音楽家と歴史・社会 -36: プッチーニが描いたボヘミアンとは?
主にクラシック音楽に係る歴史、社会等について、書いています。
今回は、イタリアの作曲であるジャコモ・プッチーニ(1858年 - 1924年)の傑作オペラ「ラ・ボエーム」を採り上げて、19世紀中頃に確立したと考えられる芸術家の一つのイメージについて考察します。
Facebookの友達限定でクイズを出した。
・2つの世紀にまたがって多くの名作を書いた作曲家は誰か?ヒントは、「伝統や習慣にこだわらない自由奔放な・・♫」
実は、ヒントは作曲家ではなく、その最高傑作の一つの名称を示す。「・・・」をコピペしてネット検索すると、即座に「ボヘミアン」が出てくる。
「ボヘミアン」の字義は、文字通り、チェコ共和国の中部・西部の歴史的地名「ボヘミア」に住んでいた民族を指すが、西欧の人々は、ロマ(ジプシー)をそのように呼んでいた。流浪の民を意味していた「ボヘミアン」は、1849年、フランスの小説家アンリ・ミュルジェールが発表した連作短編小説「ボヘミアン生活の情景」 (Scènes de la vie de bohème) において、定職を持たない芸術家など世の中に迎合しない人々として、再定義された。
フランス語の「ボヘミアン」は、"bohème"であり、日本語で発音すると「ボエーム」となる。
イタリアのトスカーナ地方のルッカで誕生したジャコモ・プッチーニ(以下「プッチーニ」)は、ジュゼッペ・ヴェルディのオペラ「アイーダ」に感動し、オペラの作曲家を目指した。1880年代に頭角を現したプッチーニは、「マノン・レスコー」を出世作とし、脚本家ルイージ・イッリカとジュゼッペ・ジャコーザとの協力の下、上記小説「ボヘミアン生活の情景」のオペラ化に取り組む。しかし、同時期に、「道化師」の作曲で成功していたルッジェーロ・レオンカヴァッロが同じ構想に取り組んだことから、ある種の競合プロジェクトとして世間の注目を引くことになった。
結果として、プッチーニが作曲した「ラ・ボエーム」が圧倒的な名声を得た。(英語経由で日本語表記にすると「ザ・ボヘミアン」となるのだろうか?中森明菜や葛城ユキの歌謡曲の題名?)
「ラ・ボエーム」は、花の都パリにて、自由奔放に芸術を愛し、詩歌、音楽、絵画及び哲学に勤しむ4人の若い男性たちと、お針子のミミ、歌手のムゼッタとの交流、恋愛模様を描いた、誠にロマンティックなオペラ作品である。
登場人物による独唱、重唱、合唱などは名曲揃いだが、私が好きな唄は、ミミのアリア「私の名はミミ」"Sì, mi chiamano Mimì"と、ムゼッタのワルツ「私が街をあるけば」 "Quando me'n vo soletta per la via"の2曲である。
面白いことに、パリを舞台にしていても、イタリアオペラでは歌詞はイタリア語である。フランスの作曲家ビゼーが作曲した「カルメン」が、スペインを舞台にしているのに、歌詞がフランス語であるのと、原理的には同じである。
クリスマス・イブの夜、蠟燭の火を絶やしたミミは、同じアパートに住む詩人ロドルフォに火を借りに来るが、これは偶然ではなくミミが予め計画していたという説がある。上記のミミのアリアも、初対面で交わす挨拶としては、あまりに甘美すぎる歌詞であり、現代の演劇、映画等では有り得ない出会いだと思う。
他方、画家のマルチェロの恋人だったムゼッタは、裕福な中年紳士のアルチンドロの愛人となる。劇のセリフで出てくるか不明だが、英仏共通語の"Patron"は日本語の「パトロン」になった。21世紀の日本では、ムゼッタの行動は「パパ活」と呼ばれ、19世紀の欧州と変わらない。
ここで、私は、2つの疑問を感じる。
(1)なぜ、19世紀の中盤に、自由奔放な生活を求める「ボヘミアニズム」が誕生したのか?
(2)プッチーニやレオンカヴァッロが「ボヘミアミズム」を題材としたオペラを作曲したのは1890年代だが、なぜ(1)から40年以上も後なのか?
私は、プロの評論家ではないので、確定的なことは言えないのだが、小説「ボヘミアン生活の情景」が発表された1849年が、パリの芸術・文化の一つの最盛期であったのではないかと考えている。これは偶然だが、この年、フレデリク・フランソワ・ショパンがパリで逝去し、親友のウジェーヌ・ドラクロワ達が葬儀に参列した。
19世紀前半のロマン主義は、1848年フランス革命(日本では二月革命と呼ぶことが多い)を経て、新たな段階に入ろうとしていた。すなわち、貴族中心の芸術家から、ブルジョワジー、そして一般市民が文学、美術、音楽等の担い手になる時代になろうとしていた。
しかし、当然ながら、一般市民の多くは、芸術家として成功することはできない。このため、パリに集まってきた若者たちが、定職を持たず、世間に背を向けることが一種の社会現象になったのではないだろうか。
2024年8月18日の東京大学歌劇団本公演「ラ・ボエーム」のパンフレットによると、プッチーニは、ミラノ音楽院(別名:ジュゼッペ・ヴェルディ音楽院)在学の頃、ピエトロ・マスカーニとともに、屋根裏部屋で生活していたされる。
その頃に、プッチーニ達が「ボヘミアミズム」にあこがれていたのかどうかは不明だが、数十年前のパリでのロマン主義へのあこがれを抱きつつ、オペラ作曲の研鑽を積んでいたと想像することは、あながち噓とは言えないだろう。
実際、プッチーニ達が目指した師匠格のヴェルディは、19世紀前半のパリ郊外を舞台にした「椿姫」という傑作を生んでいた。
今回は、プッチーニの視点で、19世紀前半のパリの芸術家たちに思いを馳せてみた。今後は、「トスカ」、「蝶々夫人」、三部作の「ジャンニ・スキッキ」なども聴きこみ、欧州の歴史、文化を勉強したいと思う。
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