを後継者として見做していたのだろう。

では、なぜシューベルトが生前評価されなかったとの説が流布したのか?
これは、歌曲や小品のメロディがあまりに美しく、流行歌的に普及したため、交響曲など大作の出版が採算上の理由等で見送られてしまったことと、後世の音楽ビジネスにおいてシューベルトに清貧のイメージを与えて、歌曲や「未完成」を売り込もうとしたからではないだろうか。具体的には、1933年のオーストリア映画「未完成交響楽」(Leise flehen meine Lieder)においては、シューベルトは、貧しい作曲家として描かれ、貴族の令嬢との悲恋に落ちる。

現代においても、伊福部昭の「ゴジラのテーマ」はだれでも知っているが、「シンフォニア・タプカーラ」や「日本狂詩曲」はほとんど(残念ながら)無名だ。
(要参照)音楽家と歴史・社会 -26・27: 伊福部昭の音楽

結論として、シューベルトは、ベートーヴェンよりも早熟で、10代で既に大作曲家となっており、20代で世間からの相応の評価を受けていた。しかし、「アヴェ・マリア」「菩提樹」「魔王」など歌曲が有名になりすぎてしまったので、大曲の楽譜出版による収入がほとんど得られなかった。これにより、不遇の人生を送ったという都市伝説が生まれた。
ただし、性病(梅毒)による症状の悪化や原始的な対症療法による副作用などにより、31歳の若さで亡くなったこと自体は、とても気の毒ではある。

最後に、小林愛実の演奏を参考にしつつ、シューベルトの美しいメロディを活かせる唄心を修得するとともに、初期の交響曲やピアノソナタも聴いてみたいと思う。
【参考URL】「今はシューベルトが弾きたい」と解放感 小林愛実さん、ショパン国際ピアノコンクールを語る:時事ドットコム (jiji.com)



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