音楽家と歴史・社会 -18: アルマに捧げられた交響曲第5番
主にクラシック音楽に係る歴史、社会等について、書いています。前回で描いたグスタフ・マーラー(1860年 - 1911年)の妻アルマ(1879年 – 1964年)の波乱の生涯を紹介します。今、レナード・バーンスタイン指揮による交響曲第5番嬰ハ短調を聴きながら、書いています♪
アメリカ映画「TAR/ター」のクライマックスで、マーラーの交響曲第5番の序奏として、場外からのトランペットの独奏シーンが出てくる。ここで、主人公が舞台に颯爽と登場し、予想もつかない展開となる。
第5番は、マーラーが新妻アルマのために書き下ろした傑作。彼女は、世紀の変わり目のウィーンで、映画や劇を遥かに超えるドラマチックな人生を送った。
アルマ・シンドラーは、画家エミール・ヤーコプ・シンドラーの娘としてウィーンに生まれた。母は、ウィーンの芸術家が集まるサロンを主宰し、アルマは、幼い頃から、絵画、文学、哲学、作曲に才能を発揮した。アルマが13歳のときに父は亡くなり、母は父の弟子のカール・モルと再婚した。
美しく成長したアルマは、歌曲の作曲に取り組み、その美貌と才能は、ウィーンの芸術家たちを虜にした。
世紀末ウィーンを代表する画家のグスタフ・クリムト(1862年 - 1918年)もその一人だった。上流階級の婦人たちの肖像画とともに、女性の裸体を描き、そのモデルとなった複数の女性達と関係を持ったと言われる。
そのクリムトが最も魅せられた女性が、アルマ・シンドラー(当時17歳)だった。二人は恋に落ちたが、クリムトの女性関係を懸念するアルマの両親に反対され、結婚することはなかった。
アルマをモデルにしたとされる絵画は不詳だが、クリムトが1908年頃に描いた油絵「ダナエ」を示しておく。
1900年11月10日、21歳のアルマは40歳のウィーン・フィルハーモニーの指揮者マーラーと知り合う。歳の差は19歳。マーラーは、神経質で癇癪持ちで有名で、オーケストラの団員に対して不遜な態度をとっていた。最初、アルマはマーラーを嫌っていたらしい。しかし、前号で述べた通り、ウィーン・フィルハーモニーの指揮者を辞任したばかりのマーラーは、アルマに求婚し、それが受け入れられる。
しかしその際にマーラーが示した、アルマに作曲を禁じるという条件が、結局、二人の関係を壊すことになる。
ともあれ、1902年3月、二人は結婚し、オーストリア南部ケルンテン州にあるヴェルター湖の南湖畔のマイアーニックの山荘で新婚生活を過ごす。
マーラーは、この山荘で、交響曲第5番~第8番、「リュッケルトの詩による五つの歌曲集」や「亡き子をしのぶ歌」を作曲した。
この年の10月に長女マリア・アンナ、翌年に次女アンナ・ユスティーネを出産したアルマは、ウィーン音楽界の将来を担うマーラーを支えるため、楽譜の清書などに専念するが、マーラーの借金、育児疲れ、交友関係の問題等で、不仲になってしまう。
そして、1907年、長女マリア・アンナのジフテリアによる急逝という悲劇が家族を襲う。
その後、アルマは、魔が刺したのか、本来奔放なのか不明だが、建築家のヴァルター・グロピウスと深い関係となったらしい。1910年、マーラーは、心臓病のみならず神経衰弱に悩まされ、ジークムント・フロイトの診察を受けた。その原因の一つとして、アルマの不倫疑惑があったのは間違いない。
1911年のマーラーの死去の後、アルマは、ヴァルター・グロピウスとの再婚及び離婚、年少のフランツ・ヴェルフェルとの再々婚など、本来の自分を取り返したかの如く自由な人生を送る。
マーラーとの娘アンナ・ユスティーネは、彫刻家として活躍した。グロピウスとの娘マノンは、美少女として知られたが夭折し、アルバン・ベルクがヴァイオリン協奏曲を捧げた。
1938年にオーストリアがナチス・ドイツに併合されると、アルマはフランスに移った。後に渡米し、ロサンゼルスに定住し、サロンを主宰した。ストラヴィンスキー、シェーンベルクなど、欧州からの多くの亡命作曲家が出入りしたという。
次回は、マーラーの交響曲の総括とニューヨーク・フィルハーモニックでの活躍等を掘り下げてみたい。TARが、東南アジアで再起を図ったことと関係があるかもしれない。
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